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1.✩見知らぬ男
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✩✩✩✩
部屋の一面、床から天井まである大きな窓から見える外は霧がかっていた。どうやら下に広がるビルの屋上に雨粒が打ち付けているせいで煙くなっているらしい。晴れた日には絶景が拝めるんだろうけど、残念ながら今日の空はどんよりと厚い雲に覆われている。今の俺の心を映しているようだった。
テーブルを挟んで俺の目の前に座る男は、会ってからずっと無表情で何も喋らない。こちらが話題を振るのを待っているんだろうか。いや、何か考えている様にも見えるし……。
すごく気まずいこの状況、一体どうすればいいんだろう。もしかして、ずっとこのままでいるつもりなんだろうか。
遡ること約一時間前。
俺は病院にいた。どうしてかは分からないけど一ヶ月ほど入院していた。それ以外にも色々と、何もかも分からなかった。
どこに住んでいたのかとか、入院する前は何をしていたのかとか、何が好きで何が嫌いかとか、そういった事が全然分からない。
分かったのは『和泉旭』という名前と、生年月日と血液型くらい。それも自分で思い出したのではなくて、病院のデータベースにあったからだ。
持ち物も数件の連絡先しか入っていないスマホだけ。初期化されたのか知らないけど、データの少なさがちょっと不気味だった。
知らないのではなくて思い出せないだけだろう、と医者は言った。健忘症、いわゆる記憶喪失だと診断された。不幸中の幸いというかなんというか、『記憶がない』という大きな問題以外は特に異常はなく、日常生活に戻るためのリハビリを終えて、もう退院しても良いですよと言われたのが二日前。そう言われても、行くあてなんてない俺はどうしていいのか分からなかった。
この一ヶ月、病院の関係者としか会ってない。俺を迎えに来てくれる人なんているんだろうか。
なんの心構えもできずにそんな心配をしていた俺の所にやってきたのは、一度も会ったことがなければ顔すら知らない男だった。看護師に連れられて病室を訪れたその男は、俺より身長が高く細身で、やたらと綺麗な顔をしているのが印象的だった。感情のこもっていない冷めた瞳、黒髪に黒いシャツ、黒いボトムスという全身黒で固めた格好だったから、死神ですと紹介されても受け入れられただろう。
病室では看護師と会話するだけで俺の事は一切見てこなくて、肝心の自己紹介もなく名前さえ教えてもらえなかった。その上、なぜか俺の退院後の生活について説明を受けていた。
しばらくして説明が終わると、看護師は『和泉さん、退院おめでとうございます。お大事にしてくださいね』と言い残してさっさと出て行ってしまった。病室には書類を纏める男と、俺だけだ。
……まさかこの男を頼れと……?
でも、状況的にそういうことだよな……?
一気に不安に駆られる俺をよそに男はまとめてあった俺の荷物を持つと、「それじゃあ行こうか」と言って病室を出て行く。
一ヶ月入院していたとはいえ、文字通り何もない俺の荷物なんてたかが知れている。病院に運ばれてきた時に身に付けていた衣服とポケットに入っていたスマートフォン。誰かが用意してくれた着替えが数着、退屈しないようにと看護師さんがくれた小説が何冊か。リュックサックひとつに纏まってしまった俺の全ては、今や男の手の中だ。
行くあての無い俺はもう黙ってついて行くしかない。
男は受付で手際よく退院の手続きを済ませると、病院のエントランスでタクシーを止めて乗り込んだ。慌てて俺も乗り込む。車内ではお互いずっと外を眺めていて、気付いた時にはどこかのマンションに着いていた。
病院からここまでのタクシーの車内でも、ロビーでエレベーターを待っている時も、何ひとつ会話はなかった。病室を出るときに言われた『それじゃあ行こうか』という言葉以外、俺に対してこの男が発した言葉はなかった。
さっきまで激しい雨音のおかげで無言であることがさほど気にならなかったけど、今、エレベーターの中は恐ろしいほど静かだ。さすがに造りのいいタワーマンションの中まで雨音は届かないのか……。
「…………あの……」
「ん、なに?」
「えと、その……」
優しくも強くもない口調に戸惑う。こっちを振り向きもしないからもしかして怒っているのかもしれない。心当たりは全然ないけど。
この男には聞きたい事が山程あるのに、どう聞けばいいのか分からない。話しかけてはみたものの何を言おうか迷っていると、目的の階に到着したことを知らせる音が鳴った。
「ついたよ」
こちらを振り返りもせずに男はさっさとエレベーターから降りた。置いていかれないように急いで後を追う。
長い廊下を進んで行くと突き当たりで男は立ち止まった。ドアに埋め込まれたパネルを操作して数字を打ち込んでいく。電子音と共にカチャリと解錠した音が鳴った。廊下側に開いたドアを押さえた男と、ここにきてやっと、初めて目が合った。
「どうぞ、入って」
「え……」
「いいから」
「お、お邪魔します…………」
あれよあれよと事が進みもう本当に何がなんだか分からない。だけど不思議と警戒心は湧いてこなかったし、ここまで来たならどうにでもなれ、と変に投げやりな気持ちで俺は一歩足を踏み入れた。
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