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生きる姿は様々なれど
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(ユーリル)
私はユーリル。
私はユーリル。
私は――ユーリル。
――なんだか、ちがうような気がする。
本当は、こう言ったほうがいいのかもしれない。
私は、ユヴュではない。
私の一番古い記憶――一番、幼かった時の記憶は。
目の前で、わんわんと力一杯泣きじゃくっているユヴュをきょとんと、それとも、呆然と見つめていた、というものだ。
どうしてユヴュは泣いていたのか。
私がけがをしたからだ。
転んだかどうかしたんだろう。原因は、よく覚えていない。とにかく私がけがをして、とたんにユヴュが泣きだした。別に珍しいことではない。地の民の子供どうしでだって起こる現象だ。確か、『感応的同調』と言われている現象――もしくは能力――で、要するに、仲の良いものどうしが、感情を共有してしまうのだ。地の民にさえ起こる現象なのだから、ましてや同族間における共鳴、共感能力の高いわれらイギシュタール貴族においておや、だ。
ただ。
ただ――あの時。
あの時結局、私は泣きはしなかった。
ユヴュが泣きじゃくるのを、きょとんとただ見つめていた。
もう少し大きくなってからその時のことを思い出し、私は奇妙なことを考えた。
私の感情は、私を素通りし、ユヴュに流れ込んでユヴュを、ただユヴュだけを動かすのではないか――と。
もし、仮にそうなのだとしたら。
私の体はぬけがらとなり、ユヴュの意志は押しのけられて、そして――そして――。
そして――なんだ?
もちろんそれは、事実ではない。
私が自分の感情のおもむくままに体を動かす事などいくらでもあるし、ユヴュの意志が非常に強固なことだってよく知っている。私はぬけがらではないし、ユヴュは操り人形ではない。
それでもやっぱり、なぜだかやはり。
私は自分を、こう定義する。
私は、ユヴュではない。
(ユヴュ)
私達イギシュタール貴族は、青年期――私達は『安定期』と言っている――に入るまでは、平民、すなわち地の民達とほぼ同じくらいの割合で年をとり、それから長い安定期に入り、その時が来ると激烈な勢いで老化をはじめ、老衰して死ぬ。もっとも、老化が始まる前に死ぬものもかなり多い。事故や病気が原因、というだけではなく、本当に突然、ぽっくりと死んでしまう者達がかなりいるのだ。といっても、ぽっくりと死ぬその前に、すでに数百年の齢は重ねているわけだが。
まあとにかく、私達の社会には、子供と青年と老人しかいない。もっと詳しく言うと、少しの子供と大勢の青年とほんのわずかな老人だ。
だから、私にとっては。
小さな子供、というのは、ただそれだけで珍しい存在だ。なにしろ私達イギシュタール貴族には、定期的に子供とふれあう研修会というものがある。そうでもしないと、子供とまったくふれあうことなく何十年も過ごしてしまったりするものが出るからだ。
だから私は、小さな子供が珍しい。
なんだかこう、やたらとプニャプニャポニャポニャとしていて、あきれるほど動きがぎこちなくて唐突で、キャアキャアと甲高い声で、キョトキョトとあたりを見まわしている。
面白い。
「あっこ!」
人見知りしないたちの子が、だっこしてくれと手をさしのべてくる。
抱き上げて、たかいたかいをしてやる。
やわらかくて。
ぐにゃぐにゃとして。
あたたかい――と、いうより、熱くて。
薄い皮膚と、やわらかい肉と、細い骨の感触が手に伝わってくる。
奇妙に、胸が騒ぐ。
こんなにも脆い、こんなにも小さな生き物を、この手の中に抱いていてもいいのだろうか。
私も昔は、こんなだったんだろうか。
こんなにも小さく。
こんなにも脆く。
こんなにも――こんなにも愛らしく、あったのだろうか――?
「――」
視線を感じる
老人の――ルヴァンとかいう、老人の視線を。
私は――老人に、なるのだろうか?
仮になるのだとしても、私が老人の姿でいるのは、どんなに長くてもせいぜい2、3年――5年をこす事は絶対にないと断言できる。数百年を数える寿命の内、老人の姿になるのは(老化という現象を知らずに死んでいく者達も大勢いる)せいぜい数年。たったそれだけ。
私達は、老いを知らぬ民。
知るひまもなく、死んでいく民。
「――」
あたりまえだ。
あたりまえのことだ。
知っている。
知っている。
そんなことは、知っている。
昔からよく、知っている。
私達のあいだでは。
子供は希少で、老人はごくまれ。
――だからどうした。
それが、どうした。
私達は、違う。
地の民達とは、違う。
こいつらのあいだでは。
子供も老人も、別に珍しくもなんともない。
そう、そして。
『中年』とかいう、中途半端極まりない年齢の者も。
「――あの」
――こいつは。
アンツは。
『中年』――なんだっけか。
百年に満たない人生の半ばをすでに過ぎ。
体は衰え、容貌も衰え。
私達は、知らない。
老いを深めていく、その道程を知らない。
私達にとっての老いとは。
激烈なる、変貌。
「あのう、もしよろしければ――」
「なんでしょう?」
「ええと――」
パチクリと目をしばたたいているその顔は、いかにも気弱げで頼りない。
私はいったいなんだって、こんな男にいつもいつも、調子を狂わせられなければならないのだろうか?
「あのですね、も、もしよろしければ――」
「さっさと用件を言ってくれませんか?」
「す、すみません。あの」
キョクン、と、やせたのどが息だかつばだかを飲み込む。
「なにかその、お話を聞かせていただけませんか?」
「――は?」
お話、だと?
「お話――ですか? ええと――いったいぜんたい、何を話せというんです?」
「あの、ええと、その――」
アンツの馬鹿は、目を白黒させながら。
「えー、ご、ご先祖様のこととか、あとその、昔のお話とか、宇宙の話とか――」
「はあ、なるほど、今現在の私達の暮らしぶりには、まるっきり興味がない、と」
「そ、そんなことはありません!」
と、アンツは、こちらがびっくりするくらい力一杯かぶりをふる。
「も、もちろん興味あります! あるに決まってます!」
「はあ、そうですか」
いつものことながら。
アンツというのはまったく、妙ちきりんな男だ。
「――昔のことを、話せばいいんですか?」
「――私達は、覚えておりませんので」
「――」
あ。
また――だ。
どうして――だろう。
こいつと――アンツといると、時々。
胸が、奇妙にはねる。
「――私達は、覚えていますよ」
胸がはねると、私はなぜだか。
「ですから――お話、しましょうか」
後先も方角も考えず、けいれん的に、動き出してしまう。
(アンツ)
――知りたかった。
私は、知りたかった。
――何を?
何を――だろう。
きっと。
きっと、なんでもよかったのだ。
私の身の内に巣食う、冷たいうつろを埋めてくれるものなら、きっと、なんでも。
でも。
でも、今は――。
「私達は、かつて人の――あなたがたの祖先の手により、人工的に創り出された種族の末裔です」
ああ――ユヴュが、語っている。
私はただ、ただひたすら。
「私達は、この星をこえ、宇宙のかなたへと進んでいくために生み出された民達の末裔です」
私は今では、ただひたすらに。
ユヴュ。
あなたのことが、知りたい。
ただひたすらに、あなたのことを。あなたのことだけ。
私は知りたい。
私は知らない。
あなたのことを。
あなたがたのことを。
「だから私達は、いまでもいつか、いつの日か、宇宙へかえるために、宇宙の果てを極めるために、生まれ、生き、死んでいきます。――さて、ところで」
あ。
ああ。
それは刃。
あなたの笑みは。
あなたのすべては。
「あなたがたは、いったいなんのために、生まれ、生き、そして死んでいくんでしょうねえ――?」
あなたの笑みは、あなたのすべては。
私を切り裂き、焼き焦がす。
私は血を流し、醜く焼けただれる。
――でも。
その時。
切り裂かれ、焼き焦がされる瞬間は。
私のうつろも切り裂かれ、凍えた身の内のしこりが焼け焦げ、とける。
「――」
誰も自分の問いには答えないのを見て、ユヴュの笑みが深くなる。
なんのために生きているのか?
私はいったい、なんのために生きているのか?
ああ、やはり。
私は、知りたいのだ。
どうしても、私は問うてしまう。問い続けてしまう。
なぜ?
どうして?
なんのために?
答えがあろうとなかろうと。
私は問いを、投げかける。
(ユヴュ)
わかっているんだろうか、こいつら。
どうもわかっていない気がする。
だったらどう説明すれば「わかる」ようになるのか。
いや、そもそも。
私はこいつらに、いったい何をわからせたいのか。
私は何を延々と、私達ならだれもが共有している知識を、何も知らない、知ろうともしない、膨大な記憶と記録とをただ空しく消え去るにまかせてきた民達に、懸命に語り続けている――。
――懸命?
――懸命に?
懸命に――なっているのか、私は?
なぜ?
いったい、どうして?
いったいどうして、こんな連中を相手にむきにならなければならないんだ、私は?
「私達は――」
一瞬の空白に。
「んにゃーん!」
赤ん坊の泣き声が割り込む。
「――」
フッ――と、私から、何かが抜ける。
そして、気づく。
アンツの視線、アンツの目、アンツの瞳に。
私を見つめている。
うるんで、ゆれている。
恐ろしいほど強烈な光を放っている。
私は息を飲む。
私が息を飲んだとたん。
ガクン――と、アンツからも、何かが抜ける。
「ああ――すみません」
そこにいるのは、そこですまなさそうに頭を下げているのは。
ちっぽけでしょぼくれたつまらない、ただの、地の民の男。
なのに、なぜ。
私は息を飲んだのか。
「あー、ターニャちゃん、ミルクかな、それともおむつかな?」
「どーれどーれ、どうしたどうした」
ルヴァンとかいう老人が、ちっぽけでプニャプニャしたまるまっちい赤ん坊を、ひざの上であやす。
「――手伝いましょうか?」
と、私が言うと。
「「「「「え!?」」」」」
アンツ、のみならず、老人連中、そのうえ年かさの子供達までもが、ギョッとしたように私を見た。おい――私ってそんなに信用ないのか?
「その――私にはまだ子供はいませんが、やりかたを習ったことくらいはありますよ」
私達イギシュタール貴族のあいだでは、保育の授業は全員必修だ。
「――いやいやいや、いやいやどうも――」
ブツブツ言いながら、ルヴァン老人は赤ん坊を部屋の外に連れていってしまった。つまらん。久しぶりに赤ん坊の世話が出来るかと思ったのに。
「――ええと」
興がそがれた、というか、水を入れられた、というか。
「ではまあ――私の話は、とりあえずここで終わりとさせていただきます」
パタパタパタ――と、子供達が、ついで老人達が、拍手をする。
まあ、悪い気はしない。
悪い気はしない、が。
どうせこいつら、なんにもわかっていやしないんだ、とも、心のどこかで思っている。
――だからどうした。
それが、どうした。
この連中が、わかっていようといるまいと、どうだっていいじゃないか、そんなこと。
だったら、なぜ。
私は懸命に、語り続けていたのだろう。
だったら、どうして。
私の胸の内を、奇妙な炎が焦がしていくのか。
「――」
一礼して、壇を下りる。
「――」
おい。
アンツ、おまえが壇上に戻らなきゃ、話が続かないじゃないか。
「――せんせー?」
当惑げな子供の声に、アンツはあわてて前にでる。
「はい、ユヴュさん、どうもありがとうございました。大変興味深いお話でしたね。みなさん――」
「せんせー」
再び、子供の声。
「この人、何言ってんの? 全然わかんなかった」
ザワ――と、年かさの連中の周りの空気が揺れる。私は苦笑する。こいつらまさか、私がこの程度のことで怒るとでも思っているのか?
「私の話は、わけがわかりませんでしたか?」
「うん、わっかんなかった」
「そうですか。まあ、しかたないですね」
しかたのないこと。
どうでもいいこと。
「だってあなたがたは、昔のことをみんなみんな、忘れ去ってしまったんですから。わからなくても、しかたがありません」
だから、腹も立たない。
こいつらは、別に。
そんなこと知らなくたって、生きていける。
「――」
奇妙なものが、見えた。
とても、奇妙なものが。
アンツが小さく、だが、妙にきっぱりと。
かぶりをふったのが、見えた。
(アンツ)
しかたなくない。
しかたなくなんか、ない。
私達にだって、出来たはずだ。
過去を覚えておくことが。
私達にだって、出来るはずだ。
過去とつながって、生きていくことが。
あきらめない。
あきらめたくない。
私達にだって――私にだって――。
そうすることは、出来るはずだ。
出来るはずだ。
過去を捨てずに、生きていくことが。
――出来る、はずだ。
捨てずに生きていくことが。
(ユーリル)
――つながっている。
私達はみな、互いにつながりあっている。
とけあっている――と、いってもいいのかもしれない。
イギシュタールの真の民達は、互いに互いを重ね合わせる。
誰もが同じ、みな同じ。
イギシュタールの、真の民。
――でも、思う。それでも、思う。
私は――ユヴュでは、ない。
ユヴュは私ではない。
ユヴュはユーリルではない。
ユーリルはユヴュではない。
ユヴュは、こんな事を考えたりするのだろうか。
それとも、こんなことはあまりにあたりまえすぎて、いちいち考えてみることもしないのだろうか。
私は――考える。考えている。
私ではないけれど、私に一番近しかったものが、私の半身が、私の片割れが――。
私から、離れていく。
――もしかしたら、当然のことなのかもしれない。
私はユヴュではなく、ユヴュは私ではないのだから。
でも――それでも。
私はユヴュではなく、ユヴュは私ではないけれど。
それでも私達は、互いの半身どうしなのだ。
――そのはず、だ。
それとも。
それとも――ちがうのだろうか――。
(アンツ)
「あなたがたは、よっぽど私を信用していないんですか?」
と、ユヴュがすねたように言う。
「え、ど、どうしてまたそんな――」
「だって」
と、ユヴュがむくれる。
「私が手伝うって言ったのに、赤ちゃん連れて行っちゃったじゃないですか」
「ああ――」
頷きながら、言葉を探す。
「だってその、悪いと思ったんですよ」
「は? 何が?」
「いやそのだから、あの時もしかしたらその、おむつが濡れたせいで泣いていたのかもしれませんでしたし――」
「出来ますよ、私」
ユヴュは口をとがらせた。
「ちゃんと実習で習いましたから」
「はあ――実習、ですか? そ、そういうその、授業か何かがあるんですか?」
「ありますよ、もちろん。私達のあいだでは、子供は貴重で希少ですからね。そういう実習は、必修です」
「ははあ――」
ため息とともに、私は感嘆する。
「そうなんですか。知りませんでした」
「――それなら、しかたがないのかもしれませんね」
不承不承、というふうに、ユヴュは頷く。
「確かに、経験があるのかないのかわからない者に、赤ちゃんの世話を任せるのは不安でしょうし」
「え? ええと――」
私は困惑する。どうも互いの意図するところが、いささかずれてしまっているようだ。
「というかその――貴族のかたに赤ちゃんのおむつをかえさせるなんてその、恐れ多いと思ったんですよ、みんな」
「――は?」
ユヴュは、完全に困惑していた。
胸が苦しくなる。
かわいいあなた。きれいなあなた。きれいなきれいな――あなた。
「恐れ多い? ――何が?」
「いやだって――汚いでしょう?」
「でも、誰かがやらなければいけないことでしょう?」
「は、はあ、それはまあ、確かに――」
「――」
ユヴュの当惑。イギシュタール貴族の当惑。
私は――私達、地の民達は、そんなふうに当惑することなど出来はしない。
「――赤ちゃん、かわいいですから」
未だわずかに当惑を残し、ユヴュは言う。
「面倒見るの、楽しいですよ」
「ああ――そうですねえ――」
なんてかわいい人なんだろう。
なんてきれいな人なんだろう。
なんて無邪気な人なんだろう。
なんてかわいい人達なんだろう。
なんてきれいな人達なんだろう。
なんて無邪気な人達なんだろう。
私達――いや。
私――私は。
あなたのようでは、あれない。
あなたがたのようには、なれない。
「――たくさんいるんですね」
ユヴュが、ポツリと言う。
「え?」
「たくさん、いるんですね。子供も、老人も」
「そうですね」
「私達とは、違いますね」
「そう、ですね。ええ――」
「――」
まっすぐな、琥珀の瞳に貫かれる。
私は見つめている。
私を見つめる瞳を。
あなたが好きだとあなたに告げても、世界もあなたも、何一つ変わることはない。
ただ私だけが自覚していく。
あなたに恋して、動けぬ私を。
(ユヴュ)
自分から見つめてくるくせに、私が見つめ返すと目を伏せる。
おかしなやつだ、本当に。
「――なにか言いたいことでも?」
「え? ――いえ、別に――」
とろい、とか、頭が悪いというのともすこしちがう――の、だろうか?
こいつと話をしていると、時々――時々――。
アンツのやつが、一人で勝手に立ち止まってしまう、ような気がする。
いやもちろん、立ち止まるも何も、私達はずっと座ったまんまで話を続けているのだが。
どうしてだろう。
いらいらする。
勝手な事をするな。私を勝手に――。
――え? 私は今――何を考えていた?
――とにかく。
私の目の前で、勝手な事をするな。
見つめる。
見つめる。
見つめ、続ける。
「――」
とても、奇妙な瞳。
とても、奇妙な表情。
とても――とても――。
――なぜだろう。
私も立ち止まっている。
――え? い、いや、違う――。
私は。
立ち止まらない!
「――あなたを見ているといらいらします」
「――すみません」
本当にすまないと思っているのだろうか。
ひどく、真剣な顔をしている。それは間違いない。が――。
なぜだ。
なぜ。
なぜ、いつの間に、私はこいつといっしょに足を止め――。
――ちがう。
なぜ、いつの間に。
どうして私は、おかしなことを考えてしまうのだ?
私は少し、混乱する。
「――あなたはおかしな人ですね」
「――そうですね」
そうだ、私は。
調子が狂っているのだ。
こいつはおかしなやつで、だから、私は。
調子が、狂う。
奇妙な瞳。
奇妙な表情。
見つめていると、どんどん調子が狂っていく。
「――」
体に、触れる。
アンツの、体に。
体はただの、やせた体で。
どこにも妙なところはない。
(アンツ)
触れられた。
触れて、もらえた。
いつの間にか。
目を、閉じていた。
触れられた場所が、熱かった。
「――なんで目をつぶるんです?」
「え」
そう聞かれて、急に恥ずかしくなる。
「そ、その――びっくりしてしまって」
「そうですか」
ククッ――と、のどをならすような笑い声が聞こえた。
「あなたがたの文化では、あまり互いに触れあったりはしないようですね」
「そう――ですね」
そうなのかもしれない。
実際、そういうところもあるのかもしれない。
でも、知っている。
私は、知っている。
私が、触れられることに慣れていないのは。
私が、他人から触れられたことがないのは。
誰も私に触れようなどとはしないのは。
それは。
それは。
その、理由は。
ソレハワタシガ『つきノひるこ』ダカラ――。
「さわられるの、嫌いなんですか?」
「い、いえ、別にそういうわけでは――」
ただ、私は、信じられないだけ。
信じきれずにいるだけ。
私が『ツキのヒルコ』と知っても。
ためらいもせずに私に触れてくれ、私のとまどいをおかしそうに笑いとばしてくれる人がいる、ということを。
信じきれずに、いるだけ。
「――別に」
やはりおかしそうに、ユヴュは笑う。
「ひどい目にあわせたりしませんよ」
「――」
答えに困り、私は目をしばたたく。
ユヴュは笑っている。
おかしそうに。
私も、つられて笑う。
たぶん、照れたように、私は笑っているのだろう。
「今日は楽しかったですよ」
「そうですか。それならよかったです」
心の底から、私は言う。
それなら、よかった。
あなたが楽しんでくれたのなら、本当によかった。
「でも」
「はい」
「あなた達は」
ああ。
燃え上がる、琥珀の両眼。
「本当に、なんにも知らないんですね。覚えていないんですね、何も。すべてを――すべてを忘れ去ってしまったんですね」
「――」
時の大河をただ押し流され、ただ今のみに生きる者達は。
過去を守り、過去をとどめようとするものとも、未来を見はるかし、そこへとたどりつこうとする者とも、いつかは遠く隔たっていく。
私は。
私は――。
ワタシハアナタノソバニイタイ――。
「教えないんですか?」
「え?」
「あなたはいろいろと、人生の大半を費やして、役にも立たない研究を続けてきたのに」
ユヴュは笑っている。
笑われているのは、私。
でも、別に。
それでも、いい。
「その研究の成果を、あなたの生徒さん達には教えてあげたりしないんですか?」
「え――」
虚をつかれた。
あまりにも意外な言葉だった。
「私の――研究の、成果を?」
「どうせだれも知りたがりやしないでしょうけど」
おそらくユヴュのこの笑みは『意地の悪い笑み』と呼ばれるようなものなのだろうけど。
意地の悪い事を、言っているのだろうけど。
私はユヴュを見つめていたい。
語る言葉を、聞いていたい。
「教えてみたりはしなかったんですか? 生徒さん達、あきらかに、私達イギシュタール貴族のことも昔のことも、何一つ知らないみたいでしたけど? どうして教えないんですか? 誰かに教えたくて、伝えたくて、それであんな本を書いたんでしょう? なのに自分の生徒さん達には、何も教えずにおくんですか?」
「――」
ああ。
あなたは、正しい。
私はまだ、『ツキのヒルコ』の私に、守るべきものなど何もないと思っていながらまだ。
自分自身と、自分の生活とを守ろうとしていたのだ。
「みんなが私に望んでいるのは――私から、役に立つことを教えてもらう、ということだけですから――」
「役に立つこと? ――なるほど。なるほどねえ」
役に立つこと。
役に立つもの。
役に立つ人。
あなたにとって、この私は。
役に立つ何ものかで、あるのだろうか――。
(アンツ)
「――今日は、楽しかったです」
刃のように、きらめく笑顔。
たとえ傷つき血を流しても。
私はきれいなものに触れたい。
私はきれいではない。きれいであったことなど一度もない。これからきれいになることもない。地をはいずるヒルコが光り輝くことなど決してない。
だから、ユヴュ。
あなたは、いくら私を切り裂いてもいい。引き裂いてもいい。踏みにじってもいい。
あなただけが、私に触れてくれる。あなただけが、私の言葉を、本当に言いたかった言葉を聞いてくれる。あなただけが、まっすぐに私を見つめてくれる。
――迷惑だろう、きっと。私のようなものに、こんな懸想をされてしまっては。
それでも。
ソレデモアナタトイッショニイタイ――。
「今日は楽しかったですから」
クスクスと、ユヴュが笑う。
「何か一つ、お返しをしてあげますよ」
「え? い、いえ、そんな――」
「そうですね、何か一つ」
軽やかな、無邪気な笑い。
「して欲しいことがあるなら、してあげますよ」
「え――」
して欲しいこと。
それより。
したい、こと。
決してかないはしない願い。
夢見ることさえ、愚かで無謀。
私は一生、口には出さない。表に出さない。
ただ一瞬だけ、チラリと思う。
ユヴュ。
私はあなたを、抱いてみたい。
あなたがもしも、少しもあまさず私の心を読める力を手に入れたなら、あなたはきっと、激怒するより先に笑い転げてしまうだろう。
私の願いはかなわない。
わかっているけど、私の胸は言葉を紡ぐ。
一度でいいから、一瞬でいいから。
あなたを私のものにしたい。
それは、無理。
わかっている。
だから、私は。
気弱に、笑う。
「あの――また、来て下さい」
「え?」
ユヴュは、きょとんとした顔をした。
「別に言われなくても、また来るつもりですが?」
「――」
私が今、どんなにうれしいか、きっとあなたにはわからないだろう。
きっとわからない。
わからなくてもいい。
ただ、ひたすらに。
私は、うれしい。
「だから、今のは無効です」
と、ユヴュは言う。
「他に何かないんですか?」
「え――」
して欲しいこと。
したいこと。
言っても、いいのだろうか。
言って、しまおうか。
「――て、くれますか?」
「え? もっとはっきり言って下さい」
「――」
言ったら、どうなる?
――。
たぶん、どうにもならない。
ユヴュは別に何とも思わず、いささかも動じはしないだろう。
――だったら。
言って、みるか。
「――キ――キス、してくれますか――?」
「――」
とまどったような、若い顔。
「――あなたはおかしな人ですね」
「あ――」
唇は、まっすぐに。
私を、射抜く。
(ユヴュ)
なんだかさっぱりわからない。
いったいどうして、なんだってこいつは。
私のことが、好きなのか。
好かれるようなことなどしていない。ただの一度も、していない。
いつだって、叩きのめしてやろう、うち負かしてやろう、足元に這いつくばらせてやろうとしているだけなのに。
こいつは勝手に、一人勝手に、ヘラヘラと幸せになっていってしまう。
言われた通りにキスしてやれば、息をつめて苦しげな顔になる。
なんだかさっぱりわからない。
「――これでいいんですか?」
「――ありがとうございます」
一瞬目を伏せ、また上げたその顔は、いつもと同じ、気の抜ける笑顔で。
私もなんだか気が抜ける。
「それではこれで失礼します」
「え。そ、そうですか、も、もうですか?」
「もうってことはないでしょう。昨日一泊したんですから」
「あ、ええ、まあ、それはまあ、そうなんですが――」
「また来ます」
「――ありがとう、ございます」
なんだって、このタイミングで礼など言うんだこいつは。
もしかして――私が来るのがうれしいのか?
なんでうれしいんだ?
何がうれしいんだ?
私は別に、うれしくもなんともないのに。
――ダッタラナゼナンドモココニクルノ――?
――え?
私は今、なにかおかしなことを考えなかったか?
――。
――気のせい、か。
「――私が来るのがうれしいですか?」
「はい、とても」
「なんで?」
「――」
目の前の笑みが、ふと揺らぐ。
そして。
「あなたといっしょに――いろんなことについてお話したりできるのが、とても楽しいんです、私は」
返ってきたのは、特にどうということもない答えだった。
(アンツ)
――ああ。
行ってしまった。
体から力が抜ける。それはもう、驚くほど速やかに抜けていく。
気がつくと座りこんでいる。
私はいったい、何をやっているんだろう。
これは恋。
私にとっては。
では、ユヴュにとっては?
恋――ではない、だろう。それではいったいなんなのか、は、よくはわからないが、ともかく恋ではないだろう。
片恋。
別に。
それでいい。私が片恋以外の何を望めようか。
恋してる。
愛してる。
一方的に、身勝手に。
それでも。
キスしてくれた。
「――出来たんだなあ」
ぼんやりと、一人つぶやいている。
「私――好きな人と体を重ねることも、好きな人にキスしてもらうことも――できたんだなあ、ちゃんと――」
しかもその人は、私のことを『ツキのヒルコ』だと知っていて、それでも私にそうしてくれた。
「――無理だと思ってたけどなあ――」
でも、出来た。無理だと思っていたけど出来た。とてもとても、幸せな気持ちになれた。
――なのに。
なのに、なぜ。
私の胸はキリキリとしめつけられ、ジクジクとうずくのか。
「――ない、ない、ない――」
私は何をつぶやいている?
いったいぜんたい、何が「ない」?
ああそうだ、そうだとも。
私には「ない」。
ユヴュには「ある」。
ないないない、なんにもない。
わかりきってることなんだから、無駄にあがいて何になる。
ないないない。なんにもない。ないないない。一つもない。
恋しても、愛しても、それでも何も変わらない。
ああ、でも。
一つだけ、ある。
私の手にも、一つだけ。
あなたが私に、会いに来てくれたという。
私の持てる、たった一つの奇跡が。
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