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ただ知りたくて、知りたくて
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(ユーリル)
「――楽しそうだね」
と、言ってみた。
「ユヴュは最近、楽しそうだね」
と。
「そう見えますか?」
と、ユヴュは心外そうな顔で言う。
「うん、そう見える」
見えるよ。
そう、見えるんだよ、ユヴュ。
とても、楽しそうに。
とても、生き生きとして。
そして、その目は。
私を、見ていない。
「まあ私は、ユーリルとはちがって、いたって気楽な身の上ですから」
肩をすくめて、ユヴュが言う。
そうなの?
本当に――そう、なの?
「んー――かわる?」
ねえ、ユヴュ。
私は――私は、別に。
私がスペアになったって、いいんだ。
どっちだって、おんなじことなんだ。
でも――きっと。
ユヴュがオリジナルになったって。
ユヴュはやっぱり、街に行く。
街へ。
地の民達の、ところへ。
「そう言うことを言わないで下さい。そっちがオリジナルなんですから」
ああ、そうだね。
確かに、そうだ。
でも――。
「でも、ユヴュのほうがうまく出来るんじゃないかなあ? 私、ほら、わりとポーッとしてるし」
「いいんですよ。器はそっちの方が大きいんですから」
ああ。
ユヴュは本当に、そう思っている。
無邪気に、純粋に、私のことを信頼している。
ちがう。
ちがうんだよ。
器が大きいんじゃない。
私は。
うつろなんだ。
私の中には――何も、ないんだ――。
「……日替わりで交代するというのはどうだろう……」
などと、言ってみる。
本当のことは何も言わずに。
それでも何かは伝わったのか。
「そっちが病気になりでもしたら、ちゃんとかわりをつとめてあげます。ですからそれまで頑張って下さい」
うん。
ありがと。
私が荷物を持ちきれなくなったら、かわってくれるんだよね。
でも――でも――。
ねえ、ユヴュ。
私には――そもそもないような気がするんだよ。
私はね、ずっと、ずっと――。
荷物なんて――何にも持ってないような気がするんだよ――。
「うう……病気になるまで頑張れってこと?」
「いえ、そもそも病気などで倒れることのないように、しっかり自己管理して下さいね」
うん。
出来るよ。
それなら、出来るんだよ。
あのね。
私はね。
どうやって無理をしたり、羽目をはずしたりすればいいのか、さっぱりわからないんだよ。
「うー、つまり、かわる気はないってこと?」
「そうなりますかね」
あのね。
本当はね。
かわって欲しいんじゃ、ないんだ。
私――私は、ただ――。
――欲しいんだ。
ユヴュ。
君の、炎が。
――寒い。
寒いよ。
私の中には、何もないから。
欲しい。
欲しい。
私の内から、あふれ出るものが。
無理なら、せめて。
私の中に入れるものが――つめこむことが出来るものが、欲しい――。
なにか――なにか――。
ナンデモイイカラ――。
「――『ツキのヒルコ』って知ってます?」
「え? ああ――地の民達が『ツキノヒト』を呼ぶときの――」
「ちがいますよ」
「あれ、ちがうの?」
「彼らにとっては『ツキノヒト』は『ツキノヒト』なんですよ。異形であっても、貴族は貴族。『ツキのヒルコ』じゃありません。――まあ、本当はどう思っているか、なんてことまではわかりませんがね。しかしそういうことになっています」
「――へえ」
「詳しいね」と言いかけやめる。ユヴュは最近、一人だけで出かけることが多い。たいていは、地の民達の街へと行っているのだという。きっと、誰か親しくなった相手でもいるのだろう。
ああ。
私の半身が――私から、離れていく。
「それじゃあ――『ツキのヒルコ』って、いったいなに?」
「死すべき者達です」
「え――?」
「『ツキの船』や『乳の川』は知っていますか?」
「え――それは、何――?」
「『ツキのヒルコ』は『ツキの船』に乗せられて、『乳の川』へと流されます」
「え、ちょ、ちょっとまって! つ、つまり、あ、赤ちゃんを川に――!?」
「もう少し運がよければ『乳の川』のほとりに捨てられるだけですみます。全員死ぬとは限らない――と、いうことになっている、らしいですよ。実際、サマリナの連中が、時々『ヒルコ拾い』に来るそうなんで」
「どうして――そんなことをするの?」
「――どうして、でしょうね」
ああ、そうか。
ユヴュもまた、困惑しているからこそ、私に問いを投げかけたのだ。
「一種の安楽死――と、いうわけでも、ないらしい、ですよ。それはね――生き残ること自体難しいような子達だっているでしょうが、そうでない子達だって、たくさんいるはずなのに――」
「それは、その――一人残らず――?」
「いえ――程度がそれなりに軽ければ、捨てられずにすむこともある、ようですが」
「捨てられてしまう――こともある?」
「というか――捨てられることのほうが多い、らしいですよ」
「――どうして?」
「――どうして、でしょう?」
「だって――生きられるのに――なんで――」
「そうですよね――そう、思いますよね――?」
私達は、共に困惑する。
同じ感情を共有する。
今はまだ。まだ今は。
私達は、互いの半身でいる。
「――でもさ」
「はい?」
「サマリナの人達は、その――『ツキのヒルコ』だっけ? その子たちを拾っていって――どうするの?」
「――育てるんだそうですよ」
「へえ。親切――」
「っていうだけじゃないですよ、当然。『ツキのヒルコ』の中には――いろんな、特殊能力を発現させるようなのも、いるそうですから」
「へえ――」
「――なのにどうして捨てるんでしょう?」
ユヴュは、ブツブツとつぶやいた。
「ちゃんと育てれば、役に立つようになるのかもしれないのに、どうして――」
「――」
なぜ、ユヴュは――そんなことに、興味を持つのだろう?
「なぜ、彼らは――そんなにもそれを嫌うのか――?」
「――怖いんじゃないかな?」
「え?」
「いや――なんとなく、だけど。なんていうかさ――捨てる、っていうより、一刻も早く自分達のそばから離したがってる、みたいに聞こえるよ、なんか。だってさ――なんでわざわざ、川に流すの? その――言い方は悪いけどさ、ただ始末したいんだったら、その、なんていうか――船に乗せて川に流す、なんて手間は、いらないよ、ね? なんか――川に流して、一刻も早く――遠い所に流れ去ってもらいたい、って――そんな、感じがする――」
「――」
「川のほとりに捨てた子達は――サマリナの人達が拾いにくるんだろ? それって、つまり――サマリナの人達に押しつけて、その――」
「――なるほど」
ああ。
ユヴュの両目に、炎がともる。
「どちらの場合も、直接には自分達の手を汚さずに、厄介者を始末しよう、と、そういうことですか。川に流された子達だって――ひどく低い確率ではありますが、助かる、かもしれませんものねえ、もしかしたら。ふん、なるほど。あいつら、そんなことまで、他人に――他者に、押しつけるのか――」
「――」
その怒りは、どこから来るのか。
――いや。
その怒りは――誰のためのものなのか。
ユヴュ。
誰のために――そんなに本気で怒っているの?
私のため、ではないことだけは確かだ。
ああ。
もとはひとつであったはずなのに。
どうして私達は、こんなにもちがうのか。
「――ユヴュ」
「はい?」
「どうしてそんなことが気になるの?」
「――」
私と同じ、琥珀の瞳。
だけど。
私の瞳の中に――あんなものは、ない。
あんな、鮮烈な炎は。
「――腹が立ちませんか?」
「え?」
「あの連中は、いつだって――何もかも人に押しつける――」
「――」
持ちつ持たれつだろう――とも思ったが、それを口には出さなかった。
多分、ユヴュは――そういうことを、言っているんじゃない。
ユヴュ。
地の民達と、何があったの?
そんなにも、腹を立てているのに、どうして――。
どうして彼らの所に行くの?
遠い。
遠いよ。
ユヴュ。
遠いよ――。
「――ユーリル」
「ん、何?」
「ツキって、いったい――なんでしょう――?」
「――」
答えたかった。
その問いに、答えたかった。
なのに。
私の内に――その答えは、なかった。
「――イギシュタールは、ツキに従う」
ちがう。
ちがう。
それは私の答えじゃない。
私の内から出た答えじゃない。
なのに。
なのに。
私の口からは、そんな言葉しか出なくて――。
「――そうですね。そうでした」
ちがう。
ちがう。
その笑いは――そんな笑いは、ちがう――。
「――やっぱりあなたがオリジナルですよ、ユーリル」
「――」
ちがう。
ちがう。
ちがう――。
ちがうのに。ちがうのだということだけは、こんなにもはっきりとわかっているのに。
私の内には、何もない。
炎も。
翼も。
ツキさえも。
私の内に、あるのは、ただ――。
果てしない、渇仰だけ。
私は何を求めているのか。
せめて知りたい、それだけは――。
(ユヴュ)
こいつはいったい、何を考えているんだろう?
と、初めて会った時思ったし、しばらくつきあってみてもやっぱりそう思ったし、もちろん今だってそう思っている。
こいつはいったい、何を考えているんだろう?
私達――イギシュタール貴族どうしでそんなふうに思う事はめったにない。もちろん、相手の考えていることが完全にわかるなどという事はないのだが、何を考えているのかさっぱりわからない、ということもまずない。
「――あなたはいったい、何を考えているんですか?」
「え?」
アンツはきょとんと首を傾げる。
「何を――とは?」
「質問しているのは私です」
「あ、その、どうもすみません」
「――あなたが何を考えているのか、私にはさっぱりわからない」
「――」
「――なんで笑うんです」
「あ、すみません。その、ええ、その――」
「その?」
「――うれしかったんです」
「は? ――何が?」
「私なんかが考えていることを、あなたが気にして下さったから」
「――」
まったく、どうしてこうこいつは、私をいらいらさせるんだ。
「別に、気にしたくてしているわけではありません。ただ――」
ただ――なんだというのだろうか。
「――あなたがたの考えていることは、私にはよくわからない」
私は嘘はついていない。
私達貴族と、こいつら地の民達とはちがう。
ただ。
アンツという男は、地の民達のあいだでも、どう見てもかなりの変人と見られるであろう男だ。
だからよけいにわからない――の、だと、思う。
「――私達は、地で生きる民ですから」
「それを言うなら私達だって、今は地の上でしか生きられない身の上ですが?」
「それでも記憶があるでしょう?」
そう言われ、まっすぐに見つめられ、一瞬息がとまった。
「――あったらどうだというんです。それに、あなたの言っていることは、おかしい。いかに我々の寿命が長いからといって、『大厄災』以前から生き残っているものなんて、一人もいるはずないじゃないですか。私達にあるのは、記憶じゃなくて記録です。言葉は正確に使って下さい」
「はい。――すみません」
記憶。
記録。
奇妙なことに、こいつの言っていることのほうが正しいんじゃないか、などと、心のどこかで思っている。
「――私達は」
ひとりごとのように、アンツが小声でつぶやく。
「記憶も記録も――捨てて、しまいました」
「それは私達には関わりのないことですね。まあ、あなたがたにも関わりないと言えばないでしょうが。生まれる前からすでに失われているものを、あらためて捨てたりなんかできやしませんからねえ」
「だから、教えて下さい」
いきなりそう言われ、噛みつくように、食らいつくようにそう言われ、私は――私は、もしかしたら――。
私は、もしかしたら――怯えた、のかもしれない――。
「え――」
「教えて下さい。私に、教えて下さい。私は――私達は、持っていないんです。生まれる前から失ってしまっているんです。私はなんにも知らないんです。だから、だから教えて下さい。昔のことを――あなたがたの、ことを――」
「――いったい知ってどうするんです」
ああ、そう――そうだ。
教えろというなら教えてやったっていいが。
それを知ってこいつは――いったい何を、どうするんだ?
「――ただ、知りたいんです」
アンツは、ほんの少しだけ、弱々しい声で言った。
「私はただ――ただ、知りたいんです」
「――」
理由も目的もない情熱。
そんなものが私に――いや。
私達に、あるだろうか。
私達――イギシュタール貴族に。
情熱はある。私達にだって、情熱ならある。
理由も目的もたいそうしっかりとした情熱なら。
しかしこいつの身の内にある熱は――。
「――私が教えない、と言ったら、あなたはどうするんですか?」
「――」
アンツは一瞬、息を飲み。
「――そしたら自分で調べます」
――と、言った。
「――」
なぜだろう。
私は、なぜ。
「――そう、ですか」
私は――なぜ。
目もくらむようなすさまじい怒りを覚えたりしたのだろうか――。
(アンツ)
どうするのか。
どうなるのか。
私はいったい――どう、したいのか。
ただ知りたくて。ただ会いたくて。ただ――。
この時が、続いて欲しくて。
先のことなど、まるで考えていない。
だが――そうだ。
彼はいつでも、拒めるのだ。
その気になれば、いつだって拒める。
もし拒まれたら、私はどうする――いや。
私は、どうなる?
どうなってしまうのか、なんとなくわかるような気がする。
どんな想像よりもはるかに、見苦しい姿をさらしてしまうのではないか、とも思う。
だがとりあえず、今現在。
ユヴュは私の目の前にいる。
「――アンツさん」
「は、はい」
「私に教えてくれますか?」
「は、はい、なんでしょう?」
「あなたがたは」
私達は。
「過去を、忌まわしいものだと思っているんですか――?」
「え――」
過去を――忌まわしい、ものだと?
「ど――どうしてそんな――」
「だから捨て去り、忘れ去ってしまったのか、と、思ったんですが、私は」
「――」
忌まわしいもの、だから。
捨て去り――忘れる――。
「おっと、捨ててしまったのは、あなたがたのご先祖様達でしたっけ? それだったらあなたがたには、関係のないことですねえ」
「いえ――関係、は――ある、と思います――」
「そうですか」
そう、きっと――関係は、ある。
「だったらどうして捨てるんです?」
「え――それ、は――」
どうして捨てる?
どうして、忘れる?
どうして――?
「捨てると何か、いいことでもあるんですか?」
「え――いいこと――? それは――」
捨てて、忘れて、得をすること。
いったい誰が、得をする?
「それ、は――」
その答えを、私はきっと知っている。
それなのに、言葉に出来ない。
「あの――ええと――その――」
「別にいいですよ、そんなに無理して答えてくれなくても」
「その――どうもすみません」
「謝らなくてもいいですよ。あなたのせいではないでしょう?」
「――」
私のせいではない。
本当に、そう、なのだろうか。
「――あなたはおかしな人ですね」
ユヴュの瞳が、私をとらえる。
その、琥珀の両眼が。
「誰も気にしやしないものに、いつもそんなにこだわって」
「――」
あなたもおかしな人ですね。
私なんかに、会いに来て。
「私はただ――ただ、知りたいんです――」
そう、いつだって。
私のすることに、意味などない。
私という存在に、意味などない。
意味などないが、私は誓う。
私は決して、忘れない。
(ユーリル)
行ってみよう。
そう、思った。
地の民達の、街に。
行ってみよう。
そこに、何があるのか。
そこで、何を見るのか。
それを知れば、私は。
少しは楽に――なれる、だろうか?
行ってみよう。
そうだ。行って、みよう。
行ってみよう。
私、一人で。
ユヴュのように。
一人、だけで。
わからない。
わからない。
私には、わからない。
ユヴュは、ここでいったい、何を見出したというのだろうか。
わからない。
わからない。
私には、何も見えない。
私の目には、ただの景色が映っているだけ。
心を揺さぶる、ものが見えない。
これが――地の民達の、街。それは――わかる。
わかるが心は動かない。
なぜ?
なぜ?
私とユヴュとは、もとは一つのものなのに。
同じであった、はずなのに。
なぜ私には、見つからない?
――けど。
ああ。
私にも、わかることがある。
心もわずかに動き出す。
ああ、そうだ。これは、この光景は、地の民達の街でないと目にすることは出来ないな。
きっと、これは、彼らにとっては普通の光景。
でも私には、珍しい。
なんてたくさんいるんだろう。なんてたくさん、無造作に。
ああ、なんてたくさんの。
子供達が。老人達が。
われらの子供時代は短く、老年はさらに、すさまじく短い。
ああ、そうか、もともとは。
人とはこういうものだったのか。
生まれ出でて、成長し、子を成し、老いて、死ぬ。
われらの若い時――青年期は、異常に長い。
なるほど、地の民達から見れば、私達は異形に見えることだろう。
――だが、しかし。
だから――なんだ?
珍しい、とは思う。私達とは違う、とも思う。
だが、だからといって、ユヴュのように繰り返し繰り返し、地の民達の街に通うほど、そんなことに――そんなちょっとした珍しさにひきつけられるか? 心を奪われるか?
――いや。少なくとも私は、それほど心を揺らされたわけではない。
ただ。
彼らとわれらが、違うのはわかった。
――川のほとりに立っていた。
『乳の川』のほとりに立っていた。
わからなかった。
やはり、わからなかった。
地の民達が、私達とはちがうということはわかった。――というか、そんなことははじめから知っていた。
だが、わからなかった。
ユヴュが――私の半身が――彼らの内に、いったいなにを見たのかは。
川のほとりに、立っていた。
ユヴュは、ここに来たことがあるのだろうか? ――多分ないだろう。彼がここに来ていたら、きっとここで見た事柄を、私に話さずにはいられなかったはずだ。
それとも。
ちがうのだろうか。
私達は、そんなにも、遠く離れてしまったのだろうか――?
夜風がざわめきを運んでくる。
その中には――赤ん坊の断末魔も、まぎれこんでいるのだろうか――?
川を何かが流れてくる。
それがなんなのか、を、知りたくはない。いや――とっくに知ってはいるのだが、それでもやはり、知りたくない。
ねっとりと生臭い吐息を吹きかけられたように感じて、思わず身震いする。
何も知らなければ、それは――ただの川風にすぎないのに。
川のほとりに、立っていた。
ひとつの影を、見つめていた。
いくつかの影を見た。小さな包みを川へと流す影を見た。私は見ていた。ただ、見ていた。
私は何もしなかった。
イギシュタール貴族――イギシュタールの真の民は、地の民達が内輪で処理していることに、手出しをしてはならないのだ。
もし誰かが、川のほとりに包みを置いたら。
私はどうしていただろう。
――きっと、何もしなかっただろう。
ユヴュならどうしていただろう。
――きっと、何かをしただろう。
ひとつの影を、見つめていた。
私と同じ――川のほとりにたたずんで、流れる水をただ眺めている影を。
影はきっと、私に気付いていないのだろう。いや――気付いていても、特に不審には思わなかったのかもしれない。
包みを手放したものが、そのままたたずんでいる。――そういうふうに、見えたのかもしれない。
影の腕の中には――小さな、包みが。
それをいったいどうするのだろう――と、私は思った。いや――どうするも何もない。それをどうするのか、私はとっくに知っているのだ。
それでもやはり、私は思った。
それをいったいどうするのだろう――と。
影は。
包みを胸に抱いたまま――きびすを返し。
川に背を向け、歩きはじめた。
「――え?」
思わず、声が出た。
ギクリ――と、影が立ちすくむ。
「あ――待って! だ、大丈夫! 私――私は、地の民じゃない! だからあなたが何をしようと、私は一切手出しをしない!」
「――」
影の震えが、伝わってくるような気がした。
「何も――何も、しないよ――大丈夫――大丈夫だから――」
精一杯、やさしい声をかけながら。
私は影に近づいた。
少女か――と、一瞬思ったが、そうではなく、それは、ひどく小柄で、ひどくやつれた――老女? いや、老女、というわけでもないようだが――。
彼女のことを形容する言葉を、私は持っていなかった。
私達は、持っていなかった。
老人すらも存在がまれな、ひどく幼い民達は。
「貴族――さま?」
「ああ、うん――まあ、一応、そういうことになるのかな、うん――」
「貴族さま――」
彼女の目が、一瞬燃え上がり。
「いえ――無理ですね、きっと――」
再び影に閉ざされる。
「無理? 無理って――」
「――」
「もしかして――その子のこと?」
「――」
ビクリ――と、すくみあがる小さな体。
「その子は――その――」
「――生きてるんです」
「え?」
「この子は、まだ――生きているんです」
その両目は、涙に濡れながら、強く激しく、燃えていた。
「何人も、何人も――死んで生まれて、生まれて死んで――死んで生まれて、産声をあげられずに死んで、初めての夜を越せなくて――でも、この子は生きているの! まだ生きているの! 生きているの! 生きてるの! あたしのおっぱいを飲めるの! 泣き声をあげられるの! まあるいおめめで――あたしを、見るの――」
「――」
胸に、刺さった。何かが、刺さった。深々と、刺さった。
ああ――。
平気なわけ、ないじゃないか。
自分のお腹を痛めた子を、自分のその手で捨てに来て。
平気なわけ――ないじゃ、ないか――。
「その子は――」
「――貴族さま」
「――なにかな?」
「貴族さま達は――『ツキノヒト』を生かす方法を――ご存知、ですよね――?」
「――」
あっさりと頷くことは出来なかった。確かに私達には、地の民達よりも高度な医療技術がある。しかしそれにだって当然限界があり、しかも地の民達へ対する過度の干渉は好ましいことではなく――。
「――見て下さい」
女性は、そっと――包みをほどいた。
「この子の、心臓――胸の中に、戻せますか――?」
「――!?」
無理だ――ということは一目でわかった。
その赤ん坊の心臓は、むき出しだった。
いや――薄皮一枚は、かろうじてかぶさってはいる。だが――本来なら、肉と骨とで守られていてしかるべき心臓が、胸の薄皮のすぐ下で、悲しいほど元気よく脈打っているのだ。
「それは――私達には、無理だ。――できないよ。そんな技術は――私達にだってない――」
昔はきっと、あったのだろうに。
いや――昔はきっと、地の民達自身だって、その程度の技術は、きっと持っていたのだろうに――。
今はもう――われらの手には、何もない。
「――そうですか」
息を飲むほどあっさりと、その女性は頷いた。
そして。
きびすを返し――。
「――待って!」
「――はい?」
「その――どこへ、行くの?」
聞いてどうする。
どうにも、ならない。
私は彼女に――彼女達に――何一つしてやることが出来ない。
なのに。
それなのに。
聞いて――しまった。
「――神の御許に」
「――え?」
それは、聞きなれぬ単語だった。
「か――かみ――? かみって――いったい――?」
「――アタラクシアには、まことの神がおわすと聞きます」
「――」
私は思わず後ずさった。
彼女は狂っているのだろうか。
本気で――そう、思った。
「そこでなら、『ツキのヒルコ』も――全き姿に、立ち戻れる――と」
「そんな馬鹿な」
言うべきでは、なかったのかもしれない。
言ってもどうにもならないだろうに。
なのに私は、言ってしまった。
「アタラクシアに、そんな技術力は――」
「人の技ではありません」
彼女のまなざしは――どこまでも、まっすぐだった。
「神の御力に、限りなどありません」
「――そんなでたらめをどこで――」
「聞く耳があれば、聞けますよ」
彼女は、笑った。
――ああ。
それは。
その、笑いは。
私のことを――憐れんで、いた。
「――あたしはこの子を生かします」
「それは――待ってくれ、それは――」
「――アタラクシア」
「あ――」
――そうして彼女は立ち去った。
私は何も、しなかった。
「あ――ア――」
赤子が流れる、川のほとりで。
私は一人、立ちつくす。
「ア――アタ――アタラクシア――?」
彼女はいったい、いったいどこで。
あんな希望を、見出したのか。
あんな――狂おしい、希望を。
(――も――けば――った――)
「――ちがう」
体中の毛が、逆立つ。
(わた――つい――よか――)
「――ちがう」
そんな声は、聞こえない。
(私もいっ――ていけば――かった――)
「――ちがう」
どうして、どうして、どうして!?
(私も一緒に――ついてい――)
「ば――馬鹿馬鹿しい」
なんて馬鹿げたことだろう。
なんてひどい幻聴だろう。
ちがう、ちがう、断じて、ちがう。
(私も一緒に――)
(ワタシモイッショニツイテイケバヨカッタ――)
「ち――ちがうちがうちがうちがう!! そんな――そ、そんな、ば、馬鹿な、こと――」
(――アタラクシア)
(アタラクシアには、まことの神がおわすと聞きます)
「は――はは――まさか――そんな、馬鹿な――」
(――あたしはこの子を生かします)
「な――なにを――なにを、ばかな――」
ああ――帰ろう。
もう――帰ろう。
私の、家に。
私の――家、に――。
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