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たとえば
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たとえば、ある日の冬の晩の、冷え切った空気とか。
春先の朝の海とか。
真冬の凍てつく夜の、夜空の満月とか。
「…たとえば、」
そんな、“たとえば”は、
幾つも幾つも此処に、あって。
そんな“たとえば”のある日は、何時も何時も君をふと、考える。
ベランダから、覗き込む其の世界は、まるで自分じゃない何処かの誰かの様で。
吸い込むほどに、冷たく突き刺さるような、あの澄んだ空気が鼻や口から流れ込んでは、僕の肺まで凍てつかせる。
(このまま、)
空と空気が、一つになって。
(…そうだ、このまま)
僕の中の、此の何処へも行けない想いを、全部ぜんぶ、この空気で溶かせてしまえたら、いいのに。
「…春なんて、来なければいい」
ポツリと呟いた言葉。
ふわっと唇から漏れたのは、白い吐息。
芯から温まった身体を通り抜けるような貫くような、冷たさが心地良い。
どんよりと雲に覆われた灰色の黒い空。
絶え間無く降り続けとばかりに、水分を多く含んだ春先の吹雪。
この真夜中に、人はみな眠りに付く頃。
火照る身体と此の鉛みたいな気持ちを、持て余してる。
何時もなら、寒くて嫌いな雪も。
何時もなら、どんよりと暗い不安げな雲り空も。
“はやく、春が来て暖かくなればいいのに”
なんて、悠長な願いも。
今じゃ、如何してだか、全く正反対なんだ。
身体を通り抜ける冷たい風は嫌じゃない。
澄んだ冷たい空気は、此の肺一般に、吸い込んでいたい。
不安げなな雲り空は、何処か安心する。
水分を多く含んだ雪は屋根の上から、ポタポタと水滴に変わる。
滴り落ちる其の音でさえも、今は何処か遠い。
(どうか、雨に変わりませんように)
呟く願いはとても、ちっぽけだ。
春先の雨は、嫌いだ。
手脚は悴むし、濡れるし寒いし。
薄着に為ればいいのか、厚着に為ればいいのか。面倒だ。
それなら、まだ雪の方がましだと思う。
それに。
雨は、春を呼んでくるから。
空気は、冬より暖かくなる。
生ぬるいそれは、冬の凍つく其れとは異なる。
季節は待ってはくれないのだと。
何処か心の中で、ぼおっと考え為せられる。
…思い知らされるのだ。
“春が愉しみだ”
あいつが言ったのか、俺が言ったのか。
一体、何方が先だったろうか。
暖かくなったら、自転車で何処か遠へ行こうか。花見へ行こうか。
雪が溶けたら、色んな場所へ出かけようか。
そんな下らなくも、ありきたりで、他わいな話をしたっけ。
別に、特別冬なんて好きじゃなかった。
寒いのは苦手だし。
風引くし、餓鬼じゃないから雪なんて喜べやしない。
だけど、あいつは好きだった。
如何しようもなく、馬鹿みたいに雪が、冬が好きだった。
それからは、冬が少しだけ、好きになれた。
春の方が好きだったけど、初雪はキライじゃ無くなった。
“桜がみたい”
そんな俺の言葉に、柄じゃ無いだの似合わないだの散々馬鹿にされた。
んなこと、お前に一々言われ無くったって、知ってるっての。
“見たくねぇなら、別にいいよ。
他の奴とでも行くから。”
なんて、可愛げ無く憎まれ口しか叩けない俺。そんな俺にお前はふにゃっと着崩した馬鹿みたいなツラで笑って、“行くよ”なんて言うんだ。
"行くよ。ぜったい、いく。"
何度も何度も断る天邪鬼な俺が、諦めるまで、あいつは何度も何度も、笑いながらしつこく口にした。
それが、嬉しくて嬉しい癖に俺はもっとお前からその言葉が聴きたくて、欲しくて。もっともっと、欲しくて。何度も何度も確かめる様に、お前の言葉を俺は自分の耳にこびりつかせるみたいに、繰り返し求めたんだ。
「馬鹿みたいだ」
暖かくて、心地の良い時間が俺の中でグルグルと渦巻く。
(…馬鹿みたいだ…)
其の熱は、俺の中にずっと有る。
…其の熱は、引いてなんてくれない。
只後引く事無く、まるで俺の中に痕を残すみたいにじりじりと熱を持ち続けてる。
陽だまりの様な、時間なんてもう帰って来ないのに。
寒くて冷たくて凍えてしまいそうな、この冬だけが、何時迄も何時迄も現実であれば良いのに。
大好きだった、春。
柔らかな、風が頬を撫でる。
陽だまりの心地よさに目を細めて。
ほんのりと色付く桜の花弁は、蒼く澄み渡る空に溶けてしまいそう。
全部、全部、あんたを想い出す。
霞んでゆく。消えてゆく。
その声も、匂いも、笑顔も、何一つ。
春になんて、来なければいい。
あんたが薄れてゆくのに、春は季節は、変わる事無く、巡り巡って必ず来るのだから。
雪が止んだって。
日差しが温かくなったって。
桜が咲いたって。
…俺の隣に、あんたは居ないのだから。
雪が好きだった君。
桜が好きだった僕。
笑い合って交わした約束はきっともう、果たされる事は無い。
目蓋を綴じたって、脳裏には妬ましくも羨ましいと思える俺とあんたの笑顔。
好きだと、あんたはいった。
俺もだよと、俺は返した。
此の気持ちに、嘘も偽りは、無い。
けれど、あんたの気持ちは、真実であったのかな。
何時も泣くのは俺ばかり。
泣くとこなんて、見たこともなかった君が。
あの時泣いていたのは、何故、?
そんな君を見ていたら、怒りも憤りも悔しさも悲しさも、全部全部すっと空が晴れるみたいに穏やかになった。
流れ落ちそうな泪は流れる事無く、愛を囁く君に頷き返す事しか出来なかった。
怒って怒鳴って、なんでだって問い詰めて、泣いて散々泣き明かして。
責めて憎んで恨んで突き放せたなら、良かった。
…あんたを、嫌いに慣れたら、どんなに良かったか。
僕等の恋は、きっと此れでおわり。
僕等の愛は、本物と言えるだろうか、?
午前四時。
夜明けが近付く空は、雪なんて降って居なかった。
ぽっぽっぽっと雨音が聴こえ始める、午前五時。地面に打ち付けられるその音。コンクリートの湿った匂い。
雨が上がれば、春は近づく。
(嫌な雨。寒くて、冷たい嫌な)
其れでも僕は、その雨に少しだけ安心した様に眠りに付くのだ。
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