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俺が溺死に至るまで(兎赤)
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目が醒めたら、水の中だった。
否、現実を言えば寝入った時のまま布団の中にいた。
ただ、水底から水面を見上げたような…揺蕩う光のような、ちらちらとしたものが透けた青の中に漂って、現実の空間がやたら遠くに見えるのだ。
身体も何だか水圧におされたように怠く、動かすのに苦労する。
酷く億劫な気分のまま視界の悪いのを、自宅の慣れた物の配置を頼りに何とかダイニングへと辿り着いて
「 」
(え?)
キッチンに立っていた母親が何かを話したようなのに、声、が薄らと音、のように聞こえるだけで、何を話したのか分からない。
(ごめん、何?)
更に言えば、自分の言葉も、普段通りに喋っているつもりでいながら、声がまるで出口を探す虫のように頭の中をぐわりぐわりと反響して気持ちが悪くなる。
思わず口を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。
「け じ だ ぶ!?」
慌てて近付いてきた母親の声が、耳元で叫ばれて何とか自分を心配する言葉として聞き取れるようになる。
ああ、まるで本当に水底に沈んでしまったようだ。
『え、あかあし今日学校いないの』
『すみません。少し様子を見るようにと』
『部活は?休むの?』
『授業受けてないのに部活だけ出られるわけないでしょう』
電話がかかってきたのを聞こえ難いからと半ば無理矢理切った、直後に送られてきた文面に苦笑する。
ぱたり、スマホの画面を見ることすら辛くて固定していた手から力を抜けば、そのまま枕元に端末が転がる。
ぼんやりと焦点を天井に戻すと、相変わらずゆらゆらと揺らぐ水面の如き光の影が、白い壁紙に泳いでいる。
呼吸に専念すると確かに酸素は満ち足りている、此処は息の出来ない水中などではない。そう、分かるのに。
一瞬でもそのことを忘れてしまうと、喉に、鼻に、ぜぇぜぇと水が絡みつくような不快な呼吸音が耳の内に篭る。
このまま意識を失ってしまっては、知らないうちに窒息してしまうのではないか。
一瞬のその思考に、ざっと血の気が引く感覚が背筋から足先まで抜けていく。
否、しかし、こんなに身体が動かなくては跳ぶことは疎か、日常生活にさえ支障を来す。
跳べない、自分は、あの人に、相手にされると思うのか。
あの人が求める【赤葦京治】ではない今の"自分"に、それでも、己で価値を見出すことができるか。
(そんなの、無理、だ…)
ごぽり。
肺から息が漏れきってしまったかのようで、脳に酸素が回らない。思考が止まりそうだ。
途端の絶望感に、白んだ視界が更に白濁として焦点を結ばなくなる。
ああ、それならば全てを諦めても良いだろうか。
鈍った思考で最後に過ったのは、そんな想いだった気がする。
「…し、……あし?」
(…?)
耳慣れたような、それでも低く篭って何だか違和感のあるような、そんな音が、自分を揺り起こそうとしている。
すっかり冷たい水底に浸かりきっていたような心地で、身体が強張ってぎっと音を立てているような気がする。
ゆらゆら、抗わず、揺蕩っていたいのに。
「熱は…無いどころか冷てぇな」
額に添えられたびっくりするくらい熱い肌の感触。その、声の主に気が付いて、はっと目を覚ます。
途端にひゅっと入った息で、忘れかけていた酸素が突然肺を荒らすような痛みについ咽せ込んでしまった。
「おい、大丈夫か!?」
(っ…だ、じょぶ、れす)
相変わらず自分の声は遠いのだか近すぎるのだかよく分からない反響を起こして、頭ががんがんと揺れる。
けれど、思わず丸めた背中を熱い掌にそっと撫でられて、漸く詰まっていた息がすうっと気管を通り抜けるのを感じた。
(なんで…ここにいるんですか)
木兎さん。
ちらちらとしたパッシングでうまく顔を映すことができないが、確かに今目の前に居る、ジャージ姿の彼の姿。
いつも試合中にしか見ないような真剣な、というより寧ろ心配そうな表情につい視線が吸い込まれて、さっきまで然程気にもしていなかった視界のちらつきが、急にうざったくて堪らなくなる。
「赤葦が心配だから。居残んないで急いで来たの」
言葉と共に熱い指先で目の淵をなぞられて、じわじわと瞳が潤む。
壁際の時計を見れば、寝落ちてから早数時間、もう陽の落ちきった時刻を指している。
「さすがにサボろうとしたのは木葉にバレて捕まったんだけどな」
別に、それが悪いことだなんて一瞬たりとも思わないのに。くしゃっとした苦笑いに申し訳なさそうな色を浮かべて、分かり易すぎるくらいに眉尻を下げる。
そんな顔を、見たいわけじゃないのに。
そんな顔をさせているのが自分だということに、湧き上がる感情がじわじわと胸を焦がす。でも。
(、そうじゃなくて)
…風邪だったら嫌だから、さっさと帰って下さい。
言った瞬間の反応を見るのが嫌で、依然顔を撫で続けていた指から逃れながら、ふいっと目を背ける。
案の定、横でぴたりと動きが止まった。
直感で風邪なわけはないと分かっているし、仮に風邪だとしても、何とかは風邪引かない、なんて迷信を地でいくこの人に、そんな心配は正直無用だと思っている。
ただ…ただ、この場所に居て欲しいような、居て欲しくないような、そんな感情を天秤にかけたら、存外悩むでもなくあっさりと追い返したい気持ちの方が勝っただけ。なのだけれど。
だってとても惨めだ。
思うように動かない身体は勿論。
聞くだけで心が躍る、その声をくぐもらせてしまう耳も。
一喜一憂するどの瞬間も見逃したくない、その表情に影をちらつかせる目も。
こんなにも役に立たないのなら、引き千切って抉り取ってしまいたいとすら思うのに。
心配させるばかりで、木兎さんを自由に跳ばせてやれる腕も足もなくなったとしたら、やっぱり俺は俺の存在意義を自分に見出せない。
「…あかーし。」
暫く固まったままだった木兎さんが、のそりと動く。
「俺のこと見て」
目ぇ逸らさないで。
自分よりも少し大きい、バカみたいな握力の掌に顔を包み込まれて、さして抗えず木兎さんの瞳に捕われる。
ただその目を見つめようとしても、ゆらゆらと揺れる視界が彼の顔を歪めてしまって、酔いそうな気持ち悪さで目を開けていられない。
ぎゅっと、固く目を瞑った。
「…あかあし、」
いつになく優しい声が、厚い水の膜を透かして、耳の奥を撫でる。
ちゅっと軽い音を立てて、額に温かい唇が触れた。
「赤葦の風邪なら、移されてもいいよ」
だから、今は心配させて、お願いだから。
額と額がくっつく距離で、触れ合ったところから音が振動として伝わって、耳では聞き取れない不鮮明な言葉を身体の中に直接送り込んでくる。
この人は、本当にズルい。
そんな頼みを、俺が断れる筈もないことを知っている。
知っていて、俺が逃げ惑う隙もないように、言質をとって囲ってしまう。
(ぼ、くと、さん)
「うん、なぁに」
絞り出した声を、受け取っているよと言わんばかりに、いつもよりゆっくりとした口調で返事をくれる、
それが心地良くて、同時になんだかとても切なくて、ぎこちなく腕を木兎さんの方に伸ばす。
深い、深い海の底から、きらきらと輝く水面に腕を伸ばすような錯覚だった。
それで、嗚呼、気付いてしまった。
全ての始まりと、この異常の終わらせ方に。
ぎゅっと、今出せる力の全てで木兎さんの首に縋り付く。
それでも、この人に想いを伝えるにはとても足りない。出した筈の力が自分の身体の中だけで空回っている気がする。
いつもよりだいぶ弱い腕をどう思ったのか、壊れ物を扱うみたいに、優しく抱き締められる。
温かい腕の中で。
ゆるゆると頭を撫でられると、胸が苦しくなって、込み上げるものが目から溢れてしまいそうになる。
「赤葦が隣に立ってないと、寂しくて気が狂いそう」
(っ…はは、何言ってんですか)
「本当にさ、一日お前いないだけで寂しいのなんの。俺まじで卒業できないわ」
(卒業は、してください)
言いながら、やっぱりこの人も離れる時のことを考えているんだと、絶望的な気持ちになる。
一度見てしまった地上への夢は、やがて人魚姫を泡へと変える。
泡、に。なったとしても、その心に焼き付いた感情を手放すことなど出来なかったのだ、きっと。
御伽噺の暗喩など冷笑的に見ていた筈なのに、今はただ純粋に…寧ろ痛いほど彼女の気持ちが分かってしまうから、可笑しくて自嘲気味になる。
「なぁ、俺の隣にいてくれよ…卒業しても、いつまでも、ずっと」
(また、そんな、)
その時の気分だけで将来を語るなと言ってるでしょう、
それに乗せられて有頂天になる人間のことなど考えもしないんだから。
期待させるだけさせておいて、いざ捨てられでもしたら、俺はきっとこんな有様じゃ済まなくなる。
「赤葦にはどうしたら俺の気持ちが伝わるの?」
だから、貴方はそんな哀しい目をしてみせないで。
愛しい言葉を貰う度、この心は、ずっと、ずっと底へと沈んでいくばかりだ。
救って欲しいとも、もう願えない。
この身体を生かすのも、この心を殺すのも、貴方の言葉一つ。
(ぼくとさんは、)
(おれのこと、すき、ですか)
どこまでも、どこまでも、深くへ。
「…すき。むしろ、愛してる。」
落ちて、沈んで、呼吸さえできずに溺れて。
今だけの幸せを噛み締めて、その先さえ諦めてしまえば、もう。
(おれ、も)
『すき』
『あいしてる』
それだけの言葉じゃ足りないくらい。
撫でられる髪の心地良さに任せて、意識がまた朦朧と、焦点を結ばなくなる。
薄らぐ色彩の中、目を細めて微笑む木兎さんの顔が見えたような気がして…
ごぽり。
また、耳の奥で水音が聞こえた。
浮上した意識が最初に映したのは、暗闇の中、目の前にすぅすぅと微かに動く布地。
それが、木兎さんの胸元だと気付くのに、少しかかった。
帰らないで、いてくれたのかと。
ほっと息を吐いた、次の瞬間自分に呆れ返る。
少し目を凝らせば、彼が着ているシャツが自分のものだということも、恐らく母親が気を利かせて木兎さんに風呂を貸したのだろうことも悟ってしまった。
恥ずかしくて居心地の悪さに、もそり、寝返りをうつ。
その衣擦れの音がやけに大きく聞こえて、漸く自分の耳が元に戻っていることに気が付いた。
耳を澄ませば、木兎さんの寝息も、心臓の鼓動も、障りなく鼓膜を撫でていく。
それすら愛おしくて、頬を木兎さんの胸元に摺り寄せた。
この人の隣に居たい理由。
それが、ただセッターとしてエースに尽くしたいから、だけではないと、遂に自分の中で認めてしまった。
そして無意識に望んでいた通り、彼はこの気持ちに応えようとしてくれている。
それだけで、幸せなことじゃないか。
これ以上を望むなんて、身の程を知らなさすぎる。
そう思わないと、舞い上がって自分を見失ってしまいそうだった。
例え、彼の"好き"が、自分のものよりももっとずっと軽くて、すぐに崩れ去ってしまうものでも。
今の彼の言葉を信じる他に、俺が俺自身を救える方法なんてないんだと分かっている。
ただ、それが何れ自分の首を絞めたとしても。
彼が俺を見なくなった時、溺死する覚悟さえ、もう決めてしまったから。
「好きです、木兎さん。」
呟いた言葉が、眠る貴方に届かなくても良い。
いつか、貴方に溺れて息絶える日のことを脳裏に描きながら、また幸せな夢を見るために、そっと目を閉じた。
fin.
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