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流血の十時
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三ヶ月の講座も終了した、金曜日の夜、僕は仕事から帰って、玄関脇のキッチンで、自炊した夕食の片付けをしていた。
十時を少しまわっていた。
弓弦さんは、帰りが遅くなることもあったので、心配していたわけではなかったけれど、いつ帰ってくるのか、僕は気になっていたから、足音が聞こえ、ドアの鍵が開く音がした時すぐ、僕は手を拭いて、玄関へ行った。
ドアを開けて入って来た瞬間、弓弦さんは玄関の内側に倒れ込んだ。
弓弦さんは左肩の辺りを右手で押さえたまま玄関に踏み込むと、僕が支えようとする間もなく、上がり框に膝をついた。
「どうしたの?」
僕は、最初、弓弦さんが酔っているのかと思った。
それでも、今まで、酔いつぶれて帰ってきたことなど一度もなかったから、驚いて、手を貸そうと、かがみこんだ。
「あっ」
抱え上げようと、弓弦さんを覗き込むようにした時、僕は思わず声をあげた。
鎖骨のあたりを押さえつけた弓弦さんの、手の指のすき間から、押さえきれない鮮血が湧き出し、たらたらと手の甲を舐めていた。
うつむいた弓弦さんの顔面は、蒼白だった。
弓弦さんの、チャコールグレーのスーツの上着は、血液を含んで漆黒になっていた。
見たこともない大量の出血に、僕は、恐怖で気が動転して倒れそうになりながら、やっとのことで言った。
「救急車」
弓弦さんが手のひらを泳がせて、僕を引き止めるようなしぐさをしたが、僕は、無視して、這うように居間へ行き、ローチェストの上にある電話をつかんだ。
「110番?」
僕は、混乱して、緊張で、のどが締め付けられて、いやに甲高くなった声で弓弦さんに向かって聞いた。
「違う」
弓弦さんは低い声で答えた。
「あっ、199?」
なおも混乱する僕の間違いを、弓弦さんは冷静に正した。
「119番」
「本当? 1、1、9?」
ボタンを押すと、すぐに応答があり僕は答えた。
「救急です。場所は……」
電話をかけ終わると、僕は、電話を戻し、チェストの引き出しをあけた。
タオルと、救急箱の中からガーゼを取り出すと、玄関に戻り、弓弦さんの傷口に当てて圧迫した。
「何があったの?」
僕は、弓弦さんが、何か事件に巻き込まれたのではないかと思い、尋ねた。
「110番通報しなくていいの? 電話しようか?」
僕は、通報したほうが、いいように思った。こんなにひどく出血しているなんて、誰かに刺された傷のように思えたからだった。
「しなくていい」
弓弦さんは、力のない声で答えた。
「どうして? 相手がいることなら通報しなくちゃ」
単なる単独の事故なのだろうか?
とてもそうとは思えない。流血するほど傷を負っているのに、おかしいと思った。
「貴方は、こんなにひどく傷ついているのに?」
僕は、非常識な弓弦さんに対して怒って言った。
弓弦さんは、うつろな目を閉じて答えた。
「言いたくないんだ」
僕は、恐怖と悲しみと驚きと怒り、不安感、そしてどこかに沸き起こる弓弦さんへの、一抹の不信感に怯えながら、弓弦さんの傷口を、必死に押さえた。
弓弦さんの生命そのもののように迸り流れ出た真紅。
弓弦さんのいつも暖かい手が、死人のように冷たくなっていたのが、一層僕の不安を煽り、完全に僕は動揺しきっていた。
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