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震えているのは風邪のせい
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(ユヴュ)
「ご――ごめんなさい」
ふらふらと戸を開けたアンツは、あからさまに様子がおかしかった。
やけに赤い顔で、ケホケホと咳を繰り返している。
「か――風邪、ひいちゃったみたいで。あの、う、うつると悪いんで、す、すみま、ケホッ、すみませんけど、今日はその、ケホッ、か、帰っていただけますか? 本当にすみません」
「風邪、ですか?」
手をのばして、アンツの額にあてる。
「あ、い、いけませ、ケホッ、う、うつりますよ」
「うつりませんよ」
熱はあるようだが、ものすごい高熱というわけでもないようだ。おそらく、インフルエンザではないだろう。
なら、大丈夫だ。
「私達、生まれつき、あなたがたより病気になりにくい体質なんです。まあ、インフルエンザとかなら私達もちょっと危ないんですが、あなた達がひくような普通の風邪なら、まず大丈夫です。めったなことでうつったりはしません」
「で、でも、万一うつったりしたら申し訳ない――」
そこまで言って、アンツはケホケホとひどく咳きこんだ。
「うつりませんよ」
と、もう一回言ってやる。
「あなた、ちゃんとご飯食べてます?」
「え?」
「ちゃんと栄養を取って、あったかくしてないと、風邪、なおりませんよ」
いくら私達がめったに風邪などひかないといっても、さすがにそれくらいの知識はある。
「あ、パン、食べました」
ふにゃり、とアンツが笑う。
「だから、大丈夫です、はい」
「馬鹿なことを言わないで下さい」
アンツを押しのけ、家に上がりこむ。
「炭水化物しか取れてないじゃないですか。もっと栄養のバランスというものを考えなさい」
「あ、だ、だめですよ、入っちゃ。う、うつり、ケホケホッ!」
「――」
ああ、かなり具合が悪いんだな。
…………。
確かに。
この、アンツと言う男は。
馬鹿で。
とろくて。
要領が悪くて。
いつもへらへら笑っていて。
まことにもって、見ているといらいらさせられる男ではあるが。
いつか絶対、完膚なきまでに叩きのめし、地に這いつくばらせ泣きべそをかかせてやろうと思っている相手だが。
だが、しかし。
いくら私だって、アンツが本当に病気でぐあいが悪いのを見て、それを楽しんだりするほど趣味が悪くはない。
さらにいうなら。
こいつ――一人暮らし、だよな。
かなりぐあいが悪そうなのに、本当につらそうなのに、誰からも世話をしてもらえないんだ。
…………。
「ユ、ユビュさん、う、うつると悪いですから、ね、きょ、今日は、ケホッ、か、帰って下さい、ね?」
「――寝ていなさい」
「え?」
「病人は、寝ていなさい」
「――はい」
アンツは、熱で真っ赤な顔のまま、にっこりと笑った。
「ありがとうございます」
「そのあいだに、私が何か、栄養のあるものをつくりますから」
「…………え?」
アンツはきょとんとした。
「え? あ、あの、ユ、ユビュさん?」
「なんですか?」
「か、帰るん、ケホッ、帰られるんじゃないんですか?」
「どうせあなたを看病してくれる人なんて誰もいないんでしょう?」
あ、ちょっと言いすぎたかな、とチラッと思ったが、だってしかたがない。単なる事実だ。
こいつは――アンツは。
家族が一人もいないうえ、近所の連中からは『ツキのヒルコ』だということのせいで、かなりひどい扱いを受けている。
まったくもって、ばかばかしいことだと思う。『ツキのヒルコ』の――異形のどこが悪いというんだ、ほんとにまったく。
「こんな状態のあなたを見て、それでこのままほっぽらかして帰っちゃったら、私がものすごく、不人情な人間みたいじゃないですか」
『不人情』――か。
私達は――イギシュタール貴族は、あんまり使わない言葉だな。
『不人情』なんて。
でも、まあ、こいつはそういうふうに言ってやらないと、理解することが出来ないだろう。
「だから」
だから。
「しょうがないから、私が看病してあげます。なに、どうせ私達イギシュタール貴族は、あなたがたより何倍も、頑丈な体を持っています。その程度の風邪がうつりっこありません。というか、あなたほんとに、半分万年栄養失調なんじゃないですか? いつも言ってるでしょう? ちゃんと食べなさいって。そんな頼りない体だから、風邪なんてひいたりするんですよ」
「…………」
泣き出しそうなアンツの顔を見て、言いすぎたかな、と、ちょっとあわてる。
そりゃ私は、こいつにいつか、泣きべそかかせてやりたいと思っている。
でも。
でも、それは、こんなふうに、こんな方法で、泣かせてやりたいっていうわけじゃ、ないんだ。これは、違うんだ。今泣かれたって困るんだ。
「――ありがとう、ございます」
「――」
こいつは、時々、こんなふうに私に礼を言う。
ひとことひとこと、噛みしめるように。
ギョッとするほど真剣な顔で、力をこめて、私に礼を言う。
「――どういたしまして」
そんなふうに礼をいわれると。
私はいつも、一瞬、どうすればいいのかわからなくなる。
「ケホケホケホッ!」
ひどくアンツが咳きこむのを見て、思わず手をのばして背中をさする。
ええと、こういう時って、こういうふうにすればいいのか? なにしろ私達イギシュタール貴族が、いわゆる『風邪』をひくことなどめったにない。知識としては知っていたが、あまり見たことのない症例を目の当たりにして、ああ、風邪をひくと、人間は本当にこんなふうになるんだ、と、いささか感慨深いものがある。
「ほら、あったかくして寝ていなさい。何か食べるものを作ってあげますから」
「い、いいですいいです」
「よくないですよ。食べなきゃ治りませんよ」
「あの、その――」
アンツはもじもじとうつむいた。
「今、その――う、うちに、食べるものが何にもないんで――」
「はあ!?」
やっぱりこいつは、心底馬鹿だ。
「あなた、そんな状況で私に帰れっていったんですか!? あなたねえ、そんな、食べるものも食べずにただ寝ているだけで風邪が治るわけないでしょう!」
「い、いや、その――も、もうすこし症状が落ち着いたら買い物に行こうかと――」
「あなた、本物の馬鹿ですね」
腹が立ってきた。ひっぱたいてやりたいが、さすがに病人をひっぱたくというのはまずいだろうと自重する。
「ああ、もう、いいです。あなたはただでさえ馬鹿なのに、風邪のせいでさらに頭が働かなくなっているんですね。わかりました。寝ていなさい。私が買い物に行ってきます。お医者さんには――」
と、言いかけて、聞く前に答えがわかってしまった。
「――私なんかを診察させたら、お医者さんがかわいそうですよ」
「――」
一瞬、めまいがした。
そんなことを言いながら、こいつは、この馬鹿は、アンツは。
悲しそうな笑顔を浮かべていた。
「――買い物に行ってきます」
なぜだろう。
腹が立った。あ、いや、なぜも何もないな。アンツがあんまり馬鹿だから、腹が立ってしょうがないんだ。そうだそうだ。別に不思議なことはない。
「あなたは寝ていなさい。いいですか、私が帰ってきたときあなたが寝ていなかったら、たとえ病人といえども手加減抜きでひっぱたきますからね!」
でも。
なぜだろう。
なぜ。
どうして。
どうして私は、悲しくてしょうがないんだろう――?
(アンツ)
ああ、これは、夢なんだな。
と、半ば本気で思っていた。
熱があるしな。食欲がないからって、朝から何にも食べてないし。あ、そうだ、パンが一個残ってたのを食べたは食べたっけ。
夢だな、きっと。頭がボーッとしているから、白昼夢を見てしまったんだ。
でも。
別に。
夢でも、いい。
だって。
とてもいい、夢だったから。
ユヴュが、あんなふうに私のことを心配してくれるだなんて。
夢だ――夢。
ああ、まったく、私ときたら、あんなに自分に都合のいい夢を見るだなんて。いまさらいうのもなんだが、私という人間は、本当に能天気に出来ているらしい。
そんなことを考えながら、うつらうつらしていた。
「――ちゃんと寝ていますね」
と、やさしく声をかけられて。
私は。
目を開けるのが怖かった。
夢でもいい。妄想でも、幻聴でもいい。
でも。
でも。
目を開けたとき、そこに本当に、誰もいなかったら。
私はやっぱり、ひどくがっかりしてしまうだろう。
「起きられますか? それとも、もう少し寝ていますか?」
「あ――お、おき、ます」
「まだいいです」
起き上がろうとする私の体を、優しい手がそっと押し戻す。
「今、持ってきてあげますから。それまで寝ていなさい」
「――はい」
ああ。
もしかしたら。
これはやっぱり、夢ではないのかもしれない。
「――持ってきましたよ」
「あ――ありがとう、ございます」
ユヴュは、私が身を起こすのを手伝ってくれ、どこやらに適当に投げ出しておいた上着まで着せかけてくれた。あらかじめきちんと用意されていた小机の上に、具沢山のスープ二皿と、ふっくらとしたパンが乗った皿がおかれる。水の入ったコップも二つ、コトコトとおかれる。
「スープぐらいなら、食べられるでしょう?」
と、ユヴュが小首をかしげる。
「は――はい。ありがとう――ございます」
泣きそうになった。こんなところでいきなり私に泣き出されてしまったら、ユヴュは困ってしまうだろうと思って一所懸命我慢したが。
でも、もう少しで泣くところだった。
「せっかくつくったんだから、ちゃんと食べてくださいよ。私も、ついでだからいただきます」
そういって、ユヴュは、スープにスプーンを突っ込んで、パクパクと食べ始めた。ユヴュがパクッと一噛みすると、パンの半分ほどが一瞬で口の中に消えうせる。
若い人の食べっぷりって、見ていて気持ちがいいなあ――と、ぼんやり見ていると。
「あのですね」
ジロリとユヴュににらみつけられた。
「食欲がないのかもしれませんが、少しは食べなさい。具が無理なら、スープだけでも飲みなさい。どんなときでも、水分補給は必要なんですからね」
「あ、ご、ごめ、ケホッ、ごめんなさい。ちょ、ちょっと、見とれてしまって」
「見とれる?」
ユヴュはきょとんと目をしばたたいた。
「何に?」
「いや、その――若い人の食べっぷりって、見ていて気持ちがいいなあ――と」
「……そういうもんですかね?」
ユヴュは、不思議そうに首をかしげた。
「まあ、とにかく、見ていないであなたも食べなさい」
「はい」
なんだか食べるのがもったいなかった。
ユヴュの手料理なんて、食べるのは初めてだ。
ああ、風邪なんてひいてる場合じゃなかったなあ。もっとちゃんと、体調が万全のときにじっくり味わいたかった。ん? でも、私が風邪をひいていなければ、そもそもユヴュは、私に手料理を作ってなんかくれなかったわけか。はは。
「いただきます」
口に入れて、真っ先に思ったのは、やさしい味だな、ということだった。
おいしい。本当においしい。
「――おいしい」
「そうですか」
ユヴュはチラリと笑った。
「それならよかった」
「――初めてです」
「え?」
「ひとから、こんなことをしていただいたのは」
「――そうですか」
ユヴュが、つと手をのばして。
私の額にあてた。
「熱は、そんなに高くはないようですね。まあ、いつものあなたの体温よりは上のようですが」
「ええ――」
正直、熱はあるにはあるようだが、それよりつらいのは、ひたすら寒気がすることだ。今までの経験から、とにかくこの寒気がおさまってくれないことにはどうにもならないことを知っている。
「――何かして欲しいことがあるならしてあげますよ」
と、ユヴュが言う。
「え、そ、そんな、ここまでしていた、ケホケホッ!」
「ああ――のど、痛いですか? しゃべるとつらいなら、無理してしゃべらなくてもいいですよ」
「い、いや、のどが痛いというか、その、どうも咳がとまらなくて――」
「結核じゃないでしょうね?」
「――」
なんとも答えようがない。もし結核だったら、それはきっと、私の命を奪うだろう。
そこまで考えて、頭から氷水をかけられたようにすさまじい寒気がした。
「ユ、ユヴュさん、か、帰ってください!」
「は?」
「も、もし結核だったら、わ、私、あ、あなたにうつしちゃったら、し、死んでわびてもおっつきませんから!!」
「――馬鹿ですね、あなたは」
ピンッ、とユヴュが私の額をはじいた。
「私達は、抗生物質を持っています。ああ、あなたには、結核の特効薬と言ったほうがいいのかな? とにかく、私達は、結核の特効薬を持っているんですよ。だから、たとえあなたが結核で、仮に私がそれに感染したとしても、簡単に治せますからあなたが心配する必要は別にありません」
「あ――よ、よかった――」
安堵のあまり、体がベッドの中に沈みこんでいくかと思った。
ああ――そうか。それなら、よかった。
「死んでわびるって」
ユヴュはあきれたように肩をすくめた。
「あなた、そんなことされて私が喜ぶとでも思ったんですか? それに、私は別に、あなたに頼まれたからここにいるんじゃありません。私自身の意思で、ここにいることを決めたんです。自分の選択の結果を、他人に押しつけるつもりは毛頭ありません」
「あ、その――す、すみません――」
顔から火が出る思いだった。どうも私は、ひどく馬鹿なことを言ってしまったようだ。
「――しばらくここにいますよ」
ユヴュは、そっけなく言った。
そっけない声だったけど。
「とりあえず、あなたが一人で起きて、ちゃんと自分で食事をつくれるようになるまではここにいますよ。やりはじめたことをやりかけのまま放り出すのは気持ちが悪いですので」
語る言葉は、とてもとても優しかった。
「え、そ、そんな、わ、悪い――」
「あなたそんなに私をいらいらさせたいんですか? 私はね、一度始めたことを中途半端で終わらせるのは、我慢が出来ない性分なんです」
「あ、その――す、すみません。で、でも――」
「でも?」
「う、うち、あの、ケホッ、ベ、ベッド、一つしか――」
「いつものようにすればいいでしょう?」
「え――」
「あ、いや」
ユヴュが、ちょっとうろたえた声をあげた。
「べ、別に、今日はあなたをどうこうしたりはしませんよ。いくらなんだって、病人に手を出すほど趣味が悪くはないつもりです」
「――いいですよ、出してくださっても」
それは、心底からの本心だった。
あなたの腕に抱かれる機会を、一度だって逃したくはない。
あなたの腕に抱かれて死ねるなら。
それ以上の幸せなど、ちょっと思いつくことも出来ない。
「何を馬鹿なことを言っているんです」
ユヴュの指が、再び私の額をはじいた。
「いいから食べてしまいなさい。おなかにものを入れれば、とにかく少しはましになるでしょう」
「――はい」
あたたかかった。
私の内側が。体の中が。心の奥が。
とても。
とても、とても――。
とても、あたたかかった。
(ユヴュ)
震えている。
震えて――いる。
「――寒いんですか?」
「――」
アンツは、困ったような顔でケホケホと咳きこんだ。
「寒いなら、寒いと言って下さい」
いつもいつも、どうでもいいことはペラペラペラペラとやたらよくしゃべるくせに、どうしてこんな時だけ黙りこくるんだ。
「――少し、寒いですね」
アンツはやっぱり困ったような顔で、ボソボソと言った。
「で、でも――しょうがないですよ。か、風邪ですから。風邪の時は、誰でも寒気がするものなんですよ」
「そうなんですか?」
「――ええ」
そういってアンツは、またケホケホと咳きこんだ。
「――」
寒いのか。
ああ――寒いのか。
私達イギシュタール貴族が、暑さ寒さを感じないわけではない。ただ、私達は、こいつら地の民達より、暑さ寒さ、つまり、温度変化一般にかなり強い。温度の違いはわかる。だが、そのことを苦にすることはほとんどない。
「――あっためてあげましょうか?」
「え?」
私達が、こいつらの病気に感染することはほとんどない。
だから。
「あ――!? ユ、ユビュさん、な、なに――!?」
「――あったかく、ないですか?」
布団の中は、いつもより熱く、どうしてこれで寒いのかとほんの少しだけ不思議になる。
こいつの体も――いつもより、熱い。
ああ、これが『熱がある』という状態なのか。
「――あ――あったかい――」
アンツの声が震えているのは。
風邪のせい、なのだろうか。
熱のせいで、弱っているから、なのだろうか。
「あた――あたたかい――あったかいです――すごく――すごく――」
「そうですか」
腕の中にすっぽりとおさまる、やせて小さな、貧相な体。
奇妙に、熱い。
ああ――病気なんだな、こいつは。
「――どうしてあなたがたは、こんなにも弱いんでしょうね」
こんな妙なやつとずっとつきあっているからだろうか。
私まで――妙な事を、思う。
どうしてこいつら地の民は、こんなにも弱いんだろう。
どうしてこいつらは、あっという間に年老いてしまうんだろう。
どうしてこいつらの寿命は、私達からすれば驚くほど短いんだろう。
人類という種の多様性のため――と、私達の記録は言っている。
私達――イギシュタール貴族のような存在を、『大厄災』の前は、どうもこう呼んでいたらしい。
『デザインドチルドレン』――と。
ある特定の目的のために、創り出された子供達。
特定の目的があるのだから、その目的のために必要のないものは、遠慮会釈なく削ぎ落された。
そして、最終的に、その目的にピッタリな、最適モデルが創り上げられ、そのモデルが大量生産される。
だから。
私達は、イギシュタール貴族は、互いにみんな、非常によく似かよっている。遺伝子プールが極端に狭く、浅い。
遺伝子プールが狭く、浅いほど、種の絶滅の危険性は高くなる。
だからこそ。
多くの人類の遺伝子には手をつけることなく、『自然の』多様性をそのままそっくり保護したのだ――と、私達の記録は語っている。
多様性――か。
こいつらが。
弱く。
脆く。
寿命も短く。
あっという間に年老いてしまうのも。
今のアンツのように、ちょっとした病気でひどく苦しむ体なのも。
多様性のため――なの、か。
ああ――そうだ。私達イギシュタール貴族は、宇宙を征服せよと創り出された尖兵達の末裔だ。
――尖兵。
尖兵。
後から来る本隊のために、道を切り開く者達。
私達のあとからやってくるのは――いや。
私達の先祖のあとからやってくるのは、こいつら地の民達の先祖――だった、らしい。
――こんなに。
弱いくせに。
脆いくせに。
寿命が短いくせに。
あっという間に年老いてしまうくせに。
ちょっとした病気で、こんなにも苦しまなくてはいけないくせに――。
「――少し寝たらどうですか?」
なんとなく、何を言っていいのか思いつけず、そんなことを言ってみる。とにかく、睡眠をとれば体力が少しは回復するはずだ。
「――眠るのがもったいないです」
「は?」
ああ、この馬鹿は、やっぱり極端に馬鹿だ。
「なにを馬鹿な事を言っているんです。いったい何がもったいないんです?」
「あなたといっしょにいられるのに――眠ってしまう、なんて――」
「――馬鹿ですね、あなたは」
やはり人間病気の時は、馬鹿がさらに馬鹿になるのだろう。実例を見てよくわかった。
「そんなに苦しそうにしてるんだから、病気をなおす事だけ考えたらどうです?」
「そう――ですね」
小さな笑い声。次の瞬間、また咳きこむ。
「ケホケホッ。ごめんなさいね、馬鹿な事を言ってしまって」
「別に。あなたの馬鹿にも、いいかげん慣れてきましたから。もっとも、あなたの馬鹿っぷりにはやっぱり腹が立ちますが」
「す、すみません」
「まったく――」
話しかけたらこの馬鹿は、私としゃべるためにずっと起きているだろう、と思ったので、とりあえず口をつぐんだ。
なんとなく、背中をさすってみる。あんまりこんなことをしたことがないが、別に害になることでもないだろう、と思う。
「あ――ありがとう、ございます」
「いいから。もう寝なさい」
「――はい」
「――」
いったい私は何をやっているんだろう、と、自分自身にあきれてしまうのは、これでもう何回目になるのか。
腕の中の体から、フッと力が抜ける。
ひどく――頼りない、体だ。
こう思うのも、いったい何度目になるのだろう。
まあ――たぶん、私のしたことで、こいつの風邪は、それなりに快方に向かいはしただろう。
だったら私のしたことも、まったくの無意味というわけではないだろう。
――無意味、か。
そもそも、こいつとこんなふうにつきあっていること自体、かなりの無意味には違いないんだが。
ああ――馬鹿な事をやっているな、私は。
まあ、こんなことが出来るのも、ユーリルがまだ当主の座を引き継いではおらず、スペアの私も、まあもともと、スペアである私の立場はオリジナルであるユーリルよりもかなり気楽なものだが、その気楽な立場がさらにさらに、気楽なものになっているからだろう。
『猶予期間(モラトリアム)』というやつか、これは。
――まあ、いいか。
今日のところは、まあいいということにしておくか。
だって。
私達の寿命は、私達に与えられた時間は、こいつらよりずっと――ずっとずっと、ずっと、長いのだから。
いかに私が、この馬鹿に心底うんざりしているとはいえ。
一人ぼっちの病人を、看病することが無意味だなどと、主張するつもりはさすがにない。
だから、まあ――たぶん、きっと。
今日は、いつもよりむしろ、有意義な日だったのだ。
と、そういうことにしておこう。
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