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vow(兎赤)
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ごそり。
隣で布団が揺れた感覚に、意識がふっと浮上する。
感覚は右側、木兎さんの方。
トイレかな、だから寝る前に水がぶ飲みするなって言ったのに。
そう寝呆けた頭で考えるともなしにもう一度眠りに就こうとする、と、
「っ…」
息を詰めた音が聞こえて、ぴくり、自分の耳が留まる。
そのまま立ち上がる気配もない。ただ、少しの衣擦れが音を立てるだけ。
何をしているのか、と気になる方が先立って、つい意識が覚醒してしまった。
明日も朝早いのに。どうしてくれる。
「木兎さん…?」
周りの寝息に紛れるように努めて小さな声を出すと、びくり、肩が震えるのが見えた。
合宿所の、斜光能力が低いカーテンから薄らと漏れる月の光が、色素の薄い木兎さんの髪をきらりと撫でる。
「あか、あし」
か細い声で俺の名前を呟いたかと思えば、ぐすり、鼻をすする。
「え、ちょっと」
なんで泣いてるんですか。
驚いて思わず普通に声が出そうになったところを、自分の手でぱしりと口を押さえた。
「あかーしぃ…」
俺の顔を見て何を思ったのか、空気も読まずにわんわん泣き喚き出しそうな木兎さんの手をさっと握る。
「んぇ、」
変な声が聞こえたのを無視して握った手はそのまま、寝転がる誰かを踏まないように布団の間を縫って部屋を飛び出した。
手洗い場の端にある蛍光灯のスイッチを、手探りで切り替える。
ぱち、ぱちりとした音を立てて点く灯りと殆ど同時に、蛇口を捻る音が重なった。
明るさに慣れない目を瞬かせつつ振り返ると、吹き出し口を上に向けて、勢いよく出る水に直接顔を突っ込んだまま木兎さんは静止している。
「…髪まで突っ込まないでくださいね、タオル持ってきてませんから」
あのまま他の部員まで起こされては困ると思って連れ出して来たものの、何も考えずただ顔を洗うように仕向けてから、拭うものが無いことに気付く。
まだ自分も寝呆けているのか、それともこの人が泣いていた、ということに動揺しているのか。
「…うぇ」
随分長いこと水に目を晒していたのが疲れたのか、呻き声と共に顔を上げる。
腹からシャツをたくし上げてガシガシと拭きながら、ゆっくりとこちらを振り返った。
「そろそろ戻りましょう…寝られそうですか?」
「いや…無理かも」
折角顔を洗ったのに、未だぼたぼたと涙を溢す目にじっと見つめられて、ぎょっとしたのも束の間、ふうと溜息が洩れる。
「一先ず此処じゃ声が響きます。向こうの会議室にでも入りましょう」
実際、この人が泣くのを今まで見たことがないわけではない。
ただ、ぼろぼろと泣くのを見ると忍びないというか、胸の一部がぎしぎしと痛んで、目を当てていられないという感覚の方が強い。
「何がそんなに悲しかったんですか」
どうせまた変な夢でも見たんでしょうが、と言うより早く、木兎さんの腕ががばっと覆い被さってきた。
「ちょっ…」
「赤葦…あかあしだ、あかーし…」
「何ですか」
そんなに呼ばなくても俺はここに居ます。
耳元でそう囁くと、腕の力がぎゅっと強くなる。
背中をぽんぽんとあやすと、徐に口を開いた。
「…誰もいなくなる夢」
「人類滅亡系ですか」
「や、人はいっぱい居るんだけどよ、」
それこそ、満員の体育館で。
目の前に居るのは、世界の強豪。
ネットを挟んだ此方側には、日本人プレイヤー。
その顔はみんな知っている、共に練習してきた仲間だ、信頼している。
その"感覚"だけはあるのに、
「誰も居ねぇんだ、ココの奴らが」
梟谷の、仲間が。
そう、ぽつり、ぽつりと、似合わないくらい緩慢に話す木兎さんの声が、また少し、上擦る。
「今日、なんか知らねぇけど、赤葦のトス打ちながら…幸せだなぁ、なんて思ってたから」
余計にさぁ。
少し身体を離して向かい合った顔に、らしくもない歪な笑みが貼りついている。
この人は、今日そんな事を考えていたのか。
打ち切った後の、あの笑みの間、そんな事を。
それは、俺がいつも考えていることだ。
そして、俺がいつも憂いていることだ。
木兎さんにトスを上げられる今が幸せだという思いと、
あと何回同じコートに立てるだろうかという思い。
この幸せは期限付きだと知っている。
遠くない未来に終わりが見えているものだと、誰に言われずとも分かっている。
中学を卒業する時だってそうしてきた。そうなるべくしてなるものだという必然性も、理解している筈だった。
なのに、実際目の前にその期限が迫ってくると、今までのどんな時よりも胸の奥がズキズキと痛むのだ。
それ程、この出会いが奇跡のようで、稀有なのだと思い知らされている。
もし、そんな事を、この人も感じているなら。
稀有な事の終わりを、畏れているのだとしたら。
その瞬間に立ち会えたことを幸せと思うし、改めてこの出会いに感謝すら覚える。
その、一方で。
そんなことを、考えずにいて欲しかったという独り善がりが、ざわざわと胸を逆撫でている。
「冷たいことを言う様ですが、どう足掻いたってくる未来ですよ、それは」
プロを目指そうと目指すまいと、あと半年もすればそれぞれが違う道に進むのだ、
同じコートに、ここに居るメンバーが揃うことはない。それはどんな分岐の可能性を考えたとしても、ほぼ確定した未来だ。
その未来から一番目を逸らしてはいられないのは、あなたでしょうに。
努めて冷静を装おうとして、いつもより低くなった声を如何思ったのか、木兎さんがじっと顔を見つめてきているのを、居心地悪く受け止める。
「赤葦は、寂しくねぇの」
ぽつり。掠れた声が、降る。
その瞬間、カッと頭に血が上った。
「、ざけんな、」
「ッ…」
「俺が…っいつも、どんな思いで、」
あんたにトスを上げてるのか、気付きもしないで、
がたり、掴み掛かった体重を支えきれずに、擦り切れた畳へよろける。
意図せず押し倒したような形になった木兎さんの胸元に、ぱたり、水が吸い込まれて初めて自分が泣いていることに気付いた。
「あか、ぁし」
「最悪だ、こんなこと」
あんたに言ったって、何も変わらないのに。
何も、変えられやしないのに。
寂しい、悔しい、愛しい、恋しい。
今という時に詰まった色んな物に対して、浮かぶ想いがじりじりと胸を焦がしている。
苦しいんだ。
今が、楽しくて楽しくて、仕方がないからこそ。
「寂しいって、思ってくれんの」
耳のすぐ近く、息さえ感じる程の距離で、密やかに囁かれた言葉が、さわり、心を揺らす。
ゆっくりと背中に回った腕に抱き寄せられて、額がシャツ越しに木兎さんの温かさと触れ合った。
「…そっか」
赤葦も、寂しいって思ってくれるんだ。
確認するように口の中でもう一度そう唱えた後、くつくつと笑ったのが胸に響いて、見えていない木兎さんの顔が脳裏に浮かぶ。
「…何で、責められてんのにそんなに嬉しそうなんすか」
勢いで押し倒してしまった気恥かしさでもごもごと喋ると、首裏にあった木兎さんの掌が襟足を撫でるように遊び始める。
「だって嬉しいもん」
そんな、答えになっていないような言葉なのに、それ以上の答えは無いと言わんばかりに、にししっと笑う。
「…狡い。ほんとに、ずるい。」
そんな声で笑うなんて。
そんな優しい指で触れるなんて。
これ以上、怒れやしないじゃないか。
この気持ちを、何処にぶつけたら好いのか分からなくなる。
「…寂しい」
呟いたら、もう箍は無いのと同じだった。
後から後から溢れて止まらない涙が、頬を伝って首まで濡らしていく。
「寂しい、さびし、です、ぼくとさ、」
「うん」
「おれは、ずっと一緒に…!」
「…うん。」
一緒に居たい。一緒にバレーをしていたい。
同じコートの此方側に立っていたい。
同じ方向を向いていたい。
同じ目標に向かっていたい。
同じ場所で、同じ物を見て…
あんたと同じ景色の中に立って居たい。
いつの間にか、子どもみたいに泣きじゃくっていた。
自分の感情を持て余して、如何したら良いか分からなくなって癇癪を起こす子どもと同じだ。
その我儘を呑み込んで、消化できる程大人になんか成れちゃいない。
襟足に掛かる木兎さんの指が、そっと首の後ろを包んで、その大きな掌の温かさにまた一筋、涙が溢れる。
そんな目の前の人の頬にも、また一筋、静かに涙が伝っていた。
こつり、額と額が合わさる。
泣き腫れてきた目と視線が絡んで、ゆっくり、微笑みの形をつくる。
「ありがとな、」
「っ…」
「お前、そういう事口にしないから。安心した」
その気持ちを知っていれば、頑張れる。
そう呟いた木兎さんの声が、微かに震える。
あんたはもっと上を目指す人間だ。それは揺らがないだろう。
この先別れの時が来て、違う環境になったら、容易にまた自分の世界を作れる人だ。
今までもそれを羨ましく見てきた。
これからも、きっとそう。木兎さんは、とても、強い人。
でも。だけど。
「あんたを、一番気持ち良く跳ばせられるのは、俺で在りたいんです」
自分の実力は把握しているつもりだし、それを過大評価することもしない。
木兎さんの目指す世界には、到底及ばないことを嫌という程思い知っている。
一番、と言われる事の、例えようもない難しさを。
それでも、この人の中に、"赤葦京治"という存在を刻み付けておきたかった。
「…うん、そう、それでこそ俺の赤葦。」
ほわっと、笑った。
木兎さんがいつも見せる豪快な笑いじゃなくて、花が咲くような、滲み出たような、そんな笑みに、かああっと顔が熱くなるのが分かる。
「…覚えとけよ、ちくしょう」
「お、反抗期か」
そんな顔を見られたくなくて、もう一度抱き着いた、木兎さんの
「絶対追い付いてやる」
耳元で、一世一代の大告白だ。
後には戻れない。
それくらいの、覚悟で。
「…待ってる」
木兎さんは、それしか、言わなかった。
でも、その一言に全てが詰まっていた。
木兎さんは、待っていてくれる。
勿論、どんどん先に進んでいってしまうだろう。
スピードを微塵も弛めることなく。
彼自身の中の、最高を目指して。
それでも、俺の存在を、待っていてくれると言った。
俺が、追い付くことを。
俺が、自力でまた隣に並ぶことを。
俺が頑張るには、それだけで充分な動機だ。
だから、大丈夫。
俺も、まだ、大丈夫。
「俺にこんな約束させたんですから、もう不安な事なんてありませんよね?」
自分にも言い聞かせるように、努めて冷静を装いながら、木兎さんの目を見て確認する。
「当然。明日も明後日も、その先も赤葦が俺にトスくれるって分かったからな」
「はいはい。そんな挑発今は要りませんから、早く戻って寝ましょう」
漸くいつもの顔に戻ったのを確かめて、ふうと息を吐いた。
「あ、赤葦。」
「何です?」
「…いや、何でもない」
何かを言いかけた木兎さんが、一瞬の躊躇いを見せてから立ち上がる。
扉に向かいかけていた俺の背中を、ふっと追い越そうとする、刹那に
「ありがとな」
ほんの、一瞬、一瞬だけ、髪に唇が触れたような気がして、
「…っ!?」
その、挙動一つで
今この瞬間までに自分がした事と口走った事を思い出して、恥ずかしさに死にそうになる。
「…好きです」
先に行ってしまった背中に、聞かせるつもりのない独り言を呟く。
この約束は、木兎さんが思っているより、ずっと重い物だ。
いつか木兎さんが忘れてしまっても、それが遠くない未来の話でも、俺は俺の為に約束を守ろうとするだろう。
その時こそ、この約束の底にある想いを伝えることが出来るだろうか。
…否、もしかしたら、墓場まで持って行く秘密になるかもしれないけれど。
そう考えてしまう自分の重さに、深い、深い溜息が出た。
翌日、何事も無かったように、というより寧ろ、いつもより俄然元気な木兎さんに対して、
その後上手く寝付けなくなってしまった俺の、いつもより蒼白な顔を見た部員達の間に、
どうやら良からぬ噂が立ったらしい。
…これ以上俺の心を掻き乱すのは、本当に、本当に勘弁して欲しい。
fin.
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