アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
4
-
日向の背負い投げが効いたのか、陽が沈む頃になっても背中の痛みが中々引かず、おれは泣く泣くある者の部屋をたずねた。
中に呼びかけると、そうっと開いたふすまの隙間から、びっくりしたような顔がのぞいた。
「で……殿下!?」
「すまないが、入ってもいいか」
彼はとびあがってふすまを開くと、脇に避けて、心底困ったように頭を垂れた。
「お、恐れ多くも、殿下自らおいでになられる必要はございませんと、枸々(くく)は毎度、毎度、申しております……」
肩から胸の前に落ちた濃い灰色の髪はきっちりと編まれており、この男の几帳面さを感じさせる。灰髪の先端は濃い緑の色。透き通った薄緑の眸はここからは見えないが、きっとおどおどと揺れているのだろう。
「まあ、そう言うな。いつものことではないか」
「で、ですから……」
「背中を診てもらいたいのだが」
枸々は弾かれたように顔を上げた。
「お怪我を!?」
「いや、傷はないと思うのだが……
まあ、とりあえず診てくれ」
背中を向け、衣の合わせを緩める。
自分で肩から落とそうとしたのだが、枸々の手に止められた。
「お願いですから、殿下、もっと我々を頼ってくださいませ……
でないと、わたしの立場もございませぬ」
泣き出しそうな声に、思わず苦笑した。
「いつも煩わせてすまないな、枸々」
枸々は唸るような声を上げたが、それ以上はなにも言わなかった。
言っても無意味だと諦めたのだろう。
しかし、そっと肩にかかる布を下ろしてみて、枸々はいっそう低い唸り声を上げた。
「殿下……」
「どうした?」
深く息を吸いこみ、吐き出す音。
一瞬怒鳴られるのかと思ったが、枸々はなにも言わずに、おれの背中にそっと触れた。
「いったい、なにをどうしたら、こんなにまんべんなく青痣ができるのです」
「痣になっているか。なるほど、だから痛みが引かなかったのだな」
納得して頷くおれの後ろで、枸々はまた震える息を吐き出していた。
一旦離れて、文机の引き出しからなにか取り出すと、また背中側に座った。
「これでは睡眠に支障をきたしますので、恐れながら、術による治療を施させていただきます」
「治してくれるのか」
「……それがわたくしの役目でございます」
か細く震える声は頼りないが、その中にまっすぐ通る芯の強さがある。
これは、そういう男なのだ。
枸々は引き出しから持ってきた小さな壺に指を入れると、ツンとする匂いを放つねっとりとした液体を、慎重に背中に塗布していった。
「痛むかもしれませんが、ご辛抱いたしませ」
「ああ、それはいいが……
やはり何度嗅いでも、この匂いには慣れないな」
「一口に術を使うと申しましても、魔法のようになにもないところから傷を癒すことはできませぬ。
両手に塗るだけでも治療は可能ですが、確実に治すには、患部にもしっかりと薬を使う必要があるのです」
おれは頷いて、おとなしく枸々に身を委ねた。
薬を塗り終えると、枸々は両手にもたっぷりと擦り合わせ、深呼吸してから手を背中にかざし、なにかつぶやきながら、背中をさするような動作をゆっくりと繰り返す。
触れてもいないのに、そこからじわじわと痺れるような熱が広がっていくのを感じた。
しばらくして熱が引くと、枸々は荒く息を吐いて、額に玉のように浮かんだ汗をぬぐった。
「……終わったのか?」
控えめに聞くと、枸々は疲れ切った声で、はい、と答えた。
手ぬぐいで背中に残った薬を丁寧に拭き取り、元どおりに衣を着せた。
おれは立ち上がって、からだを捻ったり、背中を反らせたりして、痛みがないことを確かめてから、青白い顔でうなだれている枸々の手を取った。
「いやあ、おまえは本当にすごい!
すっかり痛みが引いてしまった。すばらしい。すばらしい治癒術だ」
感謝を込めて握った手を両手で包む。枸々は疲れた顔をしながらも、薄緑の目に微かに光を宿して笑った。
「身に余るお言葉、ありがとうございます。
ですが、殿下、どうか御身をもっと大切になさってくださいませ。
あまりお怪我を召されませんよう……」
「そうだな。いつもおまえに頼ってばかりで、おれは情けない男だ」
枸々はゆっくりとかぶりを振った。
「いいえ、殿下。殿下はどんどん立派におなりでございます。
そして、わたしはむしろ、殿下のためにこの力を存分にふるえることをとても喜ばしく思っているのです。
ただ……枸々は、殿下が、殿下ご自身が、御身の尊さを自覚しておられないことが、どうにも哀しくてなりませぬ。
どうか、お願いいたします、殿下。
殿下のおからだは、もう殿下お一人のものではないのですから……」
それは枸々の心からの言葉だった。
おれは曖昧に笑って、枸々の顔を覗きこんだ。
「そこまで、おれの身を気にかけてくれるのはありがたいが、枸々……おれはな、正直、おれのからだなんぞはどうなってもよいと思っている」
ハッと顔を上げた枸々の目には、縋り付くような色が浮かんでいた。
おれはそっと枸々の肩に手を置いた。
「もちろん、傷は痛いから、できれば傷は負いたくない。それ故いつも枸々に頼ってしまうし、おまえの完璧な仕事を目の当たりにするたび、おまえがおれのそばにいてくれて、おれは本当に果報者だと思うのだ。
……だが、傷付くことに怯えていては、おれはきっと、一歩も前に踏み出せぬ。
おれは、おれが傷付くことに怯えて、得られたはずのものを得られなくなってしまうことがつらい。怪我を負うよりも、その方がはるかにつらいのだ。
おまえは、おれが自ら怪我をしにいっているような言い方をするが、これまでしたくてした怪我など一つもなかったぞ。
……なぁ、わかってくれるか、枸々」
優しく諭すでなく、枸々を気遣うような声で話す青年の面影が、これまでになく大人びて見えた。
これで、十二も歳下だとは、思慮に欠けた己の言動を恥じたくもなる。
枸々は沁み出してきた涙を隠すように、頭を下げた。
それがいまの精一杯だった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
4 / 24