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【 第一章】《第一節》初めての会話
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ある日の下校途上、僕は、潤が僕の前を歩いているのに気づいた。
潤は、古い二階建ての建物の一階にある、小さな書店に入っていった。書店の外壁は、青灰色がかった、天然石のスレート張りだった。『洋講堂』という看板は、建物に合わせてレトロな文字で書かれていたが、新しいものだった。ガラス戸から中を覗いてみると、入り口の狭い、天井まで本棚のあるつくりは、昭和風の書店だった。
引き戸をぬけて、店内に入ると、正面の勘定台で、三十がらみの、店主らしき、眼鏡をかけた中背の男が、積んである本の整理をしているだけで、ほかに客の姿はなかった。
鍵型になった店の、右奥の棚の前に、潤の後姿を見つけた。僕は、潤が何を見ているのだろうと、さりげなくそばに寄ってみた。潤の華奢なうなじに、黒髪がしどけなくまとわりついていた。
僕に気づいて顔をあげた潤は、驚いた表情を僕に向け、唇を開いた。
「瑶、だったよな?」
潤の口から、僕の名を聞くのは初めてだった。僕は、潤と、それまで、話したことがなかったのだ。その黒すぐりのような瞳に初めてまっすぐ見つめられ、僕はどきっとした。
僕は、頷いた。四十人ばかりのクラスメイトですら、僕自身、覚えられなかった。だから、潤が僕の名前をうろ覚えなのは、いたしかたないことだ、と思った。むしろ、僕の顔を見て、僕の名を思い出し、そして呼びかけてくれたことが、この上ない幸運のように感じられた。
潤自身の側に、僕の名を覚えていることが恩恵だと感じさせるようなものがあった。その半ば人を怖じさせる気品のようなものの正体が、単にスノビッシュな雰囲気からくるものなのか、何なのかは、よくわからなかった。
潤が手にしようとしていたあたりの本を眺めると、そこには僕の知らない難しそうなドイツの詩人の詩集や、翻訳小説が並べられてあった。画集のようなものもあった。
「こういうのに興味あるんだ?」
と僕が尋ねると、潤は、一瞬、顔を赤らめた。潤は、僕の問いには答えずに、すばやく何か小さな本を一冊、棚から抜きとって、勘定台へと向かった。
勘定をすませた潤は、
「二階が喫茶室になっているんだ」
と、僕に言った。僕は、潤のあとについて階段を上った。
二階へ上がる階段の左手の壁に、エミール・ガレ風の、大正時代のものと思しきガラス製の花形の照明があり、黄色っぽい光を、赤絨毯の足元に投げかけていた。
木製格子のガラスのドアを押すと、カランとカウベルのようなドアチャイムが鳴り、中はサロンのような、小さな喫茶室で、右手にキッチンカウンターがあり、左手は窓だった。赤いびろうど張りのロココ調の椅子と丸テーブルが数組、奥にアップライトピアノが置いてあって、僕らのほかに客はなかった。
黒いパンツとベスト、白シャツを着た、二十代くらいの若いマスターが注文を聞きにくると、潤は「いつもの」と言ったので「僕も」と真似をした。しばらくしてマスターがコーヒーを持ってきて、
「少し出かけるから、よろしく」
と潤にことわって出て行った。潤は、頷いて、
「ごゆっくり」
などと落ち着きはらって答えていた。
コーヒーカップに唇をつけてから、潤は書店の青いブックカバーのかかった縦長の新書本をめくった。
「何が書いてあるの?」
と聞くと、潤は落ち着いた声で、読んでみせた。それは、翻訳詩らしかった。内容は象徴的で僕には意味不明だったが、潤の声で朗読されると、流れるような言葉の響きとイメージが耳に心地よかった。
「この詩人は同性愛者なんだ」
一区切り読み終わった潤が、本の頁に目を落としたまま、ふいに言った。潤は、詩の内容について、ひとしきり解説していたが、美しい少年と二人きりの状況で、同性愛なんて気まずい話題になってしまったと、僕はどきどきしてしまい、いつ話しを切り替えようか、そればかり気になって、潤の言っていることが、ろくろく頭に入らなかった。
潤は、続けた。
「ここのマスターのコウさんも、同性愛者だよ。恋人に会いに行ったんだ。俺は、いつも留守番している」
僕は、潤が連呼する、同性愛という言葉が恥ずかしくて、返事ができなかった。こんな二人きりの場で、いきなり緊張するような話の展開に、何と返したらいいか、わからなかった。そして、いつも留守番するほどに、信頼されている潤の立場って、何だろう、と思いを巡らせた。単に、マスターと常連客の関係なんだろうか? マスターは、同性愛者だと、なぜ、わざわざことわるのだろう?
「瑶は?」
潤が聞いてきた。
「え?」
僕は、自分が同性愛者かどうか聞かれたのかと思って、呆然とした。潤のうなじに触れたい気持ちは? こうして潤と二人きりでいて、どきどきする気持ちは? 僕は、瞬時に自問した。
潤は聞き直してきた。
「瑤は、好きな人いる?」
「いや、いない」
僕は即答した。
僕は、恋愛経験が全くといっていいほどなかったので、引けめを感じ、恥ずかしくて、恋愛について、自分のことを語りたくなかった。特に、潤のような、もの慣れていそうな級友の前では。潤に、子どもっぽい、つまらない人間だと思われたくなかった。だから、その話は、さっさと終わらせたかった。僕は、話しを潤に振り向けた。
「潤の方こそ、もてるって噂聞くけど、どうなの?」
潤は、すねたような表情をして、
「好きな人には好かれないけどね」
と答えた。
「へえ、潤の好きな人って、どんな人?」
こんな美少年の潤にも、思い通りにならない恋があるのか。僕が興味を持って尋ねると、
「教えない」
と潤は無表情で答え、
「瑶は、キスしたことある?」
と話題を変えてきた。
「ないよ」
また、僕のことか。好きな人だっていないって言ってるのに、したことあるわけないじゃないか。僕は、少しムッとして、ぶっきらぼうに答えた。
中学生の頃からすでに何人もと、とっかえひっかえ付き合っていたという噂の潤の前で、何の経験もない自分の幼さが恥ずかしかった。
「赤くなってる」
潤が、笑みを浮かべた。そうして笑うと、尖った冷たい印象が薄れ、優しく柔らかい雰囲気になった。僕の気持ちが、潤の笑顔に和らいだ矢先、
「じゃあ、俺としてみない?」
と潤は、提案してきた。
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