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遠き日のすれ違い
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直輝の射抜くような瞳に狼狽えてしまう。
「何も、ないよ。いつもと何も変わらない」
思いの丈をぶちまけることは簡単だ。せり上がってくる凶器にも似た科白を直輝にぶつければいいのだから。
でもそれは本当に望むことではない。
直輝に無理を強いてまで離れるなとは縋れないからだ。
「だったらこの傷は? 転んだなんて嘘だろ?」
「いッ」
あの日の傷痕は見るからに痛々しく今も熱を持っている。触れられるとピリッとした痛みが走った。だが直輝の手が頬を優しく撫であげた時はそれとはまた別の、外傷的な熱とは違う熱が走り困惑する。
「あ、あのさ! 触らないで……まだ痛いから」
「怒ってる?」
「……」
「話もしたくない?」
やんわりと手を押しどけて距離をとる。後ずさる祥を見つめた直輝は捨てられた犬のようにこちら見つめて問いかけてくる。
あんまりにも悄然としているものだから、祥の中の怒りが沈下していく。戸惑いのなかで、振り絞るように答えた。
「……怒ってないよ、ただ……。なんでもない」
怒っているのではなくて、ただ悲しいだけなのだとは言えなかった。直輝に触れられた頬がジリジリと身を焦がすような熱を全身へと広げていく。
不思議な刺激に祥はつい意識が逸れた。
この感覚はなんなのだろう。どくどくと心臓が高鳴るのは何故なのだろう。
「祥、俺のこと見るのも嫌になった?」
「は?」
「傷つけたから、もう俺と目も合わせたくない?」
「いや、何言ってるの」
ぼんやりと意識を逸らしていたら直輝の声音がみるみるうちに弱まる。小さくて振り絞るよな痛々しさ。
祥は慌てて直輝の手を取った。
「違うって! ただ困っただけで」
「ッ、」
「いや、だからっ」
困ったのは直輝を嫌いになっただとかそういうことではなくて、胸が苦しいことを説明するために伝えた言葉だった。
けれど受け取った直輝と祥の解釈に齟齬が生まれたのか、酷く傷ついた顔を隠すように俯かせてしまう。
慌てて言い募る祥だけれど、直輝は何を悔やんでいるのか一向に反応を返してくれない。
逡巡したのち、祥は一歩を踏み出した。
「直輝言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれた方が俺もすっきりする。聖夜とのこと本当は聞いてた。それよりも前から直輝が俺を鬱陶しいと思ってたことは気づいてた。何が原因で直輝に嫌われたのかわからないし、今だって直輝が何を考えてるのか全くわからない」
祥の真っ直ぐな瞳と直輝の憔悴した瞳が重なる。
「でも俺は、やっぱり直輝が好きだから……嫌われても、俺にとって直輝が大切な人なのは変わらない」
「……」
「……我儘いうけど、直輝とずっと、俺は友達でいたいよ」
「ッ、祥」
「え」
言うべきか迷った本心を先に零したのは祥だった。
黙っていた直輝が全てを伝えるのと同時に祥に腕を伸ばして抱きしめる。
孤独から這い出すために子供が親へとひっしに腕を伸ばしている姿に見えた。直輝の肩口へと額を寄せる時、一瞬だけ見えた直輝の横顔に涙が伝っていたきがした。
夜の闇に包まれた中で直輝の頬が濡れているように見えた。
「好きだよ」
「え?」
「全部、ごめん。違うんだ。嫌いなんかじゃない。本当は……ほんとうは、俺だって祥のこと」
「……」
「怪我なんてさせてごめん……守れなくて、ッ、傍にいなくて、悪かった」
痛いぐらい抱きしめてくる直輝が酷く頼りなく思えた。
いつも堂々としている彼とは思えない姿に声が詰まる。何か言ってやりたいのに何も言葉が浮かばない。
このままでいたら直輝は本当にどこかへ行ってしまうのではないか。
祥は言い知れぬ不安を掻き消すように、思わず直輝の背中へと手を伸ばした。
直輝の自分とは違う鍛えられた体が震えた気がした。
「祥のこと、好きだよ」
「えっと、あの……無理して言ってるなら」
「違う!」
「じゃあ、どうしてそんなに苦しそうに言うの?」
「……言えない。でも嫌いなんて言葉はただの八つ当たりだ」
直輝の顔を見ていたらなんだかどうしようもなく泣き出したくなった。じゅくじゅくと胸が痛む。直輝はきっと今我慢している。
けっして心の裏側をみせない直輝が遠い。ふれてるのに直輝の心はずっと遠くで独りぼっちなのだろうか。
(一体何を我慢しているの? 何に傷ついているの? 俺は、やっぱり邪魔なのかな)
「……もし邪魔なら、そう言って」
「邪魔じゃない」
「鬱陶しいなら、離れるよ」
「違う……傍に居て欲しいし、俺も、祥の隣にいたい」
長年の情や慈悲からくる好意であればこれ以上甘えたくはない。
だから離れるなんて口にもしたくなかった科白を吐き出したのに、直輝は再び祥を抱き寄せて遮る。
直輝がこんなにもくずおれてしまう理由に検討がつかなかった。その中で導いた答えは、幼馴染みという関係をほんとうは終わらせたいのではないかというもの。
だが直輝は抱きしめた祥を引きはがすと、痛いぐらいに細い肩を掴み顔を見つめて否定する。
「許せないかもしれないけど、信じられないかもしれないけど、祥のことを嫌いになるわけがない」
「……」
必死な思いは伝わってくる。でもそれならばなぜ、あんなことを言ったのだろう。どうしてあんな態度を取ったのだろう。
聞きたいことは幾つもあった。
けれど口に出せた言葉はたったの一つだけだった。
「俺もだよ」
するりと零れたのは、儚い笑みと嘘一つない言葉。
「俺だって、何されても直輝のこと嫌いになる日なんて来ないもの」
「──ッ」
だから本当は欲を言えば教えて欲しい。一体何に傷ついているのかを。けれどきっと、直輝の傷を癒せるのは自分ではないのだろう。
だから代わりに。聞くことは出来ないから、黙って隣にいよう。いつか聞ける日まで。
祥は直輝の手を優しく包んだ。
「直輝は何も悪くないよ」
「ちがう」
「違わないよ。直輝は悪くない。だからそんなに泣きそうな顔しないでよ。直輝には似合わないからさ」
「……ッ」
彼はいつだって余裕綽々で自由な人だ。誰に従うこともなければ、誰かを縛ることもない。本人が思うよりも慈悲深く、冷たいなかに深い愛情をもつ人間だ。
癒すように柔らかな亜麻色の髪を撫でる。直輝は泣きだしそうな顔を隠すように祥の肩口に顔を押し付けた。
「……俺たち今ので仲直りできた?」
「……」
こくん、直輝の頭が頷く。
「じゃあもう、俺のこと嫌いじゃなくなった?」
「…………」
こくこくと、直輝が頷く。
最後の質問はほんの少しの意地悪だ。
ちょっとばかし弱った直輝が可愛くて、子供のように思えて、その頭を抱きしめる。
「よかった」
「……祥」
「なに?」
僅かに顔をあげた直輝がこちらを見つめる。
耳の裏が微かに熱くなったように思えたのは、直輝の体温が普段よりも高いからなのだろうか。
「好きだよ」
「うん、俺も」
聞きなれた直輝の科白に、いつもと変わらない返事をした。その一瞬を秋の夜風が2人を包む。流れた雲が月を覆った。暗闇が静かに覆いかぶさる。
二人を照らしていた月光が消えゆくなかで、直輝は諦めたように笑ったような気がした。
「なお──」
その寂しげな表情が引っかかって、思わず直輝の名前を呼んだ。けれどすれ違った心を絡めるように夜風が舞い上がり遮った。
絡まりあった二人の糸が解けるには、もう少し先を歩いた時に出会う吹きめくる風だということを、この時はまだ知らなかった。
* * * *
翌日からは本当の意味で静寂が訪れた。
左隣には直輝がいて、右隣には聖夜がいる。
斜め先を行く聖夜の考えを、冷めた瞳で一蹴する直輝。その二人の間で穏やかに柔らかく祥がいた。
こうして変わらない日常を穏やかに過ごせるのだと理由もなく信じていた祥に再び影がさしたのは、そう時間はかからなかった。
「今度は天使のでもしゃぶってんのかよ? 淫売野郎」
橋下が通りざまに吐いた嘲弄を拾ったのは、祥だけではなく直輝もだった。
隣にたつ直輝から言い知れぬ殺気がたつ。危機を感じた祥が止めるよりも早く、直輝の手が橋下の胸ぐらをつかみあげた。
「おい、お前今なんて言ったんだ?」
「あ? てめぇには関係ねーよ。離せ」
「いま、なんて言った? 祥に何をした?」
ガツッと音をたてて橋下の身が壁へと叩きつけられる。痛みに呻く声も掻き消すように、直輝の怒りは膨れ上がった。
「痛てぇなッ! 離せって言ってんだろうがッ」
「答えろよ。離して欲しいなら黙ってさっさと答えろ」
「ハッ、女の尻追いかけることしか脳のないてめぇも、男のものをしゃぶってよろこぶあいつもお似合いだなァ?」
「──ッ」
直輝と祥の息をのむ音が重なる。
止めなければと思った時には橋下の鳩尾に直輝の膝がめり込んでいた。
「な、直輝ッ! やめて、やめろってばッ! なおきっ!」
祥のくちから悲痛な叫びがあがる。
静止の声など届いていない。切れ長の双眸は切り裂く刃のように橋下だけを見下ろし突き刺している。
直輝の固く握り締められた拳は骨を削りとるように柔らかな肉へと叩き込まれた。
「ゲホッ、ゔ、ッアぁ!」
「なにをした……? 祥に、何したんだッ!」
「っひ、ぅ」
殴られて吹き飛んだ橋下の体を、直輝が馬乗りになり押さえつける。たらりと流れ落ちた橋下の鼻血が直輝の肌を濡らした。夜叉のように腕を振るいあげる直輝の怒りに肌がビリビリと震えて足が竦む。
意識が朦朧としている橋下の胸ぐらを掴みあげて揺さぶる直輝の目は怒りにより真っ赤に染まっていた。
「なおき、なおき……っ! やめ、て、やめて直輝」
「祥ッ! 離せッ!」
「いやだッ!」
このままでは橋下が死んでしまう。そしたら直輝は──
廊下での乱闘に周りのクラスメイトは悲鳴をあげて職員室へと駆け出した。何事かと騒ぎを嗅ぎつけ、廊下へと野次馬が群がる。
けれど誰一人として、手を差し伸べてくれる者はいなかった。
「おい! 何してんだ直輝! 祥ッ、お前も離れろッ!」
「聖夜……でも、直輝が」
教師よりもひと足早くクラスメイトに呼び出された聖夜が、顔を青ざめて怒り狂う直輝の腕へと飛びついた。流れ弾のように殴られようとも巻き込まれようとも構わなかった。
直輝を止めなければという考えが脳裏を占める。
祥と聖夜、二人の力にも負けぬ勢いで橋下から離れまいと暴れる直輝を沈めたのは、漸く現れた教師も手伝ってのことだった。
真っ赤な血が直輝の肌を染める姿はまるで地獄に佇む獣のようだった。
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