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懐古の決意
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休日。
俺は叔父夫婦に一言告げると必要最低限の荷物を持って自転車に乗り漸く馴染んできたばかりのこの街を出た。
元々は海外で単身赴任を繰り返す父の元、母親と弟の三人で暮らしてきたのだが母親は病弱な人で、昨年この世を去った。
父と海外で拠点を移しながら生活するのは良くないという親戚達の判断で祖父と二番目の叔父さんが診療所を経営しながら生活するこの街に引き取られたのだ。
俺はここの中堅高校に進学し、弟も小学校に転入した。父は今も俺達の学費や仕送りのため海外で走り回っていてくれている。
大通りを進むと段々と民家が少なくなってきて、聳え立つビルが時折目を引く。見えてきた大きな橋を風を受けながら自転車を漕いだ。隣を自動車が追い越していく中、振り返れば今まで居た街。橋を渡りきればそこは違う市となる。左手には延々と続く群青の海が広がっていて、あそこは沿岸沿いの街だったと再び気づかされた。
そういえば去年は行けなかったが、海水浴場があると叔父が言っていたことを思い出した。もうすぐシーズンだから今年は弟達を連れて行こう。
隣の市の駅まで着くと、駐輪場に自転車を止め、目的地までの切符を買った。あの街にも市営の駅があるのだが、そこから目的地までの乗り換えが面倒だ。
改札を通ってホームで急行が来るのを待つ。考えてみれば電車に乗るのは随分久しぶりだった。
そこから約二時間揺られてついた所は俺が生まれ育った場所だった。見慣れた景色、聞き慣れた喧騒と街の名前。離れてたった一年しか経っていないのにとても懐かしく感じられた。この街は何一つ変わっていない。まるで母がいなくなってしまった事が嘘のようで、このまま住んでた家に帰れるような気がする。
五條達のいる街が海の街だと言うのなら、ここは盆地。山の街だろうか。駅前から遠くに並ぶ山々が見える。
鞄を背負い直すと目的地へ向けて歩を進めた。小学生から高校に入るまで剣道を習っていた俺は、再びその懐かしい道場の外観を見ることができてようやく息をつく。
道場のある大きな屋敷の前で出迎えてくれたのは恩師だ。白髪を後ろに撫でつけ、優しくも厳しい瞳は今も変わらない。お元気そうで何よりだ。剣道着を着た先生は組んでいた腕を解き袖から手を出して俺の肩をとん、と叩く。
「よく来たな」
「お久しぶりです。すいません、いきなり」
「構わんよ」
「老人は他にやることが無いからなあ」と皺だらけの顔が笑みで更に深まる。昨日突然「久しぶりに稽古をつけてください」と電話をした俺を快く引き受けてくれた先生は、年季の入ってギシギシと床の鳴る道場へと向かった。普段は夕刻から稽古が始まるここには今は他に生徒はいない。
木戸を開けて道場の中に入るとそこには一人の男が中央に座って居た。目が合うと、するりと立ち上がってこちらへ歩み寄ってくる。懐かしい面影が自分の記憶を擽った。
「やぁ、久しぶり」
「文月さん」
彼は先生の息子で俺に剣道を教えてくれた一人だ。ふわりと茶色い髪を揺らして眼鏡の奥で特徴的に微笑む彼は相変わらずだ。
「今日はお仕事は?…」
「もちろん休みだよ。久しぶりに直人くんに会えるって聞いて来ちゃった。また背が伸びたねえ」
「今日はこいつに相手してもらうといい」
先生は道場の電気をつけながら、彼を顎でしゃくった。んふふ、と肩を竦めて笑う師範代は「着替えておいで」と更衣室の方を指してくれた。
準備を終えると稽古着の襟を正して二人の向かいに座り、電話で伝えきれなかった事を含めもう一度大まかに話すことになった。
「この間、初めて素手の男に手も足も出ず負けました」
先生は真っ直ぐ俺を見たまま頷く。まだ取れぬ包帯が覆う腕の傷を無意識に触ってしまった。俺の仕草に先生は僅かに目を細めた。
もう、同じ目には合いたくない。そう言い切って俯いてしまう。
「剣道には剣道の理念・道理と流儀がある。段位は強さと共にどれだけそれを理解したのかという証じゃ。本来ならばそのような争いに交わる為の剣ではない。しかし責任を取りたいというのなら仕方あるまい」
厳かに話始めた先生に思わず息を呑んで続きを待つ。今の俺にしかできない事、その答えがここにあるのだから。
「力を振りかざしてばかりで学ぼうとせん者に道理を理解させろとは言わん。口で言って分からぬ敵ならば体で流儀を分からせるまでだ。しかし決して必要以上に相手を傷つけてはならんぞ。その一線を越えてしまえば、お前はお前が敵だと思っている相手と同類になる。分かるな?」
頷けば先生の険しい表情がいくらか和らいだ。
「護るために強くなりたいか」
「はい」
その為に再びここへ来た。ただ鍛える事だけを考えていたあの頃とは違う。
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