アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
1
-
笑顔で、感謝の気持ちを込めて精一杯のおもてなしをする。
「ありがとうございました!」
「お世話になりました。とても良い旅館だったわ」
「また来るよ」
そう言って笑顔で手を振る老夫婦達を見送り、慌ただしく館内へ戻ると部屋の掃除を始める。
「圭くん!」
「はい!」
僕は大きな声で答えると部屋を出て急いでその声の方へ走った。
ここに来てもう三年が経った。忙しい日々だけれど毎日が充実している。
でも僕は失ってしまった。
誰かを思い、その誰かを愛する事を、その感情から生まれる喜びや幸せを、忘れてしまった。
どれだけ一緒にいても、もっともっとと相手を求めて、愛を伝えそして与えられてきた。
僕には彼しかいない。彼は、大切な人達を喪いずっと一人で殻に閉じこもっていた僕を見つけ、抱き締めてくれた。
「お前だけをずっと愛しているから、お前も俺だけを愛していてくれ」
最愛の恋人の言葉に笑顔で頷き、指切りをした。お互いの薬指にはお揃いの指輪がはめられていて、毎日一緒に眠って、抱き合って、そんな幸せな日々がこの先もずっと続いて行くのだと思っていた。
でもいつの頃からか、恋人との関係は変わってしまった。
「今日は、一緒に寝ませんか?」
「まだ仕事が残っているんだ。今日も書斎で寝るよ」
一緒に眠る事は無くなった。恋人は自分の書斎で眠るようになった。顔を合わせても、声を掛ける事を躊躇う程に疲れていて、不機嫌だった。僕はあまりの変化にどうすればいいのか、分からなかった。
恋人は、優秀で、見た目も格好良くて、銀縁の眼鏡フレームがよく似合う。社内では一緒にいる時と違って、とても冷静で厳しく、上司にだって言いにくい事もはっきりと言う。部長という立場のある人だしここ最近確かに忙しそうだった。無力な僕は恋人の負担が減るように、少しでも休めるようにと、自分の仕事や家事をしっかりとこなす事しか出来なかった。
ある日社内を歩いていると、休憩所から大きな話し声が聞こえた。
「部長、取引先の専務の娘さんに気に入られているらしいよ」
「是非って見合いを申し込まれているらしいけれど、どうするんだろうね」
「受けるに決まっているでしょう!断ろうものなら取引停止されそうだって」
女子社員の声は嫌でも僕の耳に届いて、それが一体誰の事なのかも簡単に分かってしまった。
「でも部長さ、恋人いるよね?前に飲み会で指輪はめているのを見てね、あの部長が恋人とお揃いなんだって嬉しそうに教えてくれたの」
「その相手の人は可哀想だけれど、この先を考えるのなら、ねえ」
楽しそうにそう話す女子社員の横を足早に通り過ぎる。知らない、何も聞いていない、ずっと一緒にいるって約束をしたんだ、僕は信じていたかった。
帰宅の途中で信号待ちをしていた僕は車道で同じく信号待ちをしている車をふと見た。
「…え?」
車内に居たのは、長いロングヘアーの綺麗な女性と、僕の恋人だった。そして信号が青になり車は行ってしまった。すぐ側に居た僕に気付く事もなく、二人はとても楽しそうに笑い合っていた。僕は緩く首を振ると、ゆっくりと家へと帰った。
僕はスーツのままリビングの床に座ったまま動けなくなってしまった。頭の中でどんなに否定しても、消そうとしても、何度も何度も思い出す。どれ程そうしていたのか、玄関のドアが開く音がした。足音が近付き、そして止まる。
「…何をしているんだ?」
僕は振り向く事も出来ず、お帰りなさいと言う事も出来ない。僕の様子がおかしい事に気付いたのか、恋人は傍まで来るとしゃがみ込み僕の顔を覗いた。
「一体、どうしたんだ?」
僕はやっと恋人に顔を向けると、笑みを浮かべた。
「…僕の事を、まだ愛してくれていますか?」
恋人が息を呑んだのが分かった。
「何を言っているんだ。体調が悪いわけではなさそうだな。俺はもう寝る」
早口でそう言うと恋人は書斎に入ってしまった。
予感はあった。
恋人の薬指にはもう指輪は無かった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
1 / 11