アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
april.9.2016 一日の終わり
-
「はやくベランダに出られるようにならないかな。」
少しずつ春めいた温度になってきたと思ったら今日は冷え込んだ。
緑はまだあまり見当たらない。雪が溶けて氷や雪に覆われていた道路の縁は乾燥した埃と土が積もっている。自然の力が甦る前の春先は、どこか乾いた感じで埃っぽく瑞々しさが足りない。
春の冷たい雨が道路に積もった土や砂を洗い流す。高速道路の路面は白い。融雪を促す塩化カリウム(略して塩カリ)を路面に撒くせいだ。海辺を走らなくても洗車をしないと錆るのはこのせい。北国は何かと手入れや装備がいる。だからといって他の土地に住もうなんて気はさらさらないけれど。
「花見ができる頃でも肌寒いだろうな。夜でも大丈夫になるのは6月か。」
「ライラックの頃か・・・桜よりもまだ先だな。」
仕事を終えて家に戻りソファにもたれてワインを飲む。ようやく今日という日が終わりますという儀式みたいなものだ。トアの余波で日々忙しいけれど、ペースを掴んで先週よりは疲れていない。これが日常になったとしたら売上は結構伸びるはず。充さんは仕出し部門の売上アップを企んでいる。近隣の会社に営業をかけるとか何とか。総務に異動したらそんなに外出する理由がなくなるはずなのに。でもまあ、あの人ならどうにでもするはず、というか出来てしまうのだろう。悔しいけど。
「沖縄、雨なのに明日の気温26℃の予報だぞ。」
衛がテレビの天気予報を見て言った。本当だ。こっちの夏日といわれる気温を超えている。真夏の沖縄にいったらコンガリ焼けて干からびそう。行くとしたら絶対に冬にしたい。
沖縄より・・・時間的に無理だろうけど京都に衛と行きたいと思っている。「一緒に行くか。」衛が本屋でそう言ってから何年たっただろうか。二人で三十三間道の本堂に並んで立つ日はいつになるのかわからない。でもチャンスがあったら絶対実現させたい。今年も11月には登別に行きたいし。
そんなことを考えていたせいで天気予報を見逃した。天気によって置き傘や、濡れたお客さんに貸し出すタオル、室温の設定といった準備が必要になる。俺の考えではこういうちょっとしたことが大事で、お客さんにまた来てもいいかなと思ってもらえるサービスというか「おもてなし」じゃないかって。ミネは全面的に任せてくれているから、トアと正明でホールの布陣に穴が開かないようにチェックをする毎日だ。
「明日の天気見逃した。札幌は?」
「晴れのち雪・・・最高気温は7℃。」
「最低気温は?」
「2℃。月曜も雪マーク。」
「なかなか10℃超えキープにならないね。ベランダはまだまだ先だ。」
店舗の暖房はまだ必要だから春とは言えない。暖房がいらなくなったらストーブはオブジェに変化するのでウェイティングのパン&トロトロチーズに変わるものを考えなくちゃいけない。ミネは「ずっと冬でいいんだけど、考えるの面倒だ~。」と言っていた。パンを切ってチーズをのせるならホールチームでも手伝える。
でも季節感のあるちょっとしたものを出すとなると、厨房チームが頑張ることになるからその分手がかかるわけだ。
「温かくなったら、どうしようね。ウェイティングメニュー。」
「だな。今更止めるってわけにはいかないし。原価が安いものじゃないと、あとあまり手間かけてられないし。村崎も困った困った言っている。というか毎日仕込みに追われているといったほうが正しい。」
ウェイティングのテーブルでパンをだすと絶対ドリンクのオーダーがくる。待ちきれない人はそこで料理のオーダーもする。だから呼び水的な一皿は欲しいところだ。
「たぶん、ブルスケッタ的なものに落ち着くだろうな。パンなのかクラッカーなのか、頭を何にするのか原価計算してみないと何とも言えないけど。」
「衛のつくってくれるディップじゃ駄目なのかな。」
「あ~あれ美味しいけど、どうだろう。」
衛特製のディップ。クリームチーズを常温で柔らかくして泡だて器で撹拌。そこにローストしたクルミとシナモンを入れる。これだけでも美味しいけど、さらにメイプルシロップを混ぜると抜群に美味しいディップができるというわけ。これをクラッカーやバゲットにのせて食べる。まさに止まらない美味しさ。ついでにワインも止まらなくなるので、これは月曜日専用のつまみだったりする。
「明後日作ってよ。」
「いいけど、理でも作れるだろ?レパートリーに加えたらいいじゃないか。」
「いらないよ、俺にレパートリーは必要ないし。衛が俺のレパートリーじゃないか。それに衛が作ってくれたほうが絶対美味しいはず。」
「なんでだよ。」
「んん~~~愛情が入っているからかな。」
衛はニヤリと頬を緩める。相変わらずの男前。爺さんになっても男前のままなんだろうな。
男前の爺さんって・・・誰かいたっけ?
いつにも増して今日の思考と会話は重要度が低い。とりとめない会話、見ているようで見ていないテレビの画面。ワインとチーズ、生ハム。
寝るまでの何て事のない時間・・・会話に内容がなくても、この時間が俺には必要だ。一日の終わりと、今日のリセット。眠って夢をみて、脳が記憶を整理して新しい朝を迎える。
リセットもスタートも隣に衛がいるってことが大事。一人でいても同じ夜と新しい朝はやってくるけれど、やはりどこか違うと思えるから不思議だ。
「会社に居た頃、俺達・・・何を議題に会話していたのかな。」
「なんだよ、急に。だいたいが仕事の話しじゃなかったか?あとは理の無意味なお付き合いとか・・・そう言われると確かに議題があったわけじゃないし、高尚な議論を交わしたことはないな。俺は常に何か作って、理がうまいうまいと食べる顔を眺めていた記憶のほうが多い。」
「そうだよ、あれにすっかりやられたんだった。」
「俺だって、あれにやられたんだぞ。」
なんだかおかしくなって「ふふっ」という笑いが漏れ出た。「なに笑ってんだよ。」と衛に肩をグイと押される。
「俺達の切っ掛けが「食」だとしたら、今の職業は最適ってことになる。サラリーマンしてたのにね。でもサラリーマンにならなかったら衛に逢えなかったってことだろ?それに衛が違う高校を選んでいたらミネにも逢っていなかったってことだ。今こうやって、穏やか~~な夜で一日を締めくくれるのが、ちょっと特別なことに思えてきて。不思議だなって思ったら、笑っちゃった。嬉し笑い?そんな言葉あったっけ?」
「嬉し泣きは聞いたことあるけど、嬉し笑いはないかもしれない。でもいい感じだ。」
「だろ?」
衛の右手が俺の太ももにそっと置かれたから、その上に自分の手を重ねる。ベタベタするのは性に合わないけれど手に触れるのは好きだと思う。身体の中で一番明確に言葉を伝えられるのが「手」なんじゃないかっていうのが俺の持論。想いや言葉をのせることができる身体の一部。口と同じ働きができる重要なパーツ。それが重なると言葉がいらなくなる。ゆっくりとした時間が流れているときは言葉よりも手を合わせたほうがしっくりくる。
『そろそろ寝るか。』
たいていどちらかが言う言葉が今はない。
寝る準備をする時間を少し過ぎているけれど、テレビはついたままチャンネルも変わらず映像が流れている。本格的な春を待ちながら、ゆっくり過ごす時間。
今日の終わりを衛と迎える。
『もう少しこうしていよう。』
少しだけキュっと握られた手から、そんな衛の言葉が聞こえてくる。
だからソファの背に預けていた身体を衛の肩に寄せた。
『うん、もう少しこうしていよう。』
俺の言葉・・・聞こえた?衛。
「ふふっ。」
衛の「嬉し笑い」が俺の耳に届いて・・・
俺達は何も言わずに、ゆっくり、ゆっくり・・・握った手で会話を続けた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
213 / 474