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籠の中の鳥は
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大切なものはいつも、俺の手から擦り抜けていってしまう。
まるで浜辺で握りしめた砂が指の間からサラサラと零れるように。呆気なく。
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籠の中の鳥は
side akiyoshi
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俺が15の時だった。
父は弟が生まれたばかりの頃に死んだと母から聞いていた。
残された母が俺と身体が弱くて病気がちの弟を女手ひとつで養い続けてくれた。
あの日も夜勤明けに別のパート先から人が足りないから入れないかと母が帰って来てすぐ電話があった。
電話の音で目を覚ました俺が玄関で一度脱いだ靴を履こうとしている母の背中に声をかけた。
外はまだ薄暗くて、俺や弟を起こすまいとそっと出ていこうとしていた母は薄暗い玄関で電気もつけずに座り込んでいた。
暗い室内に比べ僅かに明るいだけの外の光でかろうじて母の後ろ姿だけがハッキリ見えた。俺の声に振り返った母がどんな表情を浮かべていたのかはわからない。
顔は光を背にしている為か全く見えず、ただ、いつもと同じ穏やかな声で、いってくるね。そう小さく応えてくれたのが、母を見た最後だった。
俺はそのままいつもどおりの母だったことに安心し弟の居る寝床に戻りぐっすりと眠りについた。
昼過ぎお腹が空いたとぐずる幼い弟に簡単なご飯を作っている時、母の居る時しか鳴ることの無い電話が鳴った。
不思議に思いながら出てみると、母ではない大人の声で、息子さん?そう聞かれ、はいそうです、と短く答える。
その時の俺の頭の中は滅多に無い電話に出る機会への緊張と、声変わりの時期だった自分の声は相手にどう聞こえてるだろう、変じゃないだろうか、というようなくだらないことだった気がする。
電話口の女性は少しの間を置いて、お母さんがさっき倒れてね。救急車を呼んだんだけれど、その時にはもう…。彼女の声は途中から震えながら小さくなり、俺は言葉の意味が脳に届いた瞬間持っていた受話器を落としていた。
それからしばらくは何をしていたか覚えていない。
気づいたら家には母の仕事先の上司だという大人が何人か来て。初めて訪れた他人に怯える弟を抱きしめながら俺は部屋の隅で縮こまって。
母は仕事にほとんどの時間を費やしていたし職場では寡黙な人だったらしく、親しい人は居なかったのか訪ねて来たのはその時見た人達が何度かだけだった。
俺は中学3年で、弟はまだ10にも満たない年で。
親戚で唯一、穏やかそうな老夫婦だけが俺達を面倒見ると言ってくれたが、その人達もかなりの年配で互いに介護しつつされつつのような生活だと知っていたから断った。
幸い俺はあと数ヶ月で奨学金制度のある高校に入学が決まっていたし、生活費や病弱な弟の医療費も当面は母の貯蓄で補える程度の額を母は残してくれていた。
俺がアルバイトをして働けるようになるまで、かなり切り詰めてもギリギリの予算だったが、それでもよかった。
弟の病状を知っているからこぞって背を向ける親戚達に頭を下げて回りおこぼれを媚びるよりかずっとマシに思えた。
働けるようになったら勉強の合間にがむしゃらに働いてやる。
弟の面倒も1人で見るんだ。弟はまだ幼い。俺がしっかりしなくては。しばらくはそればかり考えていた気がする。
母の葬儀は少しでも金を残しておきたいと思い、あげなかった。
写真立てに何年か前3人で出かけた際のいつもより少しめかしこんで淡く微笑む母の写真を飾り、線香だけ立てた。
弟は線香の香りが嫌いだと騒いだけれど、それだけはしてあげたくて譲らなかった。
数ヶ月の間は弟と2人静かに過ごした。
通っていた中学校は家庭の事情に考慮し弟が具合を悪くしたこともあり、ほとんど出席しなくともいいと言ってくれた。
必要最低限の出席と卒業式に顔を出し、そうして俺の中学生活は終わりを告げた。
高校の入学式が始まる前にバイト先を決めすぐに仕事を覚えシフトを多く組んで貰うために頼み込んで早いうちから働かせて貰った。
弟は寂しがったが弟にも当然学校がある。具合のいい日は保健室登校でもいいから行くように説得し、少しずつでも以前の生活に戻れるよう努力した。
早朝と学校が終わってからの数時間、そして家で家事をし夕食の支度を終えてからの数時間。とにかくひたすら働いた。働いて働いて働いて。
稼ぐためだけに大なり小なり悪いこともした。嘘もついた。
生きるため。
生活するため。
弟を守るため。
言い訳にする大義名分なんていくらでもあったから。
とにかく自分の力だけで生きてやる。生き抜いてやる。
弟を腫れ物に触れるように見る大人達の助けなんて要らない。
それしか頭に無かった。
高校に思い入れは無かった。ただ奨学金の貰えるいい大学に入学するためのステップとしか思ってもいなかったしその大学ですら俺にとっては更に先の為のステップでしか無かった。
安定した仕事に就いて。弟に最高の治療を受けさせてやりたいからできるだけ高給がいい。
人と関わりたくないから、研究職なんていいかもしれない。
大学に入る少し前から弟の体調はかなり落ち着いていて、俺は少し油断していたのかもしれない。
相変わらず入退院の繰り返しの生活ではあったけど、俺が居る時間には学校で習うはずの勉強を少しずつ教えていたし、空いた時間には一緒に弟の好きな映画を見た。
それまでの過程を思えば穏やか過ぎる程に穏やかな日々。
大学に入学後も弟との関係は好調で、大学での勉強もある教授の講義がとても興味深くて学校生活への意欲も生まれた。バイト先では時給が上がり、何もかもがうまくいき始めたと思えた。
ようやく長年の苦労が報われたんだと。そう浅はかにも俺は信じてしまっていた。
俺の人生に変化が生まれたのは大学2年のこと。
俺の尊敬する教授が主催でサークルを発足するという噂が耳に入った。
サークルと言っても内容は教授の専門分野での研究活動が主体で、学生の道楽的なものというよりはより一層マニアックに学問を追求することを目的としたもので。
サークルなんてチャラチャラした活動に参加する気は全く無かった俺だが教授の側で学べるその環境はまたと無い好機と言えた。
弟との時間や家事の時間を削ることになるのだから弟にはすぐに相談した。もし弟が嫌だと言うのなら、教授の講義だけで満足しようと決めていたから。
でも、弟はサークルに入ることを勧めてくれた。
俺にももっと俺のために何かして欲しいと。
弟の優しさに甘えることにした俺は、サークルに入り、教授に近付けることに浮かれていたと思う。
サークルでの最初の集まりで、隣に腰掛けた学生から声を掛けられた。いつもの自分であれば、恐らく相手はしなかったけれど。このサークルは教授の思想を理解している人間の集いだと思うと、他人に興味なんて持たなかった俺が柄にもなく人と話してみたいと思ってしまったんだ。
あの時佐奈と出会っていなかったら、こういう未来にはならなかったんだろうか。
でも俺は佐奈と出会えたこと、後悔なんてしない。
それが例え大切な人全てを不幸にする出会いだったとしても。
それでも俺は佐奈を愛してる。
この世界の何よりも。
人生のほとんど全てを捧げて来たはずの弟ですら、佐奈の前では意味を成さない程に。
愛してしまったのは 幸福なのか 不幸なのか
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