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18歳以上ですか?
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vow
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冷たいような、温かいような、そんななんとも言えない風が頬を撫でるようにして流れていく。この見慣れた街中をくたびれたブレザーを着て歩く。少し走らないと遅刻してしまうだろうか。
いつもの日常。10月3日。なんの変哲もない、ある春の日。
ふと目に入った青年は綺麗な顔立ちで、ここらには珍しい綺麗な黒髪だった。
人の流れをまるですり抜けるように軽やかに、空気のように自然と溶け込んで歩く彼は一目見たら忘れられない程の美少年で知らぬ間に目で追ってしまっていた。
本当はこんなところで突っ立っている場合じゃないわけで、けれどどうしても彼を見つめてしまう。
ふと、彼はこちらを向いた。
ゾクリと鳥肌が立つ。それが何から来るものなのか、俺には全く見当がつかないが、彼の目が俺の中の何かを射抜いた。
「翔山....翔山満、だよね?」
とろけるような甘い声が聞こえて我に返る。その美少年は返事を待つようにじっと俺を見つめた。
翔山....満....ショウヤマ、ミツル....。あまりに動揺して、自分の名前を言われたにも関わらず咄嗟に反応出来なかった。
「あ、あぁ、そうだけど。....誰?」
一瞬裏返りかけた声をなんとか持ち直してあくまで冷静に返事をする。彼は少し悲しそうな、けれどやはり嬉しそうに笑いかけた。
「そっか、満くんは忘れちゃったのか。でも変わってないみたいで良かった。滝島楽斗だ。今日から俺も桜田学園に通うことになったんだ。」
急に話が進んで戸惑いながらも滝島楽斗と言う名前を記憶の中から探す。
楽斗....ラクト....ラク....
「楽!?」
小学生の頃よく遊んでいた少年の顔が思い浮かんで思わず名前を叫ぶ。今度は先程よりもっと嬉しそうに彼が笑った。
「やっと思い出してくれたのか。遅いよ満。この歳から物忘れなんて先が思いやられるんじゃないの?」
そう言う彼は昔の彼そのもので、なぜ気がつかなかったのか不思議なくらいだ。
「たまたま忘れてたんだよっ!てか学校!お前このままじゃ遅刻だぞ!」
「そうだね。ま、俺が遅刻ならあんたもだ。いいじゃん、二人仲良く遅刻で、俺は全然構わないよ。」
「いやいやいや、構わなくねぇし!遅刻したら岡先がうるせーから!」
「岡先?」
「岡先生!んなこたなんでもいいっ!走るぞ!」
そう言うと楽斗の手を掴んで走り出す。ひんやりとした、滑らかな肌。彼が一瞬驚いた顔をしたのは気のせいか、すぐに満面の笑みになったのでこのまま走ることにした。中学校でバレー部だったので体力には無駄に自信がある。このままダッシュで行けば到着は8時47分というところだろう。8時50分に校門が閉まるわけだから....ギリギリ間に合う。
あと2分というところで校門に滑り込む。生徒指導部の岡先はどこか悔しそう(?)な顔を浮かべながらも早く教室に向かうように急かした。
「楽、お前クラスは?」
「2-Dだよ。」
「一緒じゃん!すげー偶然!てか転入生来るとか全然聞いてねぇんだけど、」
「まぁ高校なんてそんなもんでしょ。....ちょっと、」
急に楽斗がしゃがみ込む。手を掴んでいたため、自分も一緒にしゃがむ形になった。
「どうした?」
「ごめん、あんまり速いからさ。ちょっと酸欠。」
彼の顔は赤く火照っていて、息遣いも少し荒い。またゾクリとする。この感情は一体何なのだろう。彼の白い肌がピンク色に染まるのは今迄見た何よりも綺麗に見えた。
このまま2人でしゃがんでいる訳にもいかないので、楽斗に肩を貸しながら立ち上がる。彼の体重の殆どは自分にかかっている筈なのにあまりに軽くて驚いた。
「ひょろ!そんなんだから酸欠になんだぞ?」
「あはは、相変わらず満は元気だね。」
明るく笑う彼の声はなんだか妙に心地よくて、こっちもつられて笑ってしまった。
彼の艶やかな黒髪が俺の隣で揺れる。
ほんのり甘いような、優しい匂い。長い睫毛。細い首。何を見ても綺麗だ。
「満?」
名前を呼ばれて我に返る。さっきから全く楽斗にみとれてばかりだ。みとれてる?何言ってんだ俺。
一瞬にして巡った考えをなんとか打ち消して、何でもないと誤魔化すと楽斗を連れて教室に向かった。
「はよーっす。」
教室に入ると担任の小田原が仁王立ちでこちらを睨んでいた。時計に目をやれば9時7分でホームルームは既に始まっていたらしい。
気まずい空気の中教室を見渡すとそこは男子校特有の汚さと楽しさが満ちていて、彼らの目線は俺でも小田原でもなく、ただ1人、楽斗に向いていた。
「すみません、初日から。道に迷ってしまって満くんに送っていただいたんです。....滝島楽斗です。どうぞよろしく。」
ざわめく中を動じずに歩いて小田原の前に立った楽斗は甘い声で話す。いつも小言ばかりの小田原が彼に見とれているのはすぐにわかった。勿論、クラスの大半彼に釘付けだったのだから、小田原の視線に気がついているのは俺と楽斗くらいだっただろうが。
楽斗はペコッと頭を下げると二つ並んだ空いている席に流れるように滑らかに歩いていった。
「どっちが満の?」
「左。」
全員の視線が集まっていたため随分素っ気ない返事をする。髪も金髪に染めているし、割と目立つタチなので別に視線など慣れたものだが、今日はどういうわけか緊張した。
ストンと席につく楽斗。彼の席は一番後ろの右端で窓の真横の特等席だ。新品の机に軽く肘をつきながらこちらを向く。
「座んないの?」
甘い声がより一層甘く聞こえるのは多分彼の背景となっている窓の外の桜並木のせいだろう。小さく咳払いをしてなんてことないような顔で自分も席につく。楽斗はからかうような、そんな悪戯な笑みをこぼした。
「ねぇ、満はさ、俺のこと、思い出したんでしょう?」
彼の黒くてキラキラした目が俺を捉える。じっと覗き込むような、そんな彼の視線がくすぐったくて目を逸らした。
「思い出したけど、なんだよ。」
「ならさ、ほら、これ。覚えてる?」
そう言って彼のポケットから取り出されたのは恐竜の骨格の形をした金属製のキーホルダーだ。全くと言っていいほど思い当たる節が無かったため、首を傾げる。楽斗は残念そうにため息をついた。
「へぇ?忘れたんだ。まぁ期待してなかったけど?」
嫌味な言い方にムッとして楽斗を睨む。
「なんだよ、教えろよ。」
「や。自分で考えたらどう?ま、満にとってはその程度のことだったのかも知れないけど。」
その言い方があんまり冷たかったのでこちらも意地になって自分で思い出すことにした。そう言えば楽斗と遊んだ記憶はあっても同じクラスだった記憶等はない。
「あれ?俺たちっていつ知り合ったっけ?」
「....三年生、くらい。」
三年生と言えば確か初めて父親が授業参観に来てくれた気がする。うちは母子家庭でそれまで父親というものを全く知らなかった為、あの授業参観は妙に印象に残っていた。
あれ?楽斗の両親、見たことあったか?
楽斗との事を思い出そうとすると、何処かの紅葉の綺麗な街を思い出す。そこがどこかはわからないけれど、小学生の俺と楽斗はその道をたわいもない会話をしながら歩くのだ。
「紅葉....」
思わず口をついた単語に楽斗の顔が少し歪んだ気がした。だがそれは一瞬で、またすぐに優しい笑顔に戻る。
「懐かしい。いつもの帰り道でしょ?」
帰り道....だったろうか。その後すぐに俺は転校したため、もう昔の家のことはあまり覚えていない。
きょとんとした顔の俺が面白かったのかクスクスと楽斗は笑う。
「なんか面白い。馬鹿な満が悩みこんでるなんてな、知恵熱出すんじゃないよ?」
「あ?馬鹿にすんな阿呆!てかお前だってこの学校来てんだから同じ馬鹿なんだよばーか!!」
「そうだな。なら馬鹿学校の大馬鹿満、てめぇは今なんの最中かもわからないんだなぁ、おい?」
突如耳元で聞こえたドスの利いた声に半分叫びながらも振り返ると、担任の小田原が出席簿片手に睨みつけていた。
「せ....先生、女性がそんな言葉遣い、もてませんよ?」
「余計なお世話だ糞餓鬼馬鹿野郎。てめぇみたいな馬鹿男にもてるくらいならいっそ生涯独身で構わんわ!」
そう怒鳴ると出席簿の角で俺の頭をチョップする。
いくら本気じゃないからって....流石に角で殴られたら痛いですよ先生。
そう心の中で呟きながら口先だけ謝っておいた。楽斗も釣られてペコッっと頭を下げる。
「あ、楽斗くん。君はいいよ。どうせこのアンポンタンに絡まれて困ってたんだろう?な、アンポンタン。」
「糞餓鬼馬鹿野郎の次はアンポンタンですか先生。」
「喋るな。酸素の無駄だ!」
教師のセリフとは思えない発言にクラスから笑いが起こる。楽斗もこらえきれなかったのか、横で盛大に吹いた。
「おい!楽斗!!!」
「は?みんな笑ってんじゃん!ーッく、はははははは!」
「笑い過ぎなんだっての!」
そんなこんなの茶番が続き、気がつけば8時15分の授業開始の金が鳴った。ここは男子校に珍しい芸術系の学校なので一限目は美術。担当は小田原なのできっとこんな雑談で1時間潰れるのだろう。小田原はやばいやばいと言いながら教壇へと戻っていった。
その日の授業は水彩画。いくら馬鹿な不良男子校といえども、授業中はみないくらか真面目で教室はたまに漏れる笑い声と先生の話し声の混じった心地よい空気が流れていた。
「それで、本当は風景画にしようと思っていたんだが、まぁせっかく転入生も来たんだ。人物画にしてもらう。水彩だから少しくらい胡蝶しても面白いし、まぁリアルに描いても構わない。提出は明日の放課後までな。」
小田原の指示で早速作業に取り掛かる。毎年水彩画は風景と決まっていたのでいきなり人物画と言われて戸惑ったが、小田原の理由には一応納得したので黙々と絵の具を用意した。
トントンと軽く肩を叩かれて振り向く。そこにはすまなそうな顔でこちらを見つめる楽斗がいた。
「悪いけど絵の具、貸してもらえる?」
「あぁ、いいよ別に。じゃあさ、その代わり楽斗のこと描いていい?」
特に深い意味もなく言った言葉に楽斗が少し困った表情を浮かべる。
「俺の絵....か....。」
「だめ?」
「だめじゃ無いけど....。わかった。作業しながらになるけど構わない?」
「勿論★」
にっと笑うと彼も嬉しそうに笑う。
ずっと会っていなかった筈なのに、昔の記憶だって殆ど忘れてしまって覚えていないのに、何故か楽斗を見ているとずっと傍にいたような気がする。それはこの温かな雰囲気のせいなのか、それとも何か別のものなのか、けれどそんなことは今はどちらでも良くて、自分の思うままに筆を走らせた。
細い眉。長くてしっとりとした睫毛。真っ黒な瞳。艶やかな髪。白くて細い首筋に、鎖骨。少し撫で肩で遠慮がちに佇み、筆を握る彼。
もっと淡く、儚く。
水で沢山ぼかしをいれて、かなりメルヘンな仕上がりになったソレを眺める。イラストっぽくなったが、今回は制限もなかったので大丈夫だろう。
ふぅと溜息をつくと楽斗が画用紙から目線を上げた。
「どうかした?」
「や、終ったなって。あー、あとまる一時間あんのか。暇だなー。」
「それなら動かないで。俺、あんたをモデルにして描いているんだから。」
「へ??」
いきなりモデルだなんて言われて馬鹿ヅラになる。そういえば楽斗は誰を描いているんだろうとは思っていたが....まさか自分だったとは。いや、普通二人組とかで相手をかくから当たり前だけど。けれど今まで楽斗が自分を見ていたんだと思うと妙に恥ずかしい気持ちになった。
「にやにやすんじゃないよ、凛々しくしてなさい。」
「にやにやとかしてねーし!ふざけんなっ!早くかけよ!」
照れ隠しに怒鳴ると楽斗の髪をわしゃわしゃと撫でる。猫っ毛の彼の髪はサラサラで、フワフワで、ひんやりしていた。
暴れていたからか、楽斗の肘が水差しに当たる。
甲高い大きな音。飛び散る水は絵の具で真っ赤に染まっている。
「楽斗!!!!」
咄嗟に彼の名前を呼んでいた。
妙に心臓の音が響いて頭が痛い。
この景色を....俺は何処かで....見た?
「やめろ!」
低い、唸るような声にはっとする。
目の前には真っ赤な水を被った楽斗が立っていた。
「やめろ、....大丈夫。ジャージかなんか持ってないか?」
今度は大分優しい声だった。彼の目はミステリアスな紫がかった黒で、感情は読み取れなかったがそれ以上その景色について考えようとは思わなかった。
「おら、野郎共、完成したかぁ?」
女性教師とは思えない口調で小田原が問いかける。男子しかいない教室からは気だるげな返事がこだました。
作品を回収するため、皆それぞれ自分の絵を持って立ち上がる。
ひらりとめくれた画用紙。
そこには満面の笑みで幸せそうに絵を描く青年が描かれていた。
「楽斗、お前すげぇな。」
自然と口をついた言葉に楽斗が少し顔を赤らめる。
「見てんじゃないよ、馬鹿。」
「いーじゃん、俺なんでしょ?それ。」
「あぁ、そうだよ。....似てない?」
「いや、似てるけど....なんか自分じゃねぇくらい魅力的。え、俺ってこんなに綺麗?」
巫山戯る俺に目を細めて彼が笑う。
無邪気な、まるで小学生みたいな笑顔。
「満は魅力的だよ。」
そう聞こえたのは気のせいか、けれど聞き返しはしなかった。
教卓に向かう彼の背中は華奢で、けれどバランスがとれていて、差し込む光に溶け込むように輝いていた。
紅葉の中、少年が走っていく。手には何かを握り締めて、浮きだった足で地面を蹴る。
あぁ、これはきっと楽斗。
そう思った途端目の前にさっきの赤い水が散りばめられた。それっきり続きは浮かばない。
疲れたかな、俺。
小さくため息をつくともう一度、彼の背中を見つめた。
男子高校生の一日というのは、長いけれど短くて、気がつけば下校を告げるチャイムが鳴り響いていた。まだ新品のバッグを持った楽斗が話しかけてくるクラスメイトに笑顔で対応しているのを見ると、なんだか面白くなくて、ため息がちに席を立った。
「あ、待ってよ。」
不意に呼び止められてどきっとする。
「俺も帰る。じゃあね、嘉依くん、守くん。」
クラスメイトにさらっと手を振ると俺の肩にトンとぶつかった。
「何拗ねてんのさ。」
「は?拗ねてねぇし。....てかお前家どこだよ。」
「ん、あー、ま、いいじゃない。今日は満の家行かせてよ。久しぶりだし♪」
「あ?まぁ別に良いけど....特におもろいもんもないぜ?」
そう言っても彼はにこにこ笑うだけで、家に行く気満々らしい。彼女が来るとなれば部屋の片付けだなんだと準備が必要なんだろうが、男なら別にそんな気遣いはいらないし、楽斗がそんな事を気にするタイプにも思えないので家に連れていくことにした。
「うわーおっきい家に住んでんだねー」
そう言って楽斗が目を丸くする。
「デカイって....別にこのマンション全部が俺の家ってわけじゃねぇし、1部屋1部屋はそんなでかくねぇよ?」
あんまり期待されても困るので、軽く釘を刺してからマンション内に入った。
俺の家は俗に言う高層マンションで、最上階には何処ぞの社長さん方が住んでいるらしいが、その他の階は持ち家だったり賃貸だったりと疎らだ。俺の家は賃貸でこの高層マンションの豪華さとはかけ離れている。
「こんなに大きいとエレベーターが大変だね。」
そんな感想を述べながらも、家に関する興味は尽きないようで、キョロキョロと辺りを見回していた。
エレベーターは直ぐに25階を指し、あっという間に家に着いた。
毎日暮らしている家の筈なのに、なんだか妙に落ち着かない。楽斗がキョロキョロと忙しなく動いているからだろうか。
親は居らず、リビングでも良かったのだが、楽斗の希望で2人は俺の自室に向かった。
「さて、エロ本を探しましょうか。」
真面目な顔でそんなことを言いながら楽斗が部屋を眺める。
「バカかお前、エロ本なんて持ってねぇよ。」
そうは言うが楽斗は全く話なんて聞かず、ベッドの下なんかを覗き込んでいた。
「んー。なんだか缶がありますねー」
まるで探偵のような口調でそう言うと、ベッドの下に手を伸ばす。缶なんて全く記憶に無かったので俺も一緒にそれを取り出した。
古ぼけたお菓子の缶。表には汚い字で『たからもの』と書かれていた。
「宝物だってよ?」
「知らねぇ。記憶にねぇよ。」
「んじゃ、開けましょうか。」
楽斗は未だふざけた口調でその缶を開ける。そして何か見てはならないものをみたかのように即座に閉じた。
「楽斗?」
「…ん?」
「どうかしたか?」
「や、何でもないよ。…ちょっと驚いただけ。」
意味がわからずに彼から缶をとって中身を覗く。そこには朝、楽斗が見せてきたあの恐竜のキーホルダーがあった。その横には汚い字で書かれた手紙が入っている。
『みつるくんへ』
そう書かれた手紙を開けた。文字はぐちゃぐちゃだが、辛うじて解読できる。
『ぼくも8さいになったよ。あと10年だね。みつるくん、これからもだいすき。』
その時、全てを思い出した。何故忘れてしまっていたのかと不思議に思うほど鮮明に。懐かしさとともに、心臓がドクリと波打つ。
「楽斗、お前…」
「やめよう。」
冷たい声で彼はそう言った。そしてにこっと笑う。
「…昔、プレゼントしたでしょ?」
「10月3日。」
「え?」
「誕生日、おめでとう。」
潤む視界を必死にこらして彼をみてそう呟いた。
18歳の、18歳になる筈だった、彼の誕生日。
『みつるくんは僕より早く18歳になっちゃうから、僕が18歳になるまで、迎えにいくから、待っててね!約束だよ!』
あの日、このキーホルダーと手紙を俺に手渡して、彼は満面の笑みでそう言った。俺は楽斗が大好きで、楽斗も俺が大好きで、小学生だった俺たちは大人になったら結婚したいと、ただそう願っていた。
紅葉の道を彼は楽しそうに走る。そして…。
「思い出してくれたね、約束。」
彼の声は優しかった。
高校生だった姿は溶けるようにしてなくなり、あの頃の楽斗へと変わる。
何も変わらない。
8歳の、あの10月3日のまま。
「18さいになったらけっこんしよって、ぼくからプロポーズするんだって、言ってたよね。」
彼は怒っているんだ。きっと、全てを忘れてしまった俺に。
申し訳なくて、床に項垂れる。
「楽斗、」
彼の名前を呼んでみても、彼は話を止めない。
「ずっと、ずっと悲しかった。みつるくんはぼくをわすれて…キーホルダーも…おぼえてなかった。」
「ごめん、楽斗、」
「でも…もういいんだ。」
水を打ったように、部屋が静まり返った。
恐る恐る顔を上げると、彼は困ったように笑う。
「ほんの少し、みつるくんにイジワルしたかっただけだから。覚えてないのなんて当たり前だよ。…ぼくのたんじょう日だけでよかったから、ぼくを…思い出してほしかった、それだけなんだ。」
彼の頬に涙が伝う。必死に作ってみせる笑顔は涙で歪んで、声は震えていた。
反射的に楽斗を抱きしめていた。
あの日、楽斗を失って、何日も何日も泣き続けた。どうして置いていったのだと、何度もあの事故のあった道路に行っては母親に連れ戻される、その繰り返しだった。そんな行動が祟ったのか、俺は高熱で倒れ、見兼ねた両親は転校を決めた。
いつからだろう、彼を忘れてしまったのは。
あんなに大切な人を忘れていたなんて…俺は最低だ。
「楽斗、ごめんな、おれ、最低だ。本当に、ごめん。」
「あやまらないで。悲しかったけどね、だけど、うれしかったんだ。…笑っているみつるくんが、だいすきだったから。」
「ごめん、ごめんっ、」
「ありがと。最後に思い出してくれて。」
「最後?」
「ぼくは…強くないから…だから1日しかみつるくんには姿をみせられない。…もうちょっと、がんばりたかったんだけどな…みつるくんと…いたかったんだけどな…」
「楽斗、いやだ!行かないで!」
「ごめんね。」
「いやだ!!!」
ギュッと抱きしめていた彼の体はすっと空気に溶けていく。非現実な筈なのに、今はそんな事どうでもよくて、楽斗が消えてしまうことが悲しくて、18にもなったのに泣き叫んでいた。
「みつるくん、ぼくのこと、好きでいてくれる?」
「当たり前だろ!もう二度と忘れねえっ!!」
「…ありがとう。…その言葉だけで充分だよ。…素敵な人と、幸せになってね。」
パキンという音がして、彼の体は消えてしまった。
何も抱きしめるものが無くなった腕は、虚しく空を抱く。
ほんの1日、いや、半日の出来事だったのに。楽斗の存在は大きくて、彼のいなくなった部屋は静かだった。まるで彼は俺の空想の中だけで存在したみたいに、彼が今までここに居たという事実を証明する物は無くて、けれど彼は此処にいた。
俺との約束の為に。
「らく…と…。」
涙でぐちゃぐちゃになった手で、彼から貰った手紙とキーホルダーを握り締める。
急に携帯の着信が鳴った。相手は小田原だ。
鼻をすすりながら電話に出る。
「…はい。」
「おー、満。お前の水彩さ、学年の優秀作品として飾ろうと思うんだが、いいか?」
「…はい。」
「それとさ、ちょっとききてぇことあって、お前の似顔絵、あれ、誰が書いたかわかるか?」
あぁそうか。彼は、やはり彼はこの世の人ではないのかと、分かっていたはずなのにまた涙が溢れてきた。
「…ぃや、…」
「確かー滝島、滝島楽斗って書いてあったんだけどなぁー、誰だか自分の名前もまともに書けねぇのは。」
「俺です。」
「あ?」
「その絵、俺のなんで…明日、もらいます。」
声が震える。
そんな俺に気がついたのだろう。小田原は少し気まずそうに咳払いをした。
「あ?…あぁ、わかった。じゃあ明日な。自分の名前くらいちゃんとかけよ!」
電話を切って、再び静寂が俺を包む。
俺はまた楽斗を忘れてしまうのだろうか。
人はそうやっていくつもの大切な何かを、記憶から零していってしまうのだろうか。
そんなのはどうしようもなく悲しいし、嫌だと思う。せめて、せめて彼の事はもう二度と、忘れたくない。楽斗をもう二度と、一人にしたくない。
零れ落ちた涙を拭くと恐竜のキーホルダーの裏にコンパスで彫った。
『8月3日らくとbirthday』
少しでも忘れないように、そばに居られるように。
流れ行く時間の中で
この不完全な俺たちは
何度過ちを重ね
またそれを忘れ
何度も誰かを傷つけていくのだろう
けれど思い出は
消えてしまった訳ではなくて
心のずっと深いところに仕舞われていると
そう俺は願っている
消せるはずもない大切な記憶は
いつか体の一部となる
生きていこう
生きれなかった明日まで
生きていこう
ずっと先のいつかに向かって
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