アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
鏡は横にひび割れて
-
(ユーリル)
――鏡は横にひび割れて。
ああ、わが命運つきたりと。
シャロット姫は叫べり――。
どこで――読んだのだろう。
どこで――読んだのだったか、この詩を。この文句を。
『鏡は横にひび割れて。
ああ、わが命運つきたりと。
シャロット姫は叫べり』
――わが命運――。
『鏡は横にひび割れて』
――わが半身は、去りゆきぬ。
『ああ、わが命運つきたりと』
ああ、わが心の奥、砕け散る。
『シャロット姫は叫べり』
私は――叫ぶことさえできぬ。
鏡は横に――鏡は横に――。
どうして――思い出せないんだろう。
私の――私達の記憶力は、とても、とても――いい、はずなのに――。
私はどこで読んだのか。
どうしてそれを、知ったのか。
鏡は横にひび割れて。
鏡にうつる、影は一つで。
ああ、わが命運つきたりと。
ああ、われらが道、分かたれぬ。
シャロット姫は叫べり。
私は叫ぶことさえできぬ。
ああ――ああ――ユヴュ――ユヴュ――。
それは――誰?
地の民、だね、彼は。一目でわかるよ。だって――だって――。
私達は、そんな姿にはならない。
私達には、子供と青年と老人しかいない。『成長期』と『安定期』と『衰退期』しかない。
それは――誰?
私は知らない。
私は、知らない。
私は何も――何も、知らない。
ユヴュ――ユヴュ――。
ねえ、君は――どこへ、行くの? いや――。
どこへ行ってしまったの?
私――私は――。
私は――一人――。
鏡は横にひび割れて。
鏡にうつる、影は一つで。
なんで――なんで――なんで――?
私の前には、ひび割れた鏡。
鏡にうつる、影は一つ。
ユヴュ――。
私は、知らない。
君の前にはどんな鏡があるのか、私はそれを、まるで知らない。
でも――でもね。
一つだけ、わかるよ。わかってるよ。
君が、もし、君の目の前の鏡をのぞきこんだら。
ねえ、ユヴュ、そこには。
二つの影が、うつっているよ。
いつ――ねえ、いつ――いつのまに――。
私の隣には、いつも君がいたのに。
君はいつも、私の前を走っていたのに。
ユヴュ、ねえ、どうして――。
ドウシテワタシハヒトリナノ?
ドウシテワタシハ、ヒトリニナッタノ?
ユヴュ、ねえ――それは――誰?
ああ、でも。
誰であっても、同じこと。
誰であっても、何も変わらない。
鏡は横にひび割れて。
鏡の中には、ただ私だけ。
ああ、わが命運つきたり――。
――歌が聞こえる。
切れ切れに。途切れ途切れに。
歌が聞こえる。
私はぼんやりと、知らない歌を聞いている。
ただぼんやりと聞くだけで、歌はだんだん、形になる。
「――え――たまえ――」
「――ずま――しずま――」
「鎮まりたまえ――」
鎮まりたまえ――か。
なぜそんなことを願うのだろう。
だって、今、いや、もうずいぶんと長いこと。
何も起きてはいないのに。
「――まよ――うか――」
「みたま――」
「御霊よどうか 鎮まりたまえ――」
――御霊?
ええと――ああ、そうだ。
地の民達が信じる、架空の存在のことか。
とすると、これは――ええと、なんだっけ――。
――ああ、そうだ。
もしかして、これは。
『祈り』――なのか?
私達には、神がいない。
イギシュタール貴族は、神を持たない。
ああ、そう、もちろん『カミオロシ』はする。でも。
『カミオロシ』は、私達が生み出すもの。
『カミ』はこの手で、創り出すもの。
私達は。
架空の存在に、祈ったりなどしない。すがったりなどしない。何かを託したりなどしない。
ああ――でも。
でも――私は。
私は――。
気がついた。
今、気がついた。
私――私は。
私は何かにすがりたい。
ユヴュ――ユヴュ――ねえ、ユヴュ――。
君がここにいれば、私の隣にいれば、いてくれれば、私はそんなこと、ちっとも思いやしないのに――。
――なんだか変なものがいろいろと飾ってある。
私は一人で、祭りの街を歩いている。
奇妙な張りぼての――いやまて、あれはもしかしたら――。
――軌道エレベータ? ――ソーラーセイル? ――パラボラアンテナ? そう――それにあれは――。
ああ――なんとなくわかる――わかってきた、ような気がする――。
この街に、祭りの街に、飾ってあるものはみな。
はるかな過去の、かけらたち。
『大厄災』の前の世界の、おぼろな影。かすかなこだま。
ああ、そう、ここは今――。
過去のかけらの、万華鏡の中。
覚えて――いるのか? あれが、あれらが、もとはいったい何だったのか、それを知ってて飾ってるのか?
わからない。
わからない。
私には、わからない。
道の両脇には、小さな店がずらずらと並んでいる。
いろんなものを、売っている。
そういえば、何か飲みたいような、食べたいような――。
「あ!」
――え?
10歳ぐらい、だろうか、地の民の男の子が、私を見て目を丸くした。
「おじさん、こんちは!」
「え? ええと――ああ、うん、こんにちは」
私はめんくらった。ずいぶん人なつっこい子だな。
「おじさんも、お祭りに来たの?」
「ええと――まあ、そういうことになるのかな?
「あれ? 今日は先生といっしょじゃねーの?」
「え? せ、先生?」
「いっしょじゃねーんだ。そっか」
男の子は、何やら勝手に納得している。
「んじゃな、おじさん。またな」
「えーと、ああ、うん、さよなら」
……えーと。
なんだったんだ、あの子は?
あれはまるで――まるで、私と誰かを――。
「!? き、君、君、ちょっと待って――!」
私の呼びかけは、むなしく空にかき消える。
私が誰かと勘違いされたとするなら、その『誰か』とは、いうまでもなく。
ユヴュである可能性が最も高いに決まっているのだ。
ああ――だが。
私は少し、遅すぎた。
男の子はあっという間に、祭りの人波の中に飲み込まれてしまった。
「待って――」
ああ、だめだ、もう遅い。
「――え?」
そして私は、再び気づく。
(今日は先生といっしょじゃねーの?)
今日――今日は――『今日は』とわざわざ言う、ということは――。
「――ユヴュ――」
ユヴュはいつも、誰かといっしょにいる、ということで――。
――。
――ユヴュ――ねえ、ユヴュ――。
ユヴュはいつも――誰といっしょにいるの?
ねえ、ユヴュ――。
私じゃない、誰といっしょに――。
鎮まりたまえ 鎮まりたまえ
御霊よどうか 鎮まりたまえ
御霊鎮まりたまえ どうか鎮まりたまえ
われらもう二度と、御身らの眠りさまたげませぬほどに――。
逆だ――と、思った。
ああ、逆だ――と。
私達の――イギシュタール貴族の祭り『カミオロシ』は、昂ぶることを目的としている。
彼らの――地の民達の祭りはどうやら、鎮めることを目的としているようだ。
鎮まりたまえ――か。
鎮まらないと、いったい何が起こるというのだろう。
ふと――不安に、なる。
最も近い片割れ、私の半身、ユヴュのことさえ理解できない私が『カミオロシ』に参加したとして、はたして役にたてるのだろうか?
――あ。
それをいうなら、ユヴュだって――。
一般的なイギシュタール貴族の基準からは、だいぶはずれているんじゃ――。
「――鎮まりたまえ」
――あれ?
私は今――いったい何をつぶやいた?
「鎮まりたまえ 鎮まりたまえ――」
そして私は、絶句する。
「鎮まりたまえ」とつぶやきながら、それではいったい何に、もしくは誰に、鎮まって欲しいのか、さっぱりわかっていないということに、遅まきながら、気がついて。
(アンツ)
ああ――酔っているのだ。
あなたに出会った時からずっと、私はあなたに酔っている。
こんなにもにぎやかな祭りの街の中で、私の目にうつるのは、ただあなただけ。意味を成すのは、ただあなたの言葉だけ。
酔っているのだ、私は。
ユヴュは、私が本当に酒に酔ってしまったのだと思いこんだらしく、さっきからずいぶんと気を使ってくれる。
本当に優しいなあ、と、いつものように思う。
「――気分は、大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございます」
「もし酔いがひどいのなら、いったんあなたの家に――」
「あ、大丈夫です。平気ですから、本当に」
「――私達も、勉強はするんですが、一応」
「え?」
「私達とあなたがたとの違いを、私達も一応、勉強してはいるんですが」
ユヴュは少し困ったような顔で、少しぶっきらぼうに言う。
「それでもやはり完全には、理解しきれていないんです。――あなたがたが、私達と比べると極端にお酒に酔いやすい、ということも、知識としては知ってはいてもついつい忘れてしまいます」
「いいんですよ、そんなこと。私達には――知識さえ、ありませんから――」
チリチリと、胸が痛む。
私は知らない。何も知らない。
私は知りたい、あなたのことを。
「――」
不意に。
手がのびて。
ギュッと、強く。
私の手を、握って。
「――あなたときたら、まったく」
「え、あ――」
「ちゃんと前を見てまっすぐ歩いて下さい。危なっかしいったらありゃしない」
「あ――は、はい――」
私は、強く。
あなたの手を、握り返した。
(ユヴュ)
アンツにとってはどうだか知らないが。
この状況は、私にとってはまったく、馬鹿馬鹿しくも面白いもので。
私達の周りの空白が、私がアンツの手を握ってやるとさらに広がる。
ここまであからさまにわかりやすいと、私なんかは笑えてきてしまうというものだ、まったく。
「――馬鹿馬鹿しい」
「え、あ――え、何が――」
「周りの連中が、ですよ、もちろん」
アンツは少し、困ったような顔をして。
ほんの少しだけ、笑った。
私は別に、何も困りはしなかったが。
それでもなぜか、アンツと似た顔で笑ったんじゃないかという気がする。
「――」
ん――。
あれ――?
今、何か――。
今、誰か――。
私を見つめていたような――?
(ユーリル)
――誰?
ねえ、ユヴュ――。
それは――誰?
そして。
これは――何?
私の内からわきあがる、ふくれあがる、私を押し流す、これ――この――。
この――感情は――?
これは、何――いったい、なんなんだろう――?
ただ一つだけ、わかること。
わかりたくもないのにわかること。
私は一人――ただ、一人――。
なんで――なんで――なんで――?
私は一人で――たった、一人で――。
鏡は横にひび割れて。
ああ、わが命運つきたりと。
シャロット姫は叫べり。
鏡は横にひび割れて。
鏡の中には、ただ私だけ。
ああ、わが命運つきたり――。
(アンツ)
酔った。
酔った。
ひどく――酔った。
酒に、ではない。
祭りに――いや。
あなたに。
あなたはきっと、私が酒に酔ってしまったのだと思っている。
だから私も、そのふりをする。あなたに気づかわれ、いたわられ、優しい言葉をかけてもらえるという天上の美酒を、少しでも多くかすめ取ろうとあさましい努力を続ける。
酔っている。
酔っている。
あなたに酔う。ただひたすらに。
「なんで無理をするんです」
ちがう。
ちがうよ、ユヴュ。
私は、無理をしているんじゃない。
私は、今。
本当に、生きているんだ。
「大丈夫――です。休めば、なおりますから――」
「あなたの家に行きましょう」
きっぱりとユヴュは言い、私の手をとり歩きだす。
「あなたはここでは休めないでしょう」
「あ――」
にじんだ涙で、目がかすむ。
あなたはそんなにも、私のことをわかってくれているのか。
そして。
そして――今。
私は――ベッドの上、で。
「こういう場合は、ええと、衣服を緩めて――」
小さな声でつぶやきながら、生真面目な顔で私を見おろし、私の襟元を緩めるユヴュが、かわいくて、かわいくて、うっとりと、私は微笑む。
「――」
ああ、ユヴュ。
なんという顔をするんだ、あなたは。
ガラス細工の妖精のような。
月から地上に堕とされたという姫君のような。
陸に上がった人魚のような。
ああ、ユヴュ。
あなたは。
あなた達は。
ここを愛してくれるけど、地上を愛してくれるけど。
わからない。
わからない。
あなた達には、わからない。
私達は。私達、地上の民達は。
翼を持たず。
星の声を聞けず。
瞳は曇り。
理性はかよわく。
体は脆く。
心はよどんで。
はかなく死にゆく。
私達には、何もない。
圧倒的な力も。
情では曇らぬ理性も。
透明でけがれを知らぬ心も。
神々のごとき長寿も。
私達は持っていない。何一つ、持ってはいない。
だから。
だからこそ。
あなたを手にするためならば、私はすべてを捨てられる。
――あはは。
馬鹿だな、私は。
私はもともと、何も持ってはいないのに。
「どうして――笑うんです?」
問いかける声は、細く、どこかあどけなく。
私は何もこたえられない。
「――どうして――」
一瞬動きをとめた手が、しなやかに、また動き出す。
服を、脱がされていく。
どうして私なんかを抱いてくれるのかな――と、いつものように思う。
「――あの」
ふと手がとまり、ユヴュが、困ったような、当惑したような顔をする。
「酔いすぎると――気分、悪くなるんですよね? 知ってる――知ってるんです、私。なのに、なんで私――具合悪い相手に、なんで――」
「――」
胸がしめつけられる。
わからない。
わからない。
あなたには、わからない。
あなた達には、わからない。
その澄みきった心には、歪んだ望みはうつらない。
今この時に死ねるなら。
あなたが殺してくれるなら。
私はきっと『幸せ』を感じてしまうだろう。
「――抱いて――」
私は、ささやく。
それはきっと、ひどくおぞましい光景だろう。老い衰えた男の身で、抱いてくれとささやく『ツキのヒルコ』。
誰もがきっと言うだろう。
バケモノ――と。
でも、あなたは。
そうは、言わなかった。
何も言わず、ただ。
ただ。
私に、口づけてくれた。
(ユヴュ)
わからない。
わからない。
私はなぜ、こんなことをしているのか。
なんでこんなことをはじめたんだっけ。
私――私は――。
私は――そう。
こいつを泣かせてやりたかったんだ。
――なんで?
なんで私は、そんなことを思ったりしたんだ?
はじまりは、あの本、あの、アンツが書いた――。
『イギシュタール――ツキのしろしめす国』
あれを読んで、なんで私は、あんなに心を揺さぶられ――。
――え?
――あ。
ああ。
ああ――そうか。
だから――だ。
この本を書いたやつは私の心を揺さぶったのに、そいつは私の存在すら知らない。
だから、私は――。
あ――ああ――。
頭、が――息が――胸が――。
なぜだか私は、アンツの胸に顔を埋める。
ふわっ――と、頭が軽くなったような気がして、ふと気がつくと、アンツが私の頭をなでている。
おかしい、な――頭に手をおかれているんなら、頭は重くなるはずなのに――。
「なんで――なんで――なんで――」
意味もなく、私はつぶやき続けている。
問いかけ続けている。
こたえはかえらない。ただ。
私のものではない手が、静かに頭をなで続ける。
トットットットットッ――と響いているのが胸の鼓動だと気づき、ふっと驚く。
身を起こし、私の下のものを見る。
なんなんだろう――これはいったい。
私の下にいる小さなものが、じっと私を見つめ返す。
――苦しい。
苦しい。
どうして?
どうして私は、こんなにも苦しいんだ?
目を閉じる。なぜか楽になる。
私――私は――。
私はいったい何をしているんだろう?
なんで私は――こいつを抱くんだ?
「――」
どれくらい、目を閉じていたのか。
ふと、目を開けると。
アンツが私を見つめていて。
それはいつものことだけど、なぜか――なぜか。
笑みの色が、変わっているのが見えて。
アンツは笑っている。笑っているのに――。
なんで――悲しそうに見えるんだ?
なんで――なんで――なんで――?
どうして私は、こいつに口づける?
どうして私の口づけで、悲しい色が消えていく?
わからない、わからない、わからない――。
何もわからないまま、ただ肌と肌をすりあわせていると、なぜだかそれが、正しいことのような気がしてくる。
こんな私は、私じゃない。
なのに、なぜ。
やめることが出来ないのか。
私は何かを感じている。
もしかしたらそれは――恐怖――だろうか?
私は何をおそれているのか。
私――私は――。
私は私が――ワタシデナクナルノガコワイ――。
(ユーリル)
「鎮まりたまえ 鎮まりたまえ――」
私はつぶやく、意味もなく。
「鎮まりたまえ 鎮まりたまえ――」
私はつぶやく。相手も知らず。
「鎮まりたまえ 鎮まりたまえ――」
私はつぶやき、歩き続ける。
「鎮まりたまえ――」
ツン――と何かがこみあげる。
グッと飲みくだすと、ズキンとのどが痛む。
痛い――痛いよ――。
でも、私は。
その痛みを、誰にも伝えられない。
「痛い――痛いよ――」
小さな私のつぶやきは、誰にも聞かれず、街へととける。
(アンツ)
酔っている。
酔っている。
そうだ、私は酔っている。
狂う。
狂って。
狂っている。
そうさ、私は狂っている。
酔って狂った、生まれ損ない。出来そこないの『ツキのヒルコ』。
まごうかたなき、バケモノ。
ああ、そうだ。私はそんなしろものだ。
なのに私は夢を見る。
あなたに抱かれて、夢を見る。
もしかしたら、あなたは、この世でただ、あなただけが。
私を必要としてくれているのではないか――と。
そうでなくてもいい。
ただの気まぐれでかまわない。
あなたが私をどう思っていても。
あなたは私の、最初で最後の恋人。
わが最愛の人。
――死にたいと思ったことはない。
『ツキのヒルコ』でなくなりたいと思ったことなら、数えきれないほどある。ここではないどこかへ行きたいと思ったこともある。結局どこへも行きはしなかったわけだが。
それでも、死にたいと思ったことはない。いや、もしかしたら、チラリと思ったことなら幾度もあるのかもしれないが、心から望んだことはない。
そんなことをしていたら、とっくに私は死んでいた。
だが、今。
今、は――。
――本当は。
死にたいんじゃなくて。
私は、ただ。
あなたを失いたくないだけ。
でも。
――でも。
それは、無理だろうとわかっているから。いかな私でも、そんなことを夢見たりすることは――。
――いや。
本当は。
夢見ているんだ、私は。彼がずっと、あなたがずっと、ユヴュがずっと、私のそばに――ああ、それは無理だから、いくらなんでも無理だから、だから、だから、時々でいいから、たまにでいいから、一年に一度、五年に一度、十年に一度でいいから、私に会いに来てくれれば――。
――。
本当は。
わかっている。
それも――無理、なのでは――ないだろう、か――。
私――私は、きっと――。
いつか、あなたを失う――。
――だから。ああ、そう、だから、だ――。
その激痛を知る前に。あなたを失い引き裂かれ、ヒルコですらない肉片へと成り果てる前に。
幸せなまま死んでしまいたい、なんぞと願う。願ってしまう。
ああ――そうだ。私は何も持ってはいなかった。失って苦しむようなものを、何一つ持ってはいなかった。だから平気で生きていることが出来た。
今、私は。
失うのが、怖い。
失ってしまった時の苦痛が、たまらなくおそろしい。
そうだ、本当は、死にたいのではなく、ただひたすらに、恐怖から逃れたいだけだ。ただそれだけの話なんだ。
ああ、私は――なんてちっぽけなんだろう。
「――酔っているんですか」
一瞬で、貫かれる。
あなたの、瞳に。
あなたはとても、とても真摯で。
私はとても、不誠実。
本当のことは口に出せない。
ほんとの私を、あなたは知らない。
私はヒルコ。醜いバケモノ。
それでもあなたの瞳には。あなたの瞳にうつるのは。
馬鹿でとろくて調子っぱずれで、笑ってばかりの変なやつ。
あなたの瞳にうつるのは、そう――とんでもない、変人。
変人。
変であっても、それは、人。
あなたはいつでも、いつだって、私のことを、一人の人間として扱ってくれる。
「――酔っているようです」
私はうそをついてはいない。
しかし真実を語るわけでもない。
言わないこと。
言えないこと。
あなた達は偽りを知らない。
自分をだますことも知らない。
だから私は、あなたにとって。
いつまでも謎であり続ける。
「――なんで抵抗しないんですか?」
「抱いて欲しいから――ですよ」
「――ばーか」
そうだよ、ユヴュ。
私は、馬鹿だ。
いいよ、言って。いくらでも言って。私をばかだと何度でも。
「そうですね。私は――ばか、です」
「――ばーか」
唇は甘く、私を焼き焦がす。
あなたになら引き裂かれてもいいのに、息の根をとめられてもいいのに、あなたは優しく私で遊ぶ。私はあられもない声をあげ、つつしみもなく身をよじる。
「――気持ち、いいんですか、あなたは?」
「――はい――」
「――なんで――」
なんでって、それは。
あなたのことが、好きだから。
それは本当。だけどうそ。
心の奥の、私の望み。
あなたを私のものにしたい。
ああ、ユヴュ――食べちゃいたいくらいかわいいよ、あなたは。
でも。
でもね。
あなたを食べたら、なくなってしまうから。それはあんまりつらすぎるから。
だから、私は。
あなたに、食べられたい。
引き裂かれたい。
いっそ殺してもらいたい。
「これ、でも――気持ち、いい――?」
どうしてそれが苦痛となろう。あなたをこの身の内に迎え入れるこの行為が、どうして苦痛となりえよう。
「――いい――」
「――なんでだよ――ッ!」
たぶん体は、痛みを感じているのだろうけど。
それをどうして苦にしよう。
ああ、ユヴュ、一つだけ、たった一つだけ、あなたにわかってもらいたい。
あなたはスペアじゃなくて。誰かのかわりじゃなくて。とりかえのきく存在じゃなくて。
たった一人の、かけがえのない存在。私の宝。この世の至宝。
あなたは誰にもかえられない。誰もあなたのかわりは出来ない。
かけがえのない、たった一人のあなた。
わが最愛の人。
愛している――と、告げたら、どうなる?
どうにもならないだろうと思う。実際、好きだと告げてもそれで何かが変わったわけでもなかった。
それでも私は――告げられない。
本当のことは口に出せない。
好きだと告げることなら出来る。でも――それでも――。
「――ぁッ――ん――」
もっとして欲しい。もっと、もっと、もっと――。
私が私でなくなるまで。
(ユヴュ)
泣かせてやりたい、とは思う。
でも。
痛めつけたいわけじゃない――と、思う。
そうだ、私はこいつを、負かしてやりたいんだ。
でもなぜか、どうしても。何をやってもどうがんばっても。
これで勝ったという気がしない。
肉体的に叩きのめすことなら出来る。いくらだって出来る。簡単に出来る。でも、私がしたいのはそんなことじゃない。
私はこいつを、泣かせてやりたい。
――そうだ。
一度だけ、あった。
私がこいつを、泣かせたこと。
でも。
あの時、こいつは、涙を流しながら笑っていた。
――あれは、ちがう、な。私がしたかったのはあんなことじゃない。
――では、今は?
これも私のしたかったことじゃない――と、思う。
そっとアンツをのぞきこむ。
私が抱いたあと、こいつはいつも、しばらくボォッとしている。そのまま眠ってしまったり、している途中で気を失ってしまったりすることもある。
私はそんなふうにはならない。こいつとしても、ユーリルとしても、挿入してもされても、別にボォッとなったりしない。
われを忘れてしまうことならあるが。アンツとしている時に――。
――え?
ユーリルとしている時、私はわれを忘れたことがあったか?
――え――ない――ないぞ――なんでだ――?
どうして私はユーリルとしている時には、われを忘れずにいられるんだ――?
「――」
焦点のあわなかった目が、私を見つけて、フッと笑う。
私は。
笑えない。
どうすればいいのかわからない。
ただ、じっと見つめ返す。
「――ごめんなさいね」
アンツが奇妙なことを言う。
「は? 何がです?」
「私のせいで、お祭り少ししか楽しめませんでしたね。あの――お祭り、まだやってますよ。行ってきて下さってかまいませんよ」
「――いいです、別に。一応、見るだけのものは見ましたし。――私のほうこそ、すみませんでした」
「え? 何が、ですか?」
「――あんまり休めなかったでしょう?」
「――」
なんでだろう。なんでこいつは、こんなにうれしそうに笑うんだ――?
「私がそうして欲しかったんです。私が頼んだことですから」
「――なんであんなことをしたがるんです」
「あなたが好きだから――です」
「――ばかばかしい」
「――」
アンツは黙って、にっこり笑う。
私は。
笑えない。
何を言えばいいのかわからない。
「――ちがいますね」
なぜだか私は、そんなことを言っている。
「え?」
「あなた達のお祭りは、私達のお祭り――『カミオロシ』とは、ちがいますね」
「そうなんですか? ああ――それはそうですよね、当然」
「どうして当然なんです?」
「え?」
アンツは一瞬、きょとんとし。
「それは――私達とあなたがたとは、ちがうからです。どこも、かしこも」
と、ひどくあたりまえな答えを返す。
「――そうですね。――そうでした」
私だって、そんなことは知っているのに。とてもよく、知っているのに。
どうしてこんなに、もどかしい。
「――あなたは私とはちがう」
私はじっと、アンツの目を見つめる。
「――はい。私とあなたは、全然ちがう」
「ええ、そうですね。わかっています。――わかっているんです、それは」
そんなことは知っている。とっくの昔にわかってる。
「――ちがう」
「ええ」
「あなたは――ちがう」
――え?
私は、今――いったいなんと言った?
「え――」
アンツの瞳が、グラグラ揺れる。
私――私は。
アンツに何も言わせたくなくて。
これ以上何も言いたくなくて。言ってしまいたくなくて。
唇に、唇を重ねて。
やせた体を、また抱きしめた。
(アンツ)
愛しても、愛しても、あなたには手が届かない。
あなたには翼があり、私には翼がない。
愛しても、愛しても、あなたを私のものには出来ない。
きっと――それでいいのだろう。翼持つ天人を地上に縛りつけるという大罪を犯さずにすむのだから、それはむしろ、ある種の恩寵でさえあるのかもしれない。
でも、ああ、ユヴュ。
空を飛ぶのに疲れたら。地上が恋しくなったなら。
羽を休めて、いいんだよ。
ああ、今、あなたは私の腕の中。
私はあなたの腕の中。
愛しても、愛しても、私とあなたは一つになれぬ。
あなたはちがう。私とちがう。
でも――ねえ、ユヴュ。
私はそれで、いいと思うんだ。
私があなたとちがうからこそ、あなたは私に会いに来てくれた。
あなたが私とちがうからこそ、私はあなたに恋い焦がれ、この身をさいなむ愛を知った。
ああ、そうだ、知っている。
私の愛は、歪んでいる。
それでもあなたに恋をする。
それでもあなたを、愛してやまぬ。
だから、私は。
「ユヴュ――ユヴュ――ああ、ユヴュ――」
愛を告げるかわりに、あなたの名を呼び続ける。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
1 / 1