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赤黒い痕の同族者
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頭の中で声がする。
『××してしまえ。そんな奴。』
震える指先に力が篭る。
『××してしまえ。××してしまえ。』
そうだ、ーーしてしまえ。
今なら誰もいない。気付かれない。
俺がここに来たことも、誰も知らない。
太田さんには行かなかったと言えばいい。
大丈夫だ。ばれない。ばれる筈はない。
ーーでしまえ……
「お前に殺されるんなら本望だなァ。」
声。
「何だ、殺さないのか?」
掠れた、低い声。
それが鼓膜に届き、脳が理解する。
突然、さっきまで気にしていなかった熱がぶり返す。指先に触れている皮膚越しの熱が。血液が。堰き止められていた、熱が。
俺は途端に恐ろしくなって手を離した。
「なあ、殺せよ。殺したいんだろ。」
ぐいっ、と手を引かれる。真っ白い手が手首を掴んでいた。
「殺してくれよ。」
再び触れた熱に指先が震える。目の前がぐらぐらして、指先に釘付けにされたようにそこしか見れない。何だろう。自分の手の下にある、赤い痕。細くて枝分かれしている、赤い痕。痕。赤。赤。
これ、俺がやったんじゃないか?
「……ッあ!?う、わあっああ!」
ドンッ、と俺はそいつを突き飛ばした。弱々しい力で掴まれていた手首は解放されて、掴んでいた手は行き場を無くしたとばかりにだらんと垂れ下がった。
生気がない真っ白い肌に赤い指の痕が残っている。赤黒く鬱血している。これは、これは俺がやったのだ。俺が、首を絞めたのだ。
「…ぅ、うう…うう…」
俺は自分が起こした恐怖に打ち震えた。何でこんなことになったのだろう。首を絞めたのは間違いなく俺だ。感触だってまだ残っている。でも殺意は無かった筈だ。殺したいなんて思っていなかった。いつの間にか、首に手が伸びて…いた、だけで…
ーーそれが妄想ですんでいるのは俺がまだ呑み込まれていないからであって
今朝方頭に浮かんだことが、じわじわと思い起こされていく。
ーーいつ呑み込まれてもおかしくないということ
……殺人妄想。
そうか、遂に俺は呑み込まれてしまったのだ。妄想は妄想に留まることなく、現実にまでその手を伸ばして来たわけだ。最悪だ。
これで俺は、いつでもどこでも殺人を犯す人殺しへと進化してしまったのだ。
「…なァ、何で泣いてんだよ。」
うずくまって涙を流していた俺に、掠れた声が掛かる。喉が圧迫され過ぎて声が上手く出ないのだ。なのに、一回も噎せていない。
「身体がさァ、動かねェんだけど…あれかな、また倒れたのかな…」
そいつは焦点の合わない目で俺を見ていた。半開きの瞼は今にも閉じてしまいそうで、閉じたら死んでしまいそうで。
「……お前、誰だ…っけ。あれ、そうだ。」
だらんとしていた腕が不意に持ち上がった。その大きな手は少し宙を彷徨い、俺の頭の上に降ろされた。殴られるかと思った俺は、身構えていた分、驚いた。
「今日、朝飯食いっぱぐれてさ。」
…は?
「いつもここで食うんだよ、俺。家じゃ食えないから。でもここに来てもどうしても食えなくて、横になったら寝ちゃっててさ。チャイムで起きたんだけど。で、そのまま授業受けてたら3時間目の休み時間にぶっ倒れて。誰だろ、太田かな。に、運ばれて保健室行ったんだ。記憶は無いんだけど。」
ベラベラと訊いてもいないことを次々と喋り出す。何だ、これは。さっきまで今にも死にそうな顔をしていたのに、目は大きく開いてちゃんと俺を捉えている。首を絞められたというのに笑顔だ。状況が理解できていないのだろうか。
「……お前、誰だっけ?」
なんだろう。
「そうだ、今日、朝飯食いっぱぐれてさ。」
なんだろうこの違和感は。
「なあ、」
この違和感。
違和感。
この、いわかん、は。
「お前、誰だっけ?」
ゲホ、と、頭の隅で噎せる声がした。
何でか分からないが、俺は床の煤けた木目を見つめていた。
「おい、」
低い男の声がする。
「おい、大志田。」
俺はゆっくりと声のした方を見る。
煤けた木目に染みた涙の痕は消えていた。
「……目は覚めたかよ。」
生気の無い瞳に怠そうな物腰。肘で支えて僅かに身体を起こしていたそいつは、真っ直ぐに俺を見据えていた。
その首には赤黒い痕がある。
「…………どうせ夢を見るならそれも夢にして欲しかったなあ……」
「あ?」
俺はきっとこの後、昨日みたいに殴って蹴られて散々な目に合わせられるんだろうと思い、それがどこか面倒で逃げる気も起きなかった。
「お前、何で来たんだよ。」
こいつの話すことも頭に入ってこない。
どこか上の空で返事をした。
「……別に…」
「太田に言われて来たんだろ。お前、何か言いてェこととかあんじゃねーの?」
言いたいこと、と、考えて、チリリと白く燃えるようなイメージが広がった。
「殺し損ねたなあ……………」
「はあ?」
「あっ、」
いつの間にかまた木目を見つめていた。不意に飛び出した言葉に脳が覚める。まさかこんな簡単に声に出るとは思わず、聞こえていなかったりしないかと恐る恐る目の前に向き直った。
明らかに呆れている顔があった。
「お前よォ、本当に殺す気ならもっと力入れろよな。お前の握力じゃあ痕になるのが精々だぜ。あ、痕になってんのかこれ?」
見えない首元を見つめて、どこか他人事のように赤黒い痕を触る。ほんの少し薄れているような気がした。
「なあ、大志田、」
軽々しく他人の名前を呼ぶなよ。
「昨日は悪かったな。」
「………はあ?」
その生気の無い目を見つめて、今発された言葉は確かにこいつから出たのだと理解した。
「はあ、って。だから悪かったってよ。」
「わ、っわ、悪かったで、す……済むッ……!」
ああ、言いたいことは山ほどあるのに。何一つとして震える唇からは飛び出してくれない。こんなに頭に血が上ったのは初めてだ。
「ッ…………わ、悪かったで済むか、よ、俺が今日どんな思いで登校して来たか知ってるか。初めて家に来た友達の前で、いや友達かどうかは知らないけど、その、そいつの前でわけわかんねぇ夢の話暴露して、学校来たらまた違う奴の前で意味もわからず泣いて、過呼吸んなって…泣いたんだよ、何でか涙が出るんだよ、お前が俺にしたことフラッシュバックして震えるんだよ。頭が痛いし腹も痛い。湿布貼ってもらったからまだマシになったけど、頰だって痛い。今だって何で昨日あんなことされたかわかんねぇよ、何で俺じゃなきゃ駄目だったんだよ、お、俺が、俺が何をしたって言うんだ!」
もう最後の方は掠れて何を言っているのか自分でも分からなかった。言いたかったことも分からなくて、取り敢えず頭に浮かんだこと片っ端から全部声に出した。思いの外大きな声が出て、自分で自分の声を聞いて、鼓膜が震えて全身に響いて、また涙が出そうになる。意味の無い涙が出そうになる。
俺はちゃんとここにいるだろうか。
「大志田、もういい、泣くなよ。」
まだ涙は出ていない。
「頼むから、泣きやめよ。」
「………泣いているのはお前じゃないか。」
ぼろぼろと透明な雫が白い肌を滑り落ちる。雫にかたどられた肌はどこかこの世界のものではないようで、神秘さを醸し出していた。
潤む緑色の瞳は、とても綺麗だった。
「何でお前が泣くんだ。泣きたいのはこっちなのに。」
「お前が泣かないからだろ。」
「………わけわかんないこと言うなよ。」
ごし、とグレーのカーディガンの袖で擦る。袖には黒く染みができた。
「泣けよ、大志田。親に愛を貰えなかったって、泣け。知らねェ先輩に蹴って殴られてフェラやらされて、悔しくて泣けよ。なのに怒りよりも恐怖が勝った自分に情けなくて泣けよ。そんでお前のこと心配して家にまで来てくれた奴、何事もなかったかのように普通に接してくれる奴らの優しさに触れて、嬉しくて泣いてくれ。」
そいつは涙の痕が残る顔のまま、薄く微笑んだ。
「今生きてるだろ。ここにいるだろ。お前がいくら死のうとしたって、それができないくらい俺はお前の中ででっかい存在になってやるよ。怒りでも恨みでも何でもいい、俺に執着して生きろよ。」
夕暮れの光がカーテンでゆらゆらと揺れる。少し肌寒くなった風が頰を撫でた。
「いざとなったら俺を殺せよ。独りで死ぬのは怖いだろ。俺を殺して、お前も死ねよ。死んで、やっと解放されたって、そん時は笑ってくれよ。」
ずっと俺だけを捉えていた瞳が、意外と長い睫毛に隠れて閉じられる。身体の向きを元に戻して、ああ喋り過ぎた喉が痛い、としゃがれた間抜けな声を出す。
赤髪の緑眼で眉なし。睨むと眉間に皺が寄る。恐い。金髪というだけで殴る。蹴る。恐い。フェラやらされる。最低最悪な人物。
なのに、何故そんな奴の口からこんな言葉が出るのだろう。何故こんなにも心が軽くなるのだろう。
「な………、んで、そこまで……」
「言っただろ、お前に殺されるなら本望なんだ。」
重く閉じられた瞼は開かない。眉間に皺を寄せてほんの少し乱れた息を整えていた。
「お前が死ぬくらいなら、俺は汚れ役でも何でも引き受けてやるよ。そんくらいいいだろ。」
「だ、だから、なんでッ!」
俺の大きな声に少しだけ視線を寄越して、また目を瞑る。間を空けて口が開いた。
「同族。」
『…さあ。同族かもしれない。それだけだ。』
「同族だろ。お前。」
篠原と同じようなことを言うんだな。
「お前よォ、治ったって言ってもよ、まだ完治してないんだろ。だから変な夢とか……ああ、人殺し?みたいな?するんだろ。だから、またいつか死のうとする。俺は、同族減らしたくねェだけだよ。」
そいつは寝っ転がったまま体の向きを変えて、気だるそうな目で俺を見た。
「傷舐め合って生きてく方が楽だろ。……お前さ、腕……腕ちょっと捲れよ。」
左な、と言われてわけもわからないまま袖をずらす。それを掴んで無理矢理引き寄せられた。
「な、何、」
「何だ、無いのかァ、痕。」
残念だなァ、と雑に腕を放される。何なんだと小声で悪態を付きながら袖を直していたら、目の前に白い腕が突きつけられた。その生っ白い腕にぎょっとしたのは白かったからではなく、
痕が。
「俺もうさァ、半袖着れねェんだわ。」
白い肌に浮き出た青い血管。それと垂直に刻まれた痕。痕。痕痕痕。手首の始まりから何本も何本も引かれていて、何重にも重なっていて、肘の手前まで続いている。血は滲んでこそいないが、だが、ほんの少し新しいものもあった。
「俺ももう粗方平気になったけどよ、一時期は本当にやばくてさァ、もう意味わかんねーの。何で死にたいのかもわかんねーの。でももうなんか、なあ、分かるだろ。お前にしか分かんねェんだよ。でも俺はそれ乗り越えて生きてる。お前は受診でもしてそれらしく正されたんだろうけどよ、俺はそんなんして貰えなかったし、」
なあ、どうしたと思う?
ほんの少しにやついた口元で、面白そうに訊く。それを笑い話にできるくらいにまで回復したのなら、それはもう健全者なんだろうなと思った。
「セックス。」
「あ?」
「セックスだよ。分かるだろ。」
何を言い出すかと思えば。
「……真顔で馬鹿なこと言うなよ。」
「そう軽蔑すんなって。死なないためには正解だったんだよこれは。セックスしてりゃ嫌でも死にたいなんて考えられなくなる。精神やられちまった奴はよ、快楽か怨恨に執着して生きなきゃ生きられねェのよ。」
くひひ、と喉で笑い、細まった目が舐めるように俺の全身を見やる。
「だからよ、昨日確かめてやったろ。」
昨日。
「あ、っれのどこがッ……」
「何だよまだ怒んのかよ。いいぜ、好きなだけ吼えろ吼えろ。怒りだ恨みだに身を任せて生きられるもんなら生きてみろ。でもお前にゃ無理だろが。」
笑った目が瞬時に冷たく尖る。鋭利な刃物のように突き刺さる。俺は声帯がやられたかのように声が出なくなった。
「お前は怒りよりも恐怖が勝っちまった。さっき言ったろ。そんで自分自身、情けないって感じた筈だぜ。だからお前、こっち来いよ。」
冷たい目が、そのまま半月型になり嗤う。
「気持ち良くしてやるよ。死にたいとか学校行きたくないとか、些細な悩みなんて馬鹿らしくなるくらいに快楽に溺れさせてやる。俺しかできねェぞこんなこと。お前が欲しいもん全部やるよ。」
突然、ぐいと強く肩を引かれ、俺はバランスを崩して頭からソファに突っ込んだ。それを押さえつけるようにしてグレーのカーディガンが抱く。
胸に抱き締めるようにして捕らえられた。
「愛をやるよ、大志田。」
耳元で、鋭い目に似合わず甘い声が反響する。電流が走るかのように全身に刺激が行き渡り、頭がくらくらした。押し付けられた胸から聞こえる心音が心地よくて、その体温に包まれながら緩やかに瞼を閉じた。
愛が何なのかはよく分からないが、他人の温もりというのは何だかとても懐かしく感じた。
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