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september.6.2017 本音が存在しない朝
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「おはよう」
「おはよう」
目が覚めて台所に行くと母ちゃんがすでに立っていた。そうだったな、こういう朝を毎日迎えていたのに、随分昔のことのように感じる。
まだコーヒーの用意はされていなかった。3人分のコーヒーをセットしてスイッチを入れる。ほどなくしてポコボコと音がし始めた。
「魚はチルドに入ってるよ。鮭とピリ辛サンマと糠にしんがあったはず」
「サンマを焼こうかしら」
「向こうにはないの?」
「冷凍は手に入るわよ。日本や韓国のお店に行くとね」
「そっか、生の買っておけばよかったな。でもまだ型が小さくて」
二人で台所に立っているとオヤジがぬぼーと姿を見せた。
「おはよう」
「……おはよう」
なんだろうね、この間は。『いつもどおり、いつもどおり』と頭の中で繰り返す。ここにハルはいない。俺一人だからヘンテコになりようがないぞと自分に言い聞かせる。
「コーヒー飲む?」
「ああ」
食器棚を開けると奥にしまってあったマグが手前に置いてあった。食器のことを失念していた!揃いの食器たちが棚に並んでいる。さて、これを見てどう思ったか?それとも何も感じなかったのか。
俺は自然に見えるように意識しながら二つのマグを手に取った。コーヒーメイカーの横に置いた後、自分のマグを選ぶ。今日はどれにする?ハルが高い頻度でチョイスする琺瑯のマグにすることにした。ほらさ、なんとなく俺一人じゃないもんね~的なね。
視線を上げると親父がじっと俺を見ていた。俺の視線とぶつかるとバツが悪そうに逸らせる。どうやら、どうやらです。やっぱり何か感じたってことだね。
コーヒーを3つのマグに注いで渡す。「ありがとう」という口調に不自然さはなかったけれど、さっきの親父の視線が気になる。
食事はのんびりとしたペースで進んだ。飛行機は夕方だし時間はたっぷりある。俺は仕込みを理由にいつもより早く家を出るつもりだ。長居は無用だよね。ボロがでないうちにさっさと退散しよう。
「飯塚君はとっくに売れているかと思ったのにな」
「飯塚?」
「ああ、相変わらず男前だ」
まあね、顔も心も男前ですよ、飯塚は。
「結婚にはこだわっていないみたいだし」
「ということは相手がいるのか?」
話の方向性がよろしく……ない。
「いるよ。相思相愛で見ていて羨ましくなるくらい」
俺の背筋に緊張が走る。次にでてくるだろう言葉「実巳はそういう相手はいないのか?」に用意した答えは「次に帰国するときまで続いていたら紹介するよ」だった。今回はハルの言う通り穏便にやり過ごすことにしたから。
味噌汁を一口飲んで視線をあげると、二人とも秋刀魚を見ながら箸を使っている。へ?
「これ美味しいわね」
「ピリ辛具合がちょうどいい」
そんなやりとりを聞きながら俺の頭の中はグワングワンとデカイ鐘の音が響いているみたいな状態になった。何かを感じた、でも俺に聞く気はないということ。いや違う「聞けない」んだ。
とたんに白飯の甘さも、ピリ辛も感じなくなった。機械的に箸を使って口に運ぶ。
「醤油とってくれるか」
「今日予約は入っているのか?」
「やっぱりJRで空港に行った方が安心かしら?」
「名古屋は初めてだから楽しみだな」
親父たちの言葉に頷き、相槌をうつ。質問に答え笑顔を浮かべて見せる。でもそれだけだった。名前があがったのは飯塚のみ。ほらもっと気になるもんじゃないの?あの人はどうなの?この人はどうなの?ってさ。
店に関しては当たり障りのない話題にしかならない。日に何組くらいが平均?予約とフリーの割合はどのくらいだ?そんなのはおじさんが送っているデータを見れば一目瞭然。毎月チェックしているはずだ。それに俺だって報告書を送っているから、そんなありきたりな質問をする意味がない。
店のことを細かく聞いたら、聞きたくないことが露呈するかのように二人とも表面をさらっとなぞる程度以上のことを言わなかった。
だから俺もそれに付き合った。ムズムズしたけれど、一人先走るなとハルに釘をさされている。久しぶりの朝食を家族で食べられた、やっぱりいいね。そんな芝居をしながら漂っている雰囲気は最悪。
俺は実感した。打ち明けることがどれだけ大変なことで重いことなのかということを。言葉にすれば、それは事実に変わってしまう。推測や憶測の段階なら否定は可能だ。でも「事実」が言葉になった時点で取り消すことも、無かったことにもできない。
ハルは波風と言ったが、波風どころか嵐が吹き荒れるだろう。今まであった3人家族の形が変わる、もしかしたら崩壊してしまうほどの嵐が。
何気ない会話が3人の間で交わされて食事は終わった。
「ご馳走さまでした」
「今日仕込みが結構あるんでもう出るけど、気を付けて行ってきてよ。初めて行く場所なんだし」
「神宮参りにいって災難を拾うことはないだろう」
「んで?一回こっちに戻るの?」
「関空から飛ぶのが一番手っ取り早いが、まだ決めていない」
「そっか。なんかあったら連絡してよ?あと予定が決まったら教えて」
「ああ、わかった」
「それじゃ、いってきます」
二人は揃って「行ってらっしゃい」と言った――笑顔で。
自分にとって大事な家族なのに、蔑ろにしている最悪の気分だった。理の言った「嘘をついているような気がして」がどういうことなのか今わかった。悪いことをしているわけではない、俺は今とても充実しているし幸せだと感じることが多くなった。それなのに言えない。言うことが両親の幸せにつながらないからだ。その落差……真逆のスタンス。
ハルの気持ちもようやくわかった。何の用意もなく家族に知られてしまった自分の秘密。隠す努力をする暇も取り繕うこともできず事実だけが家族の中に落下した。落下?墜落ぐらいの衝撃だったろう。ボッコリ空いた穴を北川家は長い時間をかけて少しずつ埋めて今がある。
俺は甘すぎた。親に対して誠実でも何でもなく、ハルに対して配慮も気持ちも全然足りなかった。
俺は心の中で「ゴメン」と言うしかなかった。両親を不幸にしている……その現実に為す術がなく、解決策も答えも何も思いつかなかった。
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