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september.7.2017 誰よりも……親よりも?
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「やっぱり三個にしておけばよかったのに」
「買う時は余裕だと思ったんだよ」
ペットボトルのお茶を飲みながらロウさんがポンポンとお腹を叩いた。呼びかけるときは「あなた」だけど心の中ではずっとロウさんと呼んでいる。高村さんが「ロウって呼ばれていたんだ」と教えてくれたのはいつだったろうか。亡くなってしまったお兄さんがそう呼び始めたらしい。そしてその名は封印された。
「三郎のことをロウと呼べるのは、しいちゃんだろうから」高村さんはそう言ったけれど、面識のないお兄さんに変わってロウとは呼べなかった。会ったことがあるなら呼べたかもしれない。でもお兄さんと高村さんだけの呼び方は私には重かった。
久しぶりの帰国にウキウキしていたのは最初だけで、自分の家に帰ってから一気に私たちの雰囲気が変わった。予想していなかったことが現実になると身動きができなくなる。
まだ現実かはっきりしていない、事実かどうかもわからない。でも……誰かと一緒に住むことを考えるような子ではなかった。実巳は従業員と雇い主という関係にキッチリ線をひくタイプだ。その実巳が揃いの食器を当たり前のように使っているということは、全てが言葉になっているようなものだ。
実巳が生活を共有しているということ、それは紛れもなく大事に思っているということになる。どのレベルの大事さなのか……私はそれ以上の言葉を欲しいと思えなかった。
そんな気持ちで訪れた伊勢神宮は心を穏やかにしてくれた。あきらかに空気が違い、俗世と異なる雰囲気の中に身を置くと、この時間を自分に取り込もうという気になれた。参拝し、参道を歩きながら、とても遠くに来たと感じた。同じ日本だというのに。そして自分の場所だったはずの店も自宅も……。
かつて居た場所でしかない、そんな感覚が消えてくれない。そういうものなのだろうか。年齢を重ねていくと自分の気持ちは変わらなくても、環境はどんどん変化する。
引き継いだ時は繁盛店にしてくれるといいと本気で願った。でもそれを目の当たりにすると、自分達が切り盛りしていたSABUROUは過去の存在になってしまったと寂しくなった。
自分達の家なのにどこか違うマンションの一室。そこで過ごした一晩はリラックスに程遠いものだった。久しぶりの朝食も同様で、臆病になった親と知らない振りをする子供の食卓が楽しいはずがない。実巳は何を考え、何を思っていたのだろう――あの朝。
「だから買おうっていったのに」
「だってうどんが意外とパワフルだったじゃん」
通路を挟んだ向こうの座席にいる乗客の会話が耳に入り、物思いから引き戻された。ロウさんが乗った事がないから近鉄に乗りたいと言い出し、難波まで近鉄で移動することになった。
私たちは赤福を買い、車中で食べ始めたが一人三個は無理だと諦めた。三個入りにしてどちらか頑張れる方が二個食べればよかったのに。箱の中にはまだ四つ残っている。
「赤福なら駅にも売ってるよ。だって関空でみたことあるし」
「え~その場で買うのと違うと思うよ?本場のを食べた!っていうのがいいじゃないか」
「うどんだって本場だぞ」
「ぶよぶよ」
そこで二人は顔を見合わせプっと笑っている。20歳過ぎだろうか。社会人の雰囲気はなく学生さんだろう。ロウさんの膝の上に置かれた赤福に目が留まる。これを持ち帰ってホテルで食べるだろうか?難波の街にでて美味しいものを探して何軒かハシゴするに決まっている。ロウさんは食欲ではなく知識として味覚の記憶を得るために料理に取り組む。もう慣れたけれど外食は半ばお仕事モードだ。
私の作った料理こそが「ごはん」だとロウさんは笑顔で言う。その言葉と表情に絆されて今もずっとこの人の傍にいる私。
絶対ホテルの乾燥した部屋では餡が固くなってしまうだろう。赤福の箱をひょいと持ち上げて隣の座席に目を向けた。視線を感じたのか片方の男性がこちらを向いた。
「あのよろしかったら貰ってくれませんか?」
一瞬驚いた顔をしたあと向かい側の男性の肩を叩く。二人の視線が私に向き、ちょっとトドギマギした。
「ええと、それは?」
「赤福です」
「ええ!」
買おうと言ったのに、そう話していた男性が声を上げた。今時の若いこはこざっぱりしているのね。ふわふわしているけれど耳の周りの襟足もきちんと整えられたヘアスタイルは好感が持てた。そうね少し……北川君に似ているかもしれない。
「やる気満々で買ってみたものの、一つ食べたらもう無理で。銘々箱は一つずつ包装されているので、汚くしていないし。無駄になるくらいなら食べてもらったほうが……」
だんだん語尾が弱くなる。ここは日本だ。フランクに話しかけて普通に返ってくる保証はない。訝し気な視線が返って来たり無視されることだって多いだろう。日本に住んでいた頃は知らない人に話しかけられたら警戒していたし。
「詩織、そんないきなり。かえって迷惑だろう」
一度持ち上げた箱を膝に置いた。そうよね。びっくりさせてしまったわね、きっと。
「あの……本当にいいですか?実は買うつもりだったのにうどんのせいで買えなかったので。僕は嬉しいです。いただいても?」
「ええ!是非」
ぴょんと立ち上がって箱を手渡す。もう一人の彼の反応はロウさんと同じで、申し訳ないのか複雑な表情をしている。
「ご親切にどうもありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ助かりました」
席に戻るとヤレヤレといった顔のロウさん。おばさんは若い子につい親切にしたくなるのよ、そう言おうとしたがやめておいた。
ニコニコしたふわふわな彼は箱をゆっくり開けている。なんとなく少し違和感のある動きだったけれど、はやる気持ちを抑えつつなのかしらと笑みが浮かんだ。髪を短く刈り込んだ男性がリュックからペットボトルのお茶をとりだした。
「俺のチョイス最高だろ?緑茶だけど抹茶入だぞ?」
「あ~ほんとだ。流石って言っておくよ」
短髪君はペットボトルのキャップを捻ってからフワフワ君に渡した。随分……優しいのね。実巳もこんなことしているのかしら?いけない、どうしてもそこに考えがいってしまう。
「食い気に走りやがって。箱よこせよ」短髪君は箱を取り上げ開け始めた。よく見るとフワフワ君の左手の小指と薬指がつっぱったように動いていない。……それでペットボトルのキャップ。
「んん~美味しい!」
ふわふわ君は満面の笑みで美味しいと言った。そして私を見てピョコンと頭を下げる。
「ありがとうございます。想像していたよりずっと美味しいです」
たとえ自分が作ったものではなくても「美味しい」は嬉しい。ロウさんや実巳の料理に「美味しい」と言ってくれるお客さんの言葉が嬉しいように。
「学生さんですか?」
「ええ、社会人になったらあちこち行けなくなるので。今回は伊勢神宮と唐招提寺と薬師寺にいくつもりです」
「そうですか。わたし達は京都をブラブラするつもりです」
「いいですね。行きたい場所のリストに入っていますから絶対行きます、京都」
彼らとの会話はそこで終わった。四人掛けの席にロウさんと向い合わせに座りながら、時々きこえてくる彼らの会話に耳を傾ける。ずっと聞いていると短髪君が随分ふわふわ君のことを気にかけていた。ペットボトルのキャップの面倒をみたり、リュックの中から物を取り出す。彼が手こずるとやんわり取り上げ使えるようにしてから渡す。きっとこれが彼らの日常なんだろう。お弁当があったら、割りばしを割って渡すに違いない。フワフワ君の指が治る怪我ならいいのに、そんなことを考えていたらロウさんと視線がぶつかった。
「ジャックとフィリップのことを考えていた」
「そう。私の考えている事と方向性は一緒ね」
ジャックとフォリップはパートナー同士だ。店の常連客でロウさんのだし巻きが大のお気に入り。「オイシ、オイシー」という調子はずれの日本語がかわいい。とても自然で穏やかな二人。ある時、彼らにあからさまな態度を取り乱暴な言葉を投げつけた客がいた。ロウさんの親友であるオーナーとロウさんは、その客を摘まみだした。「あんたの主義主張は関係ない。楽しく食事をしている人に対して言っていい事と悪いことがある。そんなことがわからない人はこなくて結構!」
彼らがカップルであろうとなかろうと関係ないのだ。人の食事を邪魔するのはマナー違反。自分が受け入れることができないからといって彼らの人格まで否定するのは間違っている。
そう思える、心から。それなのに……だ。実巳のことになるとダメになる。自分がこんな人間だと思わなかった。
「ため息ばかりでるな」
「私も」
「タカさんも知らないそうだ。実巳から何も聞いていないと言った」
「そう。だからといって違うとも言えない。むしろ高村さんが知らないってことのほうが不自然じゃない?」
「ああ、それは俺も思ったよ」
母が好きだった映画……あれはなんだったろう。つまらない映画だと興味がわかなかった。
「母が好きな映画があって」
「なんの映画?」
「もうタイトルも覚えていない。俳優の名前をその時に聞いたけど覚える気がなかったから全然思い出せない。差別はダメよ、肌の色で人を差別しては駄目。それが信念の両親に育てられた娘が素敵な人に出会ったから結婚したいと言って彼を家につれてくる」
「うん、それで?」
「彼は黒人だったの」
ロウさんの目が見開かれた。
「偏見に惑わされないお父さんとお母さんなら、彼の素晴らしさをわかってくれるわよね。娘はそう言うのよ。というか親が受け入れないなんて考えてもいない。だって自分の両親は差別を悪い事だと教えてくれた人たちなんだから。
彼の両親もかけつけてとんでもないことだと結婚に猛反対する。子供と親は平行線をたどって……結局どうなったのか思い出せないわ。リベラルな人間であれば祝福できるはずなのに、できない親。祝福されることしか考えていなかった子供の困惑。
肌の色なんて日本ではピンとこなかったし、高校生くらいの時だったから映画が訴える問題にも鈍感だった。だって自分の身に起こるはずのない設定だったから。でも違った……ちゃんと見ておけばよかったって初めて思った」
「……そうか」
「頭ではわかる、でもわからない。自分がどうしたいのか。聞きたいよりも聞きたくない。でも息子が幸せならそれを応援するのが親でしょう?親失格なのかしらと考えたらすべてに自信が持てなくなって」
「応援か……タカさんは言ったよ。今の店とスタッフ全員がなくてはならない存在だということだけはわかってくれって。実巳に向かい合うなら中途半端な気持ちはやめてくれないか。ロウとしいちゃんが向き合える、そうなったタイミングと気持ちになったら聞けばいいってさ」
「それって……そうってことじゃない」
はっきり言葉にもできない自分に苛立つ。
「そうなのかもな。そうだったとしてまだ「そうなのかもな」と言える状況だ」
社内アナウンスで次の停車駅が「難波」であることが告げられた。
「トイレにいってくるよ」
ロウさんは立ち上がり車両を出て行った。荷物をまとめ切符の確認をした。通路を挟んだ向こうの彼らも難波で降りるらしく、テキパキ準備をしている。もちろんそれをしているのは短髪君だ。
「仲良しですね」
言うつもりはなかったのに、つい言葉がでてしまった。
「あ、ごめんなさい」
フワフワ君がニッコリ笑った。
「大丈夫ですよ。仲良しに見えたならよかったです」
「なに言ってんだよ、お前は!」
ペシンと頭を叩かれ、フワフワ君がペロっと舌をだす。
「優しくて面倒見のいい彼氏さんですね」
フワフワ君はコクンと頷いたあと、やはり笑顔を浮かべた。
「はい、誰よりも大事な存在です」
キッパリ言い切られて驚くと同時にそうなのか……と考えた。扉の向こうにロウさんが見えたから私は返事の代わりに彼らに笑顔を返した。
「誰よりも」そう言った。彼らにも両親がいるだろう。でもその両親よりも彼は大事だと言った。そこまで深く掘り下げ考えた返事ではないだろう。でも構えず口からでた言葉だからこそ本音だと言えないか?
誰よりも……親よりも……誰よりも。
自分が生んだ子供だけれど、もう立派に自分の道を自分の足で歩いている。活き活きと厨房で躍動する姿は知らない男性みたいに見えた。親にとってかけがえのない存在である子供もやがては自分で未来を切り拓き将来を創り出す。そして自分の家族となる「かけがえのない存在」を得て次に繋いでいく……子供であっても、実巳はもう一人の男だ。自分で選択し、立ち向かい、そして掴み取る。
そこに親が干渉する権利はない。アドバイスや意見は言えるだろう。だが親だからこそ、子供が選んだことを受け入れることができる。他人ではないから……愛情があるから。
実巳は充実した顔をしていた。曇ることのない自信にあふれていた。表情が陰ったのは朝食の時。子供としての義務、親としての思い。あの時は三人ともが相手を大切に思うからすれ違った。
じゃあ実巳に向き合えるか?そう問われたら自信がない。まだ……思いきれない。でもこの気持ちを、親としての思いと立場をロウさんと話すべきだろう。
「誰よりも」その言葉にこれだけ考えることができた。ささやかな出逢いによって答えらしきものを出す切っ掛けを得る。それがこの旅の目的になる気がした。
ロウさんと二人で旅の中で答えを見つけよう。私の心は少しだけ軽くなった。
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