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スコティッシュフォールドのいましめ
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(アンツ)
「私達には『スコティッシュフォールドのいましめ』というものがあります」
「すこてぃっしゅ――?」
「ご存知ありませんか?」
「ええと――地名か何かですか?」
「いえ、昔いたという、猫の種類の名です。今もいるかどうかは知りませんが」
「猫――ですか?」
「ええ。まあ、珍種の部類に入るでしょうね。突然変異によって、その何割かがこう――耳がペタンと寝た状態で生まれてくるんです。たれ耳、とでもいうんですか? そういった猫は普通の猫とはちがい、頭のシルエットはまんまるになる。その珍しさと姿の愛らしさから、珍重されたそうですよ」
「なるほど――」
いつものことながら、私は深く感心する。貴族のかたがたは、なんと詳しく昔のことを覚えているのだろう。
そして、なぜわれわれは、何もかもを忘れ去ってしまったのだろう。
「ただ――その突然変異には、大きな陥穽がありました」
「え――?」
「耳はなぜたれたんだと思います?」
「え? さ、さあ――」
「軟骨の形成不全がその原因です。つまり――一種の遺伝病の結果に他ならない。まあ、珍種などというものは、多かれ少なかれ、奇形の固定でしかないんでしょうが、ね」
「――」
胸が――痛い。
私のことを言っているんじゃない。
でも――痛い。
「まあもっとも、すべてのたれ耳に病の害が出るわけじゃない。それじゃあんまりひどすぎます。あるいましめさえ守れば、たれ耳でも病に苦しまなくてすむ」
「そのいましめとは――?」
「実に簡単なことですよ」
「どんなことでしょう?」
いつものように、私は話に引き込まれる。
「誰が聞いても誤解のしようのないいましめです。すなわち――『たれ耳の猫同士を、けっしてかけあわせてはならない』たれ耳とたれ耳だけは、絶対につがわせてはならない。それさえ守れば、病に苦しむ子猫など、生まれてはきません」
「ま――守らないと、どうなるんです?」
「生まれてくる子猫のおよそ3分の1ほどに――ひどい症状が現れる。骨瘤――といいましてね、年をおうごとに、体中の骨が――いびつに変形していく。もちろん動きも不自由になるし、何しろ骨が歪むんです。激しい痛みに泣き叫ぶ」
「そんな――ひどい――あ、で、でも、どうすればそうならないか、は、もうわかっているんですもんね。だったら――」
「ところが」
ユヴュの声が冷える。
「普通の耳とたれ耳、という組み合わせでは――あまりたれ耳が生まれてこない」
「え――?」
「たれ耳は珍重される、と言ったでしょう? 逆に言えば――普通の耳では意味がない。たれ耳でないスコティッシュフォールドは、普通の猫と大差ありません。だから高くは売れない。大してたれ耳は――実にいい値段がつく」
「まさか――」
「たれ耳とたれ耳をつがわせれば、9割以上の子猫がたれ耳になる。もちろんその3分の1は病に苦しむわけですが、生まれたてや子猫の時では、パッと見ただけでそんなことはわかりはしない。だから、悪意からにせよ、単なる無知からにせよ――いましめは、破られつづけた」
「――それは――」
「私達も、スコティッシュフォールドと同じです」
「え――?」
「私達は、人の手により創られた種族。――人の手による、異形です。そのせい、だけでもないんでしょうが、私たちの血筋にも――致命的な組み合わせ、というものがある。――私達は、猫とはちがいますからね」
口元をかすめた、あれは、笑み――だろうか?
「自らの手で、血をつなぎ、危険を回避することが出来る。でも――危険を避けることは出来ても、危険となる、その原因を取り除くことは、出来ない。障害を避けることは出来ても、取り除くことは出来ないんです。――だから」
ユヴュが大きく、息をつく。
「私達は――恋愛と生殖を切り離す」
「え――?」
「あたりまえでしょう? 自分達がなにをすれば子供が病に苦しむことになるか、が、すでにわかっているんですよ? その重荷を、どうして未来に押し付けられます? だから、私達のあいだでは、愛しているからこそ子供をつくらない、なんていうことはざらにある」
「な――なるほど――」
「だからといって、生殖をしないわけにもいきませんからね。そこはそれ――それぞれまったく別のものとして、なんとかやりくりしています。しかしまあ、たいていはそれなりにうまくいきますよ。あなたがたには――」
ユヴュは不敵に、ニヤリと笑った。
「奇妙に見えているようですがね」
「は――はあ――」
「まあ、私のようなスペアは、そちら方面でもわりあいと気楽なものですがね」
ユヴュの笑みに、わずかに自嘲の色が混ざったようだった。
「――『スコティッシュフォールドのいましめ』は、略して『スコのいましめ』とも言われています」
わずかな沈黙ののち、ユヴュはとってつけたように言った。
「すこ――?」
なんだかこう、言葉の響きがかわいい。
「――やっぱり、略すと重みがなくなりますよね」
ユヴュはぶつぶつと言った。
「しかし『スコティッシュフォールド』というのは、いかにも長ったらしい」
「はあ――まったく」
口元が、自然とゆるんでしまう。
ああ――かわいいなあ、本当に。
「――いましめを守っても『ツキノヒト』は生まれてきますがね」
ユヴュの目が、一瞬鋭くなる。
「しかし私達は、彼らのことを『ヒルコ』と呼んだり、川に流してしまったりはしませんよ」
「――」
何も言えなかった。
そのとおりだからだ。
私はぼんやりと。
『ツキノヒト』達は、幸せなんだろうか――と、思った。
(ユヴュ)
いったいどうして、あんな話になったのか。
きっかけは忘れたが。
気がついたら、いつものように、私の眼前で、アンツがメモをとっていた。
ずいぶん長いことメモの上にかがみこんでいたから、さすがに何を書いているのか気になりだしたとたん、アンツがヒョイと顔をあげた。
「ええと――こんな感じですかね?」
「え?」
メモ帳には、へたくそな、耳のないまるまっちい猫の絵が。
絵の下に一行『スコティッシュフォールド想像図』。
私は思わず、フンと鼻を鳴らす。
「まあ、写真ではだいたいそんな感じでしたよ」
「なるほど。確かに珍しい猫ですね、うん」
「実物を見た事はありませんが」
「なるほど――」
しきりと感心する顔を、何とはなしに見つめていたら、なぜだか不意に、アンツが息を飲む。
「――どうかしましたか?」
「あ、その――なにか御用ですか?」
「いえ、別に」
「あ――そうですか――」
「――」
「――」
わずかに頬を染めて目を伏せるのを見て、ようやっと、どういうことになっているんだかなんとなくわかる。
ああ――馬鹿馬鹿しい。
犯そうが痛めつけようが、こたえるどころかにこにこしながら礼を言いかねないような相手を、いったいどうしてやればいいっていうんだ?
「――耳がたれていないスコティッシュフォールドもいます」
「ああ、はい、うかがいました」
「こんなです」
単なる場つなぎで、適当にメモ帳に描いてやる。
「――もともとまるっこい猫なんですよ、スコティッシュフォールドっていうのは」
「かわいいですねえ」
「猫、好きなんですか?」
「ええまあ、わりと」
「――人の手が加わると、様々な変異が短期間で固定されます」
あたふたとアンツがメモをとる。別にたいして重要なことを言っているわけでもないんだが。
「人為操作は、進化を加速させる」
なんとなく、私は話をつづける。
「非常に乱暴な言い方ですが、そう言ってしまってもいいでしょう」
「はい」
「スコティッシュフォールドの例でもわかるとおり――」
サリサリと、ペンが紙をひっかく音。
「進化とは別段、改良でも改善でも前進でもありません」
「え――?」
「わかりませんか? スコティッシュフォールドというのは、明らかに生存には不利な突然変異が、たまたま人間に気に入られたからこそ生きながらえることのできた種族です」
「ええ、でもそれは、人間の介入があったからこそで、やはり自然界では――」
「どこがちがうんです?」
「え?」
「たまたま人間に気に入られるのと、たまたま自然環境に適応するのとでは、いったいどこがどうちがうんです?」
「え、それは――意思の有無、とか――」
「なるほど、では、その『意思』とはいったい、何をするんです?」
「それはもちろん、生存に不利な変異種が、ながらえることのできるように保護するんですよ」
「では重要なのは『保護する』ということ、言い換えれば『不利を有利に変える』ということでよろしいでしょうか?」
「ええと――はい、それでいいと思います。そうですね。遺伝病を併発する変異というのは、野生で生きるためには不利な要因です。でも、その変異から来る特殊な姿かたちを珍重して、人間が保護してくれるようになるのは、生きるのに有利ということになる。なるほど――」
「わかりませんか?」
「え?」
「わかりませんか?」
私は、少しだけじらす。
「環境の変化――大変動――は、有利と不利をひっくりかえしてしまうことが往々にしてあります。水中の王者は、水がなければ生きることは出来ませんし、温暖な気候に適応して繁栄した種は、寒波にあったらなすすべもなく死に絶えたりもします。そうしてかつての王者が死に絶えた後に、今までは見向きもされなかった弱小種族が新たに繁栄する」
「え――あ! な、なるほど――」
「だから、結局」
そう、結局。
「有利も不利も、前進も後退も――誰にも判断できないんですよ。今現在有利か不利か、なら、なんとか判断できるかもしれない。しかし、将来どうなるか、は――誰にも決して、わからない。進化とは、本当は、絶え間のない変化に他ならない」
「進化は――変化――」
「それくらい、わかっていると思っていましたがね」
私は肩をすくめる。
「あの本で、あれだけ大きな事を書いているんですから」
「い、いや、それは、その――」
赤い顔で、アンツが照れ笑いをする。
「どうも、お恥ずかしい限りです。いや、その――あれは結局、私個人の勝手な憶測にすぎませんので、やはり他の人からのそういう意見は格別、といいましょうか――」
「そのわりには、ずいぶんと自信ありげな書きぶりでしたが」
「いやその――私、文章だと、どうしてもその、必要以上につっぱらかってしまう、といいましょうか――もう少し謙虚に書けばよかったですね、はい」
「――」
そう――なんとなく、不思議な気がする。普段のこいつは、とろくてすっとぼけててすっとんきょうで、威厳も何もあったもんじゃないが、論文の中のこいつは、信念と情熱とに満ちあふれた、いっぱしの学究に他ならない。
「――いいんじゃないですか、あれで。あなたの普段の調子で書かれた日には、どう見たって手の込んだ冗談としか思えませんからね」
「あはは――そうですねえ、確かに」
それは、なんというか、本当にフニャリとした、のどかとしか言いようのない笑いで。
なんだかいらいらする。
どうして怒らないんだ、こいつは?
「――あなたはおかしな人ですね」
「そうですねえ」
だから。
どうしてそこで、受け入れるんだ、おまえは?
どうして反論しないんだ?
反論されれば、反論で返せるのに。
受け入れられてしまったら。
どう返せばいいというのだ、私は?
何かをぶつければ、壁から跳ね返ってくる。
いつだって、そんなやり取りになると思っているのに。
実際には。
何かをぶつけると――底の見えない水の中に飲み込まれる。
「――また、何か書くんですか?」
「え?」
「あの本のようなものを――また、つくるんですか?」
「ええ、できれば」
はにかんだような、笑み。
時々、こいつの歳がわからなくなる。
私より年上ではある――と、思う。いくら地の民が早く老けるといったって、私だってまだ、成長期を終えて安定期に入ったばかりだ。年上だろう、さすがに。
こいつも、私のことを年下、と思っているようだ。私たちの年齢は、成長期の子供以外では、外見からは非常にわかりにくいはずなのだが、なぜだろう。私、こいつに年齢を教えたりしただろうか? 態度やらなにやらからそう判断されているのだとしたら、かなりしゃくにさわる。それとも、こんな酔狂なことをするのは余程の馬鹿か変人か、何もわかっていない若造しかいないということからそう判断されているのだろうか。それはそれでむかつく。きっと私、覚えていないがいつか年を教えたことがあるのだ。そういうことにしておこう。
それはさておき。
仮にも私より年上であるはずのこいつが。
こんなにも無邪気な顔をしても、いいのだろうか、いったい?
「――どうか、しましたか?」
「別に何も。――そうですか。書きますか、また」
「ええ、でも」
「でも?」
「次の論文は、私一人のものではないですけど」
「は?」
「だって、次の論文は、ユヴュさんのご協力のおかげで書くことの出来たところが、半分以上になるでしょうから」
「――」
馬鹿だ、こいつは。
「――そんなこともないでしょう、別に」
「そんなことも、ありますよ」
おやおや、反論とはまた珍しい。
「私一人では、あの本しか書けませんでしたよ」
「もう次回作を書きはじめているんですか?」
「え、いえ、その、あの」
いちいち照れるな、気色悪い。
「ま、まだ、下書きにもなっていない段階ですが」
「そうですか」
別に興味もないが、一応聞いてみる。
「テーマは、なんです?」
「そうですねえ――」
その時、なぜだか。
鼓動一拍分だけ、時が飛んだ気がした。
今のは――なんだ?
私は――何を感じた?
見つめていたのは――アンツの、両目。
その目の中に――何が、あった?
「記憶と記録について――でしょうか」
「記憶と――記録?」
「まだ、うまく表現できるような形にまでまとまっていないんですが」
「それではまとまってからおうかがいすることにしましょう」
「はい」
アンツはにこりと笑い、ポツリと言う。
「ただ――私は、思うんですよ」
「――何を、ですか?」
「私達――地の民達は、なぜ何もかもを忘れ去ってしまったのだろうか――と」
「――おかしなものですね、まったく」
なぜともなく――腹が、立った。
「あなたがたのほうが、あなたがたのほうこそ、記憶も記録も、ずっと多く持っていてしかるべきなのに。私達、イギシュタール貴族は――新しい、民だ。私達の先祖を創ったのは、あなた達の先祖――でしょう?」
「ええ――そう、聞いています」
「私達は、あなたたちから何も奪ったりはしていませんよ。記憶も、記録も」
「ええ。――わかっています」
「あなた達も、奪ってはいませんが――ただ」
私はなぜ――こんなことを話しているのだろう?
「――いろいろと押しつけてはくれましたけどね」
「――わかっています。――申しわけありません」
「――あなたに謝られたところで、なんにもなりはしませんよ」
「――そうですね」
珍しいことが続くな。
こいつの顔が、暗い。
「――大丈夫ですよ」
あれ。
私はなぜ――こんなことを言うのだろう。
「私のようなひねくれ者くらいですよ、そんな、押しつけられただのなんだのとやかく言うのは。皆は――私達、イギシュタール貴族にとっては、おのれの義務を果たすことこそが生きがいで、生きる理由なんです。あなたがたが生産面を支えてくれる限り、私達だって課せられた務めを果たし続ける。――お互いさまです。それだけのことです」
そう――それだけの、ことだ。
それだけの。
「それでも――ありがとう、ございます」
「――」
どうこたえればいいのだろう、私は。
「――別に」
そっけなく返す。正しくはないかもしれないが、まちがってもいないだろう、たぶん。
「――」
どうしたというのだろう。
なぜ、そんな目で私を見つめ続けるんだ、こいつは。
そんな――熱にうかされたような目で。
「――どうか、しましたか?」
「あなた――あなた達は」
胸を何かが刺す。
痛くはない。
ただ――衝撃は、感じた。
「私達より――先に進んでいくんですね」
「そう創ったのは、あなた達――じゃなくて、あなた達の、先祖達、でしたか」
さらにつけ加えれば、先祖全員に責任があるというわけでもないのだろう。それとも、あるのか?
「――そうですね。――そうでした」
私達は。
若き民。
創られし民。
人にありて人にはあらず。
今はまだ、貴族と平民、すなわち地の民達との混血は可能だ。
だが――ちがう。
血が、ちがう。
こいつは――アンツは、百年ともたずに死ぬだろう。
だが、私はきっと、百年をいくつか重ねる生を生きるのだろう。
私は、なぜ、こんなことを思うのか。
「――」
「――」
なぜだか見つめあっている。
なぜだか私は席を立つ。
なぜだかわからないままに。
私の片手はのびている。
肩をつかんで、のぞきこむ。
なぜだかアンツは、目を閉じる。
なぜだかわからないままに。
体の一部が、混ざりあう。
(アンツ)
「――邪魔ですね」
と言われ、眼鏡をはずされた。
そして、また、深々と口づけられた。
舌は、やわらかくて気持ちがよかった。
そのまま押し倒されそうになり、少しあわてる。
「あ、あの――ここでは、ちょっと――」
「いやですか?」
「床の上だと、その――体が痛いので――」
「――痛いのが好きなんじゃないんですか?」
「いや、痛いのは好きじゃないです」
何かとんでもない誤解をされているような気がする。
「……ふーん」
いぶかしげに見つめられる。
私のほうから口づけてみたい。
でも、そんなこと、してもいいんだろうか。
「眼鏡なしでも私の顔わかりますか?」
「え? ああ、ええ。別に、はずしたら何も見えなくなるほど悪いわけじゃないです」
「そうですか」
それはまあ、ぼやけはするが。しかし別段その――眼鏡なしではこういうことをするにあたって支障が出るというほど悪いわけではない。
「さて、ここがいやだというなら、場所を変えましょうか」
「え? あ、ああ、はい」
スタスタと歩き出す背中を追いかける。
クルリとユヴュがふりむく。
「――ついてくるんですね」
「は? ええ、それはもちろん」
「――おかしな人だ」
「場所を変えて欲しい、と言ったのは、そもそも私のほうですし」
「そうですね。そうでした」
あっさり言ってまた歩き出す。と、いっても、私の家はもともとそう広いわけでもない。ほどもなく、寝室につく。
入口で、少しためらう。いまさらながら、やはり、照れる。
「――どうかしましたか?」
「い、いえ、別に、何も」
「――?」
いぶかしげに首を傾げる姿が好きだ。
澄んだ琥珀の目が好きだ。
言葉を紡ぎ、私に触れる唇が好きだ。
ユヴュはベッドに腰かけて、つと私を見上げる。
彼のほうが、私より頭一つ――まではいかないにしろ、確実に頭半分以上は背が高い。
だから私は、いつも彼を見上げるばかりで、だからこんなふうに不意に見上げられたりすると、胸が騒ぐ。
金茶のくせっ毛にさわってみたい。ふわふわとやわらかそうな髪を、両手の指で梳きながらクシャクシャにしてみたい。
――そんなだいそれたことを望んではいけないのだろうな、きっと。
「――痛いのは、嫌いなんでしたっけ?」
「あ、はあ――それは、まあ――」
「じゃ」
ユヴュはニヤリと、ポケットに手を突っ込む。
「これ、使ってみます?」
手の平の上には、小さな平たい缶。
「傷薬、ですけどね。そういうことにも、使えると思いますよ」
「あ――はい。ありがとうございます」
「――」
笑われてしまった。
でも、まあ――いいか、別に。
彼には笑っていて欲しい。
彼の笑顔が、私は好きだ。
「それじゃあ塗ってあげますから」
「あ、どうも――えええええッ!?」
「どうかしましたか?」
「あ、いや、その、じ、自分でやります、自分で!」
「自分で?」
まずい。
鈍感な私でさえわかる、面白そうなことを見つけた、と言っているも同然の、その目の輝き。
「自分じゃやりにくいでしょう?」
「い、いや、できます、できますから!」
「別にそんなに遠慮なさらなくても」
「あ――で、でもその、でもあの――そんなことさせちゃ悪いですし――」
「どうして?」
「いや――だって、その――」
「痛いの嫌いなんでしょう? それともやっぱり、ほんとは痛いのが好きなんですか?」
「それは――痛いのは、嫌いですが――」
「でしょう?」
軽やかな笑い声。軽やかな身のこなし。私はなすすべなく、ベッドに放りこまれる。
「だったらどうしていやがるんです?」
「それは、その――」
「おかしな人だ」
楽しげな笑い声。私にじゃれつく体。私の髪をかきまわす形のよい指。
ああ、まるで――。
本当に好きあっているものどうしの睦言のようだ。
「ほんとはしたくないんですか?」
「い、いえ、ちがいます」
「どうちがうんです?」
「それは――」
顔が近い。
息がかかる。
「し――したい、です、私――」
「何を?」
「え――」
「ねえ――何を?」
笑い声が、耳をうつ。
少しだけ、泣きたくなる。
悲しいんじゃない。
けれども――切ない。
あなたは私に、とてもやさしい。
でも。
ああ、でも――。
「あ、の――ぬ――塗って、くれます、か――?」
「そうですね」
わずかに漏れる、のどの奥からの笑い声を聞いている。
「いいですよ」
「――ありがとう、ございます」
「それじゃあ、脱いで下さい」
「――」
なんだかのどがつまってしまって、ただ頷いた。
彼は楽しそうなので、それはよかったと思う。
私は――楽しいというわけではない、が。
しかし、やめるつもりはないし、いやだというわけでも、ないのだ。
ひどく、恥ずかしくはあるのだが。
「――足」
「え?」
「ちゃんと開いてくれないと」
「――はい」
顔が熱い。
体が熱い。
「ちょっとやりにくい――足、持っててくれます、自分で?」
「え?」
「ほら」
足をつかまれ、体を折られる。
「この格好のまんま、自分の手で支えていて下さい」
「――」
少しめまいがした。
初めて逃げ出したくなった。
状況に突き飛ばされ、流されているのは別に苦にもならなかったが、自分の手で、自分の意思でこんなあられもない格好をしているのかと思うと、息がとまりそうだった。
「――痛くはしませんよ。――しないつもりです、できるだけ」
「――はい」
つぅっ――と、指がふちをなぞる。
「――なんでこんなことをしているんでしょうね、私――私達」
「そ――ですね。どして――でしょう?」
私はあなたにつけこんでいる。
気の迷いを、最大限に利用している。
不思議そうな瞳で見つめられても、私は答えられない。
ずっととまどっていてほしい。
迷いが消えたら、何かが終わる。
「――痛くないですか?」
「――はい」
入れられているのは、たぶん、指一本。あまりよくは見えない。わざわざ見えるように努力するつもりもない。
「あの――もう、いい、ですよ?」
「――本当に?」
「た――たぶん」
塗るには塗れただろう、一応。
「――」
おそらく、私がこういう時、何を、どう、どこまですればいいのかまるでわかっていないのと同様に、彼も基準と加減がよくわからないのだろう。
「――痛くは、ない?」
「――はい」
痛くはないぶん、恥ずかしい。
でも、うれしい。
やっぱり――あなたはやさしい人だ。
「――ここ」
「え――ッ!?」
問い返そうとした声が、悲鳴になった。
痛くはない――が、声をとめられなかった。
「――ほかと感触がちがうんですよね」
その声は、確かに、笑いを含んでいたようだった。
(ユヴュ)
「――痛くはないですよね」
「あ――はい」
「じゃあ、大丈夫ですよね」
「――」
ひどく困ったような、焦りさえをも含んだ顔で、じっと見つめられる。
とても、楽しかった。
「――いやなんですか?」
「――」
何かをふりはらうかのように、かぶりがふられる。
ああ。
初めての時、ただやみくもにねじ伏せて突っ込んだ時よりも。
今のほうがずっと――犯している、気がする。
「――あれ」
半ば本気で意外だった。
「――たってきた」
「あ――あのっ!」
「はい?」
「う――す、すみません――」
「別に謝ることはないです」
私はとても、楽しいから。
「そういうふうになるようなことをしているんですから」
「――あ、あの――」
「はい?」
「もう、あの――塗らなくて、いいですから――」
「――」
ああ。
そういえば、膏薬を塗っていたんだっけ。
ちょっと、おしい気がする。
せっかく楽しいのに。
「――どうしてほしいんですか?」
「――」
大きく見開かれた両目を見て、なんだか奇妙な気分になる。
きつく抱きしめてみたい。
思い切り口を吸ってみたい。
また、突っ込んでやりたい。
どれも簡単にできることで、だから、答えを待たずにそうした。
首に腕がまわされるのを、初めて感じた。今までも、そういうふうにされていたのかもしれないが、気にしていなかったのでわからなかった。今までこういうことをした時は、いらいらして頭に血がのぼって、余裕がなかったからというせいもある。
今は――ちょっと、楽しかった。
「――上も脱いだほうがよかったですかね?」
「ん――」
せっかくからかってやったのに、よく聞こえていないらしい。つまらん。
気持ちがいい――の、だろうか? 痛がっているわけでは、ないようだが。
私は気持ちがいい。
私達イギシュタール貴族に、同性愛の禁忌(タブー)はない。何をどうやっても子供が出来ないのだ。遺伝子プールへの影響は皆無。個人の好きにすればいい。地の民達がどうなのかはよく知らない。こいつの反応を見るに、禁忌(タブー)はあるにせよ、生きるの死ぬのというほど深刻なものではない――というところか?
「――ッ」
急に、腕の中の体がこわばる。
そして、逃げ出そうとする。
「え? い、痛いんで――」
「よ――汚す――汚すから――ッ!」
「え――」
一瞬わからず、急に思い当たる。
ああ、イきそうなのか。
「――うるさい」
「え――」
「私ももうすぐなんだから、邪魔しないで下さい」
「だ――だめッ! だって、ふ、服――!」
「うるさい」
どうもこいつのこだわりはよくわからない。なんでそんなことがそんなに気になるんだか。やっぱり今度は、全部脱いでやることにしようか。なんだか服が邪魔なような気もするし。服がなくなったら、こいつ、次はどういうんだろう?
「服はどうでもいい」
言い捨てて、思いきり動く。
やっぱり服が邪魔だった。
(アンツ)
もう――泣きたかった。
まさかこの歳で、その――ろくにさわられもせずに、あんなことになるとは思わなかった。
――たぶん、慣れていないから、過剰に反応してしまうのだろう。
私はおそらく――女性に対しては、半ば不能だ。若いころ、ほんの数えるほどだが、そういう場所に行ってみたことがある。
わかりたくもないことがわかった。
私は、女性の体内で射精をすることが出来ない。
それ以外の方法なら――なんとかなる。だが、いわゆる――本番、は、無理だ。
――怖いのだ。
子供が、できるのが。
新しい『ツキのヒルコ』が生まれてくるのが。
といって、それ以上――つまり男を、同性を、ためしてみるという気にもなれなかった。幸いにして、というか、性欲はあまり強いほうではない――と、思う。出来ないなら出来ないで、それなりになんとかなってきた。
けれどもやはり、私は誰かとふれあいたかったのだろう。
「あの――汚しましたか、やっぱり?」
「――なんでそんなどうでもいいことを、そんなに気にするんです?」
「え――え、と――」
あらためてそう問われると、なぜそんなことにこだわっているのかよくわからない。とりあえず、彼は、まるで気にしていないらしい。
「痛くはなかったようですね」
「――」
照れてしまって、ただ頷く。もう一度だけ、口づけてほしい――と思ったが、もちろん口には出さなかった。
「――」
「――あの」
照れ隠しもかねて、声をかける。
「はい?」
「お茶でも、飲みます?」
「……」
ヒクッ、と片頬がひきつる。う、まずかったのか、今の発言?
「……あなたはどうしてそんなに私にお茶を飲ませたがるんです?」
「あ――お茶、お嫌いですか?」
「いえ、好きですが」
「あ、はあ――」
「――いただきます」
「え?」
「お茶」
「あ、は、はい。今いれてきます」
とにもかくにも。
私にも何か、出来ることがあるというのがうれしかった。
(ユヴュ)
……なんでこうなるんだ。
ついさっきまで、私の下で泣きそうな顔をしていたくせに、今は馬鹿みたいににこにこと、私の前でアップルパイを切り分けている。
みたい、じゃなくて、本物の馬鹿、か。
「……なんで私のパイのほうが大きいんです?」
「え? だってユヴュさんのほうが若いんですし、からだも大きいんですから、たくさん召し上がらないと」
「……」
「――アップルパイ、嫌いですか?」
「いえ、好きですが」
「では、はい、どうぞ」
「……どうも」
アップルパイは嫌いではないが、なんでだかしゃくにさわる。
なんでこいつはこうなんだ。
なんだってもう、ヘラヘラ笑い出すんだ。
もう少しぐらい――もう少しぐらい――。
おろおろしていたっていいだろうに。
「――生徒がおすそわけしてくれたんです」
「え?」
「この、アップルパイ」
「――はあ、そうですか」
私にどう反応しろというんだ。
「では、いただきます」
「――いただきます」
こいつが食べているのを見ると、なんだかこのパイ、ものすごくおいしいもののような感じに見えてくる。
……別にまずくはないが、ごく普通のパイだ。
「……あなたそんなにアップルパイ好きなんですか?」
「え? ――ああ」
アンツの笑いの色が、少しだけ変わる。
「一人で食べるより、ずっとおいしいです」
「は――?」
まったく、なんなんだこいつは。
「……ところで」
「はい」
「あなた、気持ちよかったですか?」
いやがらせをこめて聞いてみる。少しは動揺しろ。
「え――」
真っ赤になった。予想以上に動揺した。どうもいまだに、こいつの価値判断基準がさっぱりわからない。
「あ――ええ――その――はい」
「そうですか」
こいつの反応は、わけがわからないし予測もしがたい。
「よかったですね」
「――ありがとうございます」
ひどく真面目な顔をしている。なんだって今真面目になる必要があるんだか、どうもよくわからない。
「さて――これをいただいたら、私は帰ります」
「え」
別に驚くことはないと思うんだが。
「も、もう、遅いですよ?」
「ええ、ですから、食べたら帰ります」
「え、危なくないですか?」
「貴族に勝てる平民はいません」
これはうぬぼれでも傲慢でもない、単なる事実だ。身体能力が土台から、根底からちがう。よほど念の入った武装でもしていれば別だが、そんな武装のできる者は、そもそもケチな追いはぎなんぞしやしないだろう。
「あの――泊まっていかれませんか? 私は床で寝ればいいですし――」
「は? なんであなたがそんなことをする必要があるんです?」
「いやその、うちベッドが一つしかありませんし――」
「私が帰ればすむことです」
「いやその――ええと、その――お、お疲れでしょうし――」
「いえ、別に」
「あ――そうですか――」
「……」
なんだかよくわからない。どうしてそんなに私をひきとめたがるんだ?
「――あの」
「はい?」
「あの――今日はどうもありがとうございました」
「……はあ」
なんだかこいつは、二言目には私に礼を言っているような気がする。しかも本気で。
「私は別に、特に何もしていませんが」
「いえ――楽しかったです、私」
「はあ――それはどうも」
楽しかった――ねえ。
なんとなく間をもたすために、目の前のアップルパイをもぐもぐと食べる。
黙って食べていたら、すぐになくなる。
「ごちそうさまでした」
「どうも、おそまつさまでした」
「それでは失礼します」
「――なんのおかまいもしませんで」
もうその言葉が単なる慣用句にすぎないことを知ってはいるが、これ以上なにをどうおかまいするんだ、と、ちょっと聞いてやりたくなる。
「どうかこれにこりず、ぜひまた遊びにいらして下さい」
「あなたはどうしてこりないんですか?」
「――え?」
「――別に、なんでも」
「――」
「それでは失礼します」
「――はい。お気をつけて」
一瞬だけ目を伏せて、にっこりと顔をあげる。
それを見て、なぜか落ちつかない気分になる。
私だけがそんな気分になるというのはまっぴらなので。
「――今度」
「え?」
「次はおたがい、全部脱いでやる事にしましょうか?」
「は? ――え、えええええッ!?」
道づれにしてやることにした。
よしよし、動揺しているな。
これでよし。
ざまあみろ。
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