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──志野は目を閉じ、彫像のようにあぐらをかいて座っていた。
いつから汗が出なくなっただろうか。からだの中にひどく冷え冷えとした寒さが広がり、痛いくらいだった。
視界を閉ざしているからか、他の感覚が研ぎ澄まされているのがわかる。
天井を這う小動物の足音、床板が軋む音、微かに、社の外から伝わる振動、ピリピリと肌を刺す空気……
この社には遮るものがなにもなかった。どこまでも静謐で澄んでいる。なにも食べず、飲まずに過ごすうちに、からだの中の不浄なものが次第にそそがれていくような気さえした。
事実、栄養を摂っていないにも関わらず、からだを侵していた病は少しずつ治まってきている。
ただ、内側から襲う寒気と体力の衰えは、抑えようがないものだった。
もう、どのほどの刻が経ったのかもわからない。今が朝なのか、夜なのか。天気はよいのか、わるいのか。
そんなことを考えている余裕は、気付いたらなくなっていた。
話すことも考えることも忘れてしまったように、彼は、ただただ、そこに座っていた。
……そして、社の外で太陽がてっぺんに腰を下ろしたころ、志野は眠るように気を失った。
──志野が気を失うのと入れ替わるように、野営場所では昨夜の青年が目を覚ましていた。
彼は身を起こすことすらもままならなかったが、目には驚くほどはっきりとした輝きがあった。
陽の下で見ると、襟足が肩甲骨まである、染め抜いた髪の鮮やかな蜜柑色が目に眩しい。眸は、獣姿のときとは違い、橙みのある灰色だった。彼は自身を李雨(りう)と名乗ると、芒と、それから春臣の顔を見て謝った。
「──昨夜は、襲いかかったりして悪かった。
どうしてもお腹がすいて、がまんできなくて……」
口の中でもごもごと言ってから、李雨は慌てて付け加えた。
「でもおれ、ふだん人なんて食べたりしないんだ、嘘じゃないぜ!?
今回のはちょっと魔がさしただけで、そのぉ」
芒は穏やかに笑って、咳き込みそうな勢いで話す彼を押しとどめた。
「わかった、わかった。
はなしは後にしよう。はらがへっているんだろう?」
李雨はパッと目を上げた。痩せてくぼんでいるせいか、白に近い色のくっきりとした目だけが、やけに大きく見えた。
春臣がすりおろした芋の、甘くとろりとした汁物の器を渡してやると、李雨はごくりとつばを飲み食い入るように器を見つめてから、芒の顔をちらっと見た。
「遠慮しないで、お食べなさい。
しばらく食べ物を口にしていないようだし、胃を刺激しないように、少しずつ、ゆっくり食べるんだよ」
芒の言葉に深く頷いて、彼は言われた通りに、一口ずつ、慎重に、汁物を口に含んだ。
そうしているうちに、李雨の目には涙の粒が浮き上がってきて、ぽろぽろと頰を伝って落ちていった。
「……こんなに、うまいものを食ったのは、ひさびさだ」
李雨は器を両手に抱えながら、震える声で言った。
芋の汁物を最後の一滴まで大切そうに飲むと、彼は腹の骨折に気を付けながら、芒たちに向かって頭を下げた。
「ありがとう。ほんとうに……おれを生かしてくれて……」
芒は微笑んで、青年の顔を覗き込んだ。
「きみがわたしたちに襲いかかったのも、わたしたちがきみを殺さなかったのも、きっと、偶然じゃない。
わたしは、きみに出逢えて嬉しいよ」
李雨は濡れた目をまたたいて、芒を見つめた。
「……おれはあんたたちを、喰おうとしたのに?」
芒は軽く声を上げて笑った。
「こちらだって手ひどいことをしたんだから、お互いさまだ」
腹の骨が折れたことを指して言うと、李雨は苦い表情で笑った。
「自業自得だ、こんなの。
それに、骨なんてしょっちゅう折れてたから、慣れてる」
芒は笑みをおさめて、李雨を見た。
「それは、変化の術の影響なのかい?」
「ん……まあ、だいたい。
こう、骨の変形の過程で、うまくやわらかくできないと、負荷がかかってポキッと……」
芒の後ろに控えている春臣が、ちょっと顔をしかめた。
「まぁ、もうコツはつかんだし」
笑って言う青年に、芒は感心したような顔で頷いた。
「変化の術を使った術者は、どれほどの手練の者も、ことごとく破滅してきたと聞く。
きみのように、完璧に使いこなせる人間がいるなんて、夢にも思わなかった。
李雨の周りには、きみのように変化の術を使える者がいたのかい?」
李雨は首を横に振った。
「おれだけだった。
さいしょはさ、出来心だったんだ。そんなにあぶない術だなんて思わなかったし……死んだ父さんが術式の本をたくさんもっててさ、家を移るとき、何冊か抜いて、ぼろぼろになるまで夢中になって読んでた。
そのうち、術を試してみたくなってさ。覚えたとおりにやってみたら、これが、すげぇうまくいっちまって。
調子に乗って、危険だからやったらだめだって母さんに言われてた術式にも、手を出してみたくなった。
そのひとつが変化の術だった」
李雨は苦笑した。
「はじめてやったときは、最悪だったぜ。
あばらと、うでの骨が折れて、肉ばなれもひどかった。母さんが気付いて手当てしてくれて、しばらくは獣の姿のまま過ごした」
「でも、変化の術自体は成功したんだね」
「うん……、ってて」
李雨が顔をしかめて呻く。身じろいだせいで、腹が痛んだらしい。
芒は慌てて彼を寝かせてやった。
「ごめん、きみはけが人なのに、無理をさせてしまったね。
次はもっと食べごたえのあるものを食べさせてあげるから、いまはゆっくり休んで少しでも治しなさい。
今日になるか、明日になるか、我々もずっとここに留まっていられるわけではないから」
そう言うと、李雨は縋るような目で芒を見上げた。
「行っちゃうのか」
芒はそっと微笑んだ。
「わたしたちは、大切なひとの帰りを待ってる。
そのひとが戻ってきたら、行かなくちゃ」
「なら、おれも連れていって」
芒は最初からそのつもりだったが、李雨が即座にそう言ったことに少し驚いた。
「……きみは、ようやく自由の身になったのに。
わたしたちと一緒にいたら、たいへんなことに巻き込まれるかもしれないよ。
それでも、一緒に来るかい?」
李雨は大きな目で芒を見つめながら、きっぱりと頷いた。
「べつに、そんなことどうだっていい。
あんたらはおれをどうにでもしていいんだ。一緒に行ったって、お荷物になるだけだし、あんたらにはなんの得もないんだから。
でも、おれは」
言いながら、芒の衣のそでを掴む。
「おれは、あんたらに置いてかれたら、またひとりになっちまう。
ひとりでいるのは寂しい。怪我して痛かったり、おなかがへってると、もっとつらい。
ひとりきりで、誰にもかまってもらえないのが自由なら、そんなもの、おれはほしくない」
強い光をたたえる目に、何度目かの涙が浮き上がる。
芒はなんだか切なくなって、身をかがめると、李雨の頭をそっと抱き寄せた。
「怪我をしたきみをこんなところに置いて行ったりはしないよ。わたしが主人にお願いして、きみを屋敷につれて帰るから。
そのあとのことは、きみの好きにするといい。
……そう、言おうと思ってたんだけど」
芒は笑って、蜜柑色の髪を撫でた。
李雨には、居場所がない。きっと家族と一緒にいたときもそうだったのだろう。隠れるようにこそこそと逃げ回り続ける生活は、そこには居場所がないことと変わらない。彼の国では、ただ術者に生まれたというだけで、存在そのものを拒絶される。
そして、決死の思いで逃げてきたこの地で、「さぁ、好きに生きるといい。きみは自由なのだから」などと言われて放り出されても、身ひとつの李雨にとっては、野たれ死ねと言われるに等しいことだ。
芒たちとともに来て、ようやく居場所を得られたと思っても、「ここにいるなり、出ていくなり、好きにしろ」と言われてしまっては、おまえはいてもいなくても同じなんだからと存在を否定されたも同然だ。
李雨は結局、居場所を失ってしまう。
芒は驚いてかたまっている李雨の頭を離すと、少し考えてから、ゆっくり口を開いた。
「李雨、わたしたちと一緒にきなさい」
濡れた灰色の目が瞬きした。
「わたしはね、李雨。きみにはきみの人生を、これまで諦めて捨ててしまったものを、今度は、きみ自身で選択して生きてほしいと考えていた。
……だけどね。正直なことを言うと、わたしはきみを手放したくない。きみには術者として放っておくにはとても、とても惜しい才能が備わってる。
わたしは、きみが術者として成長していく姿を、その近くで見守っていたい。
わたしの好奇心のためにきみを縛り付けることを、きみが、それでも構わないと言うのなら……
李雨をそばに置かせてもらえるよう、主人に頭をさげよう」
芒は、李雨は迷うだろうと思っていた。
しかし、彼はまっすぐな目で、芒に頷いてみせた。
「……おれは、もしも、あんたが極悪非道の人間だったとしても、絶対頷く。
おれを必要としてくれるなら、おれは、おれ自身がどうなろうと、それでいい」
誰にも必要とされない世界で生きてきた。
いつ死んでもおかしくはなかった。
「大好きな人たちを見捨てて、生き延びた命だ。
みっともなくても、もがいて、生き抜いてやるんだ」
……ああ、そうか。芒は思った。
この青年の眸の強さは、生への執着の強さだ。すべてを投げうってでも、生き延びることを選んだ者の強さだ。
芒は一回りも歳が違いそうな青年の、そこまでの葛藤を想って、身震いした。
怒りとも哀しみともつかない感情が胸をつく。ひどく、息苦しかった。
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