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【閑話】 曖昧な言葉
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パタンッ
この場の雰囲気とはそぐわない軽やかな音を鳴らし、旭君の姿を呑みこんで扉が閉まった
――何故だろう?
普段なら気にも留めない物だというのに、今はその扉の音を不快に思う
いつも聞き慣れている筈の扉の音が、今は重く響き渡るのだった……―
「…十三年前の事です」
朝霧さんは旭君が出て行った扉を無表情で見つめていた。
「息子が四歳の時に、主人が病気で死にました。病名は息子と同じ、上咽頭ガンで」
「―――…だから、遺伝だとおっしゃたんですね…」
扉から目線を私に戻した朝霧さんは、私の言葉に頷いた。
「誰でも知っていますから、ガンは遺伝が原因で発病するって事は」
遺伝かと尋ねられた時、恐らく朝霧さんのご家族の中にガンになった方がいるのだと理解した。
普通(たいがい)、ガンだと宣告された患者とご家族はこれからの事を聞きたがる物だ。
病気は完治するのか、病気の進行状況、治療方法、治療費や入院費の事など…過去(まえ)より未来(これから)を心配する。
勿論それは当たり前だ。どんな病気であれ、これからが大変なのだから。
しかし朝霧さんが一番に質問したのは、上咽頭ガンが発病した原因。
本来ならば患者側からは話題に上らず、医師である私から話し始める話。
「…検査の日、旭君が言っていました。僕は別に病院に来なくても良いと思ったのだけど、母さんが絶対行けって命令してきたから、仕方なく病院に来たと。あの言葉は…」
「えぇ、そうです。息子の首に出来たしこりを見て主人にも同じ様に首にしこりがあったのを思い出したので」
朝霧さんは苦笑しながら答えた。
「勿論、上咽頭ガンだという確証はありませんでしたし、私自身認めたくありませんでしたから、息子には何も言わずに病院に行かせました。けれど夕方に息子からの連絡にでたら…案の定でした」
「…勘は当たるものですからね」
「嫌な勘なら特に」
朝霧さんは無表情のまま、肩を竦めた。
「では朝霧さん…上咽頭ガンに病期の進行レベルがあるのはご存じですか…?」
案の定、朝霧さんは分かっていたらしい。小さく頷いた。
「えぇ、知っています。ちなみに主人の病期レベルはIVのCでした」
「………」
私は医師にあるまじき行為であるが…思わず言葉に詰まってしまった。
その病期レベルは…上咽頭ガンの末期を現すものだ。
上咽頭ガンは病期のレベルをいくつかに分ける事が出来る。
病期Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ
さらにIVではA・B・Cと分けられる。
つまり旭君のお父様は、手の出しようも無い程、病気(ガン)が進んでいたという事なのだ。
「主人が病院に来た時には既に多数の転移もありました。主人の担当医にはガンは治らないと言われましたね」
「――――…」
そう、このガンの特徴はもう一つある。
確かに上咽頭ガンは化学放射能療法が効きやすく、完治する確率が高い病気でもある。
けれどもガンが他に転移した場合は違い、例えば腰や背骨、肺等に転移すると…ガンを消滅させる事が難しくなってしまうのだ。
ガンが転移した場合、後の治療は症状の緩和のみしかなくなり、最期は…その治療すら無意味になってしまうのだ。
「先生?息子の病期レベルはどれ位なのでしょうか?」
「旭君の病期レベルは…Ⅲという結果でした」
「…主人よりは良いのですね」
朝霧さんが少しほっとした様に呟いた。
だがそれに対し、私は素直に喜べなかった。
確かに、病期レベルだけで見れば旭君はご主人より良いかも知れない。
けれど医師から見れば…大して変わらないというのが本音である。
上咽頭ガンの病期レベルⅠ~Ⅲはそのままだが、仮にそれらをA・B・Cとさらに分けるとしたら、今回の旭君の場合は恐らくⅢの…Cになるだろう。
それは医師(わたし)が思うにあたっては…微妙な所と、言えてしまうのだ…――――
「先生」
「…はい、なんでしょう?」
「先生、息子は…治るのでしょうか?」
主人の様にはならないですよね、私の耳に聞こえる朝霧さんの声は若干震えていた。
その時、私は朝霧さんを見て内心息を呑んだ
私の目の前に座る朝霧さんが、まるで泣くのを堪えるかの様に、体を震わせていたのだ。
「……治りますとは言えません。ですが必ずしも治らないとも言えません」
けど、私は、体を震わせている朝霧さんを安心させる様な言葉をかける事は出来なかった。
暫くの間、朝霧さんは何も言わなかった。私も、声をかけない。
朝霧さんは私の言葉を聞いて瞑(つぶ)っていた目を開けると、小さくため息をついた。
「……いつかこうなるのではないかと、思っていたんです」
「朝霧さん…」
「綾川先生」
朝霧さんは椅子から音も無く立ち上げると、私に向かって頭を下げた。
「先生、息子を…宜しくお願い致します」
「………っ……」
私の声は聞こえてないと願いたい。
(後になって考えれば、私は体を震わせるその姿に、畏怖という感情を抱いていたのだと思う)
そんな朝霧さんの姿を見ていたくなかったのか、私は何も言わず朝霧さんに頭を下げ返した。
?
「あつっ……」
カップに入ったコーヒーが思ったより熱くて、少しだけ舌をやけどしてしまった。
思わず子供の様に舌を出し、やけどした舌を冷気にさらす。
猫舌の私はコーヒーを飲む毎にまるで子供の様に舌をやけどしてしまう。
そんなに猫舌ならカップのコーヒーではなく、缶コーヒーを飲めばいいのにと我ながら思うのだが、缶コーヒーよりカップのコーヒーの方が美味しいので、やけどすると分かっていてもこちらを選んでしまうのだ。
「……はぁ……」
再度飲もうと挑戦してみたが、やはり無理だったので私は大人しく今すぐ飲む事を諦め、大人しくコーヒーが冷めるのを待つ事にした。
「寒いなぁ……」
室内とはいえ、只今二月
室内なので吐息が白くなるとまではいかないが若干肌寒い、だがそのおかげで手に持っていたコーヒーも少しずつ冷めてきた。
これなら大丈夫そうだと思い、カップに口をつける。
うん、美味しい
?
『先生、息子は…治るのでしょうか?』
『治ります…とは言えません。ですが必ずしも治らないとも言えません』
何も考えずに外を見れば、思い出すのは先程自分が言った言葉
「治るかも知れないし、治らないかも知れません…か」
今まで何度も何度も、それこそ数え切れないぐらい言ってきた言葉が…言う度に心に重く圧(の)し掛(か)かる。
言って置いて嫌になる。自分の口から出た、何とも曖昧な言葉に。
新人の頃、この言葉を言う度に辛くなり先輩医師に相談した事があった。
するとある先輩はいつか慣れると言い、ある先輩は治るかどうかも分からないのに断言など以(もっ)ての外だと言った
だから曖昧な言葉を患者側に言うのは仕方が無い事なのだと…けれど
「やっぱり…辛いわね…」
誰もいないこの場所で、誰に聞かれるわけでもないのに、私は小さく呟いた。
医学は日々発展している。
様々な学者が様々な病気を研究し解明していき、そして治療法や薬品が開発されていく。
けれどもそれはほんの一握りの病気だけであって、治療法が見つかってない病気の方が断然多く、治療法や新薬の開発は間に合っていないのが現状である。
だが、勿論希望はある。
治療法が解明され、薬品が開発されるのは、今日かも知れない。
国から許可が出て、患者が薬品を口に入れられる様になるのは、明日かも知れない。
けれどもしかしたら…その患者が生きている内は開発されないかも知れない。
だから医師(わたし)達は、曖昧な言葉で言葉を濁す。
例え治る見込みが少ない病気でも、一欠(ひとかけら)の可能性があるのなら、医師は患者が希望を持てる様に、医師(わたし)達は暖かくそして冷やかに囁くのだ。
それが…医師ができる患者への優しさ…――――――
???
けれど私は思う。
それは、患者にとっての救いの言葉ではなく
私達、医師が患者から逃げられる様にと作られた、逃げ道を作る為の言葉なのだと…
???
ぴぴぴ
「…んっ……そろそろね」
休憩時間終了五分前を知らせるアラームが鳴り、ふっと意識が戻る。
何度か確かめる様に数回瞬きをして、またかと一人苦笑する。
深く考え事をしてしまうと意識がどこかへ行き、周りが見えなくなるのは、私の悪い癖だ。
と言っても意識が遠くへいってる間、人様
(ひとさま)に迷惑をかける様な事はしていないので取りあえず大丈夫。
だが…ただ意識(もしかしたら思考といった方が正しいかも知れない)が無くなり、何を言われてもされても反応しなくなるというだけである(けっこーな問題ですがね…)
この悪癖を友人達は悪くないと言ってくれるが、自身は悪いと思っている。
どうにかして直したいのだが…誰か直してくれないだろうか…
「あれは…旭君……?」
ふと、窓の外に目をやると、中庭の桜の木を背にして、旭君が空を見上げているのが目に映った。
(この寒い中、大丈夫かしら…?)
空を見上げれば、どんよりとした雲が空を包んでいて、今にも雪が降りそうだ。
旭君はジャンバーを羽織っているようだが…この気温でそれだけだと少し心配だ。
(これからの事を考えれば体調を崩す事など以ての外なのだし…)
丁度、近くに中庭へと通じる扉があるので呼びに行こうかと考える。
しかしよく見ると、木を挟んだ旭君の反対側にもう一つ、人の姿があった。
その人は旭君に背を向ける様にして木に寄りかかっているので、顔まで見る事は出来なかったが、旭君より背が大きく、がたいも良いみたいだから、恐らく男の人ではないかと考える。
どうやら旭君はその人と話をしているみたいだ。
「そしたら…邪魔しない方がいいわね…」
(もしかしたら、旭君の友達かも知れないし…)
私は立ち上げかけていた腰を再び椅子に戻した。
けどやっぱり心配だったので目線は旭君に向けたまま、私は丁度良い温度になったコーヒーを飲み干した。
その時、旭君が笑いながら、相手の人をバシバシと叩き始めた
叩かれている人は顔が見えないので分からないが、旭君は凄く楽しそうだ。
昨日話していた時も思ったのだが、旭君は表情をくるくる変える。
あの笑顔を見れば、誰も旭君がガンだとは思わないだろう。
だけどガンはこんな時でさえ、少しずつ旭君を蝕んでいるのだ。
「私は…」
私は旭君を救う事が出来るのだろうか…?
「…っ……」
グシャッ
気が付いたら、私は手元にあった紙コップを握りつぶしていた。
その拍子にカップに残っていたコーヒーが手にかかってしまったが、今の私は気にならない。
カップを握りしめる私の手は今なお力をいれているせいか微かに震えていた。けれどそれは。
(さっきの朝霧さんとは違う震え。これは…逃げだ…)
「…―――最低…」
私は項垂れる頭を手で抱える
「……私の大馬鹿者…」
救う事が出来るのか…なんて、医師である私が思っていい言葉ではない。
救う側の医師が諦めたら、そこで全てが負けるのだから。
救うのだ。彼を、私の持てる全ての力を使って…
「絶対、直してみせる」
想いを、心に刻む。
この言葉(ちかい)を、心に重く、響かせて……
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