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その5
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時折意味ありげな視線を向けてくる柏木をどうにか無視し続けて、ようやく放課後が訪れた時には僕はすっかり疲弊していた。ぐったりと机に伏せたくなるのを堪えて立ち上がる。「雨宮様、さようなら」と控えめに声をかけてくれる可愛いクラスメイトに挨拶を返していると、少しだけ癒された。教室を出て、放課後特有のざわついた廊下を迷いなく歩く。向けられる沢山の視線はまだ慣れないけれどこれも日常だった。
放課後は、僕にとって柏木と話す以上に大変な時間なのである。あ、柏木が嫌いなわけじゃないよ。意味もなく心の中で言い訳をしておく。
要するに、放課後は生徒会のターンなのだ。僕は現在生徒会室へ直行中。廊下にいる生徒の数は、生徒会室へ向かうにつれて少しずつ減っていき、やがて誰もいなくなった。不用意に生徒会室に近づいてはいけないというのが暗黙のルールらしい。親衛隊がそのあたりを取り締まっているようだ。
僕は生徒会が嫌いなわけじゃない。むしろ好きだ。仕事をすると達成感が味わえるし、周囲の期待に応えられるのも嬉しい。
けれどそれが精神的疲労に繋がらないという理由にはならない。むしろ生徒会は僕にとって精神ダメージ兵器だ。原因はとうに判明している。仕事の忙しさも少しはあるけど、それ以上に一番の原因となっているのは、メンバーだ。生徒会メンバーが農家で直搾りの牛乳以上に特濃なのが問題だった。
ま、今更だけど。それに、日々を過ごすにつれて少しずつ慣れてしまってきている。
「くーちゃん」
「……とはいえ会長は能力があるくせにいつも仕事ギリギリだからな……やる気を出してもらいたい……」
「くーちゃん?」
「会計はいつもよくわからない発言ばかりだし……」
「くーちゃん、」
「双子の補佐が騒いで仕事にならないのも問題が……」
「……くーちゃんっ!」
ぎゅむ。
「……っ!?」
ぶつぶつ文句を言っていると、突然全身を体温に包まれて思わず息を飲んだ。体が硬直する。
どうやら後ろから誰かに抱きつかれているらしく、首にまとわりつく二本の腕には大量のミサンガが巻きついていた。総数は二十本ほど。
と、ここまで気付いて僕はようやく体の力を抜いた。というのも、この腕には見覚えがあるからだ。更に言えば先ほど聞こえた声にも聞き覚えがあった。
警戒していた自分が馬鹿らしく思えて、軽くため息をこぼす。
「……離してください、鈴原(スズハラ)先輩」
呆れ混じりに言うと、後ろの気配がゆるやかに笑った気がした。
離れていく体温を感じながら、ようやく解放された体を後ろに向ける。予想通り、なんとも気の抜けた笑顔の鈴原音(オト)先輩が「やっほー」と手を振った。
明るい茶髪は噂では地毛らしい。ゆるふわ天然パーマをポニーテールにして、いつも装着しているシルバーのヘッドフォンは今日は首にかけていた。シャカシャカと音が漏れて聞こえてくるけど、曲名まではわからない。たれ目がちの茶色い瞳は、笑うと更に優しく見える。首にも二本のミサンガを巻き付けている、少し変わった先輩だ。
先輩はゆるゆるとした雰囲気でいまいち掴めない。現に、今まで気配がなかった。人のいないこの廊下なら誰か来ただけで普通は気付くはずだ。
「あは、くーちゃんがお返事しないから悪いんだよ」
「……それは失礼しました」
「無防備はネコちゃんの天敵だよ?」
「僕は人間です」
「わーお、典型的」
鈴原先輩はおかしそうに、けれど少しだけ困ったような、そんな器用な笑い方をした。
鈴原先輩は柏木と同様に、僕を怖がらない数少ない人間だ。言ってて切ないけど。
加えて、僕を腹黒副会長ではないと知る本当に希少な人間でもある。だから僕は鈴原先輩の前ではいつもより力が抜ける。
そこで、ふと気がついた。
「そうだ先輩、昨日のアレ……どういうつもりですか」
「……アレ?」
「校内新聞です」
「……新聞……あーあ、なるへそ」
何度か首を傾げていた鈴原先輩だったが、やがて合点がいったのかゆるりと頷いた。
そう、校内新聞。
それは朔夜が昼休みに音読しやがったものであり、僕の勘違いを増長するものであり、精神ダメージ兵器だった。読んだ時は泣きたくなりました。あの新聞が堂々と校内に掲示されていた時は新手のいじめかと思った。しかもそれを読んだ生徒が怯えたような視線を向けてくるものだから、余計に悲しくなった。
「何故あんな特集を組んだんですか」
何を隠そう、鈴原先輩は校内新聞を発行している新聞部の部長なのだ。
本来は三年生は部長に就くことはできないと校則で決まっているのだけど、鈴原先輩は持ち前の話術を駆使して特例で認められたらしい。ちなみに単に部長専用部屋に入り浸りたいだけという素晴らしい理由だったりする。ゆるすぎるぞ先輩。でもちょっと憧れる。
新聞の記事を思い出してしまい、僕が半分睨みながら文句を言うと、鈴原先輩はゆるい笑みをそのままに困ったように眉を下げた。
「うーん……ごめんね。あれはおれの管轄外でさ。しかも記事の承認は副部長に任せちゃったから」
申し訳なさそうに両手を合わせられてしまうと、怒りの矛先を鈴原先輩に向けることは不可能だった。記事の承認は部長がやれよとかそういうツッコミができるほど僕は無遠慮ではない。新聞部はかなり忙しいので有名だから。校内新聞の発行以外にも、広報の仕事は新聞部に任されることが多い。
行く宛を失った怒りをため息にして吐き出すと、先輩はそれを敏感に感じ取ったのだろう、「ごめんね」ともう一度だけ謝った。なんだか逆に申し訳なくなってきた。
「まあ……良いです、腹黒説はこの際どうしようもないですし」
「あは、みんな見る目ないからね。くーちゃんは優しい子なのに」
「……あ、ありがとう、ございます」
真っ直ぐ褒められて照れない人間はいないだろう。あ、俺様会長様は違うかもしれない。でも僕は照れる。家族以外にこうして褒められるのは慣れていない。視線を逸らして口ごもった僕を見る鈴原先輩の纏う空気が数倍温かいものになったような気がした。
「うーん、でも良かったかも」
「……何がですか?」
視線を戻して素直に首を傾げると、鈴原先輩の溶けるような柔らかい笑顔とご対面した。そういえばこの人も親衛隊持ちだったはずだ。こんな綺麗な笑顔を見たら、確かにモテるだろうなと納得してしまう。
きゅ、と地面を摺り気味に歩く鈴原先輩の特徴的な足音が廊下に響いた。ゆっくりと僕に近付き、じりじりと距離を詰めて、それから先輩は僕の表情を観察するかのようにゆらりと瞳を動かす。少しだけ居心地が悪い。
それは取材中の先輩の顔に限りなく近かった。
抜けたはずなのに、また体に力が入ったような気がした。
「……せ、先輩?」
「…………あは、」
視線に耐えられずに、少しだけ弱ったような声を上げると先輩はまたいつものように気の抜けた笑みを見せた。
ミサンガの巻きついた右腕が持ち上がって、傷一つない滑らかな手のひらが僕の頭をやんわりと撫でる。僕の黒い髪を梳くように、ゆっくりと手のひらが動いた。一歳しか違わないのに随分と子供扱いされている気がするのは果たして僕の気のせいだろうか。けれど先輩の雰囲気が柔らかくて怒るに怒れない。
鈴原先輩は悪戯っぽさを瞳の奥にちらつかせながら、手を放すその瞬間に僕の耳元に唇を寄せた。
「おれがトクベツ、って気がしない?」
え、と……何が?
顔を離した先輩はやけに満足げに笑っていた。なんだこれ、置いていかれた気分になった。いや、鈴原先輩の考えていることはよく僕の常識から逸脱してるけれど。
困惑しているのがわかったのだろう、先輩は僕が口を開く前に「なーいしょ」と長い人差し指を唇に当てて笑う。なんでいちいちやることが様になるんだろう。ちなみに僕はやることなすこと全て腹黒に見えるそうです。イジメか。世の中不公平すぎる。
「それじゃあくーちゃん、今度一緒にお茶でもしようね」
「……え? あ、はあ……わかりました」
「ふくかいちょーさん、お仕事がんばって」
ぼんやりと思考を飛ばしていると、鈴原先輩がゆるゆると手を振ったのがわかった。慌てて目礼すれば、何が面白いのかへらりと笑って僕の横を通り抜けていく。
きゅ、きゅ、と特徴的な足音が人のいない廊下に響き渡って、次第に遠ざかっていった。
なんというか、猫みたいな人だと思う。例えば柏木が近所のボス猫だとしよう。なら鈴原先輩はボス猫にも従わない自由な野良猫みたいな感じだ。うむ、我ながらダサい例えだが的を射ているな。
生徒会室へ再び歩み始めながらこんなことを考えて、自然と頬が緩んだ。きっとこの顔も生徒からすれば腹黒い笑みなんだろう。切ない。
外に面した窓が少しだけ開いていて、入り込んだ風から夏の香りが舞い込んできた。世間一般よりもかなり早い六月頭に新しい生徒会役員が選ばれて、今は七月の半ば。一ヶ月しか経っていないのにすっかり生徒会室への道のりには慣れてしまった。けれど、まだ生徒会副会長の職は板についていないような気がする。一年間の任期の中で僕はどれだけ副会長として役に立つことができるのだろうか。
これから沢山乗り越えなくちゃいけない仕事がある。メンバーはみんな個性的でなかなかまとまらない。
いつだって不安が大きかった。けれど、いつだって楽しみでもあった。
鈴原先輩のゆるゆるな激励になんだか励まされた気がして、僕は再び生徒会室へと歩き始めた。
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