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──ここは、どこだろう。
白い。白い空間だ。いや、部屋かもしれない。いや、それとも……
ふと、金の帯が走った。横から延びてきたそれは、ゆっくりと波打ちながら、真っ白な世界の前方へ向かっていく。
導かれるように、その方へと足を進めた。
足元は確かだった。感触は、わたのように柔らかい気もしたし、石のように固い気もした。金の帯は次第に薄く裂け、糸のように広がりながら延びていく。
やがて、白の中になにかが現れた。
近づくと、それは水だった。水を丸くこねたかのような珠が空中に浮いている。
金の糸が珠に触れると、波紋が珠の側面を撫で、ぽつりと雫を落とした。
何度もそれを繰り返し、やがて糸が消えた。
下を見ると、見えない盃があって、そこに、金色の光を放つ透明な水が、なみなみと注がれていた。
おれはそれを手に取り、口に含んだ。舌の上に転がし、よく味わいながら、喉に伝わせていく。わずかに甘い味のする、普通の水だったが、心地よい冷たさは疲弊したからだに深く深く沁みわたり、温かな血を全身に巡らせた。
ふいに、水の珠が弾けた。
水の粒は小さな雫となり、清らかな雨となって、頭の上に降りそそいだ。
おれは空を仰いだ。どこまでも続く白。雨は優しく額を頰を叩き、すべてを洗い流していく。
おれは泣いた。
「……こんな愚かなおれでも、愛してくれるのか」
声はなかった。ただ、想いだけが、雨と一緒に沁みこんだ。
「あなたは、卑怯だ……」
嬉しかった。味わったことのない喜びが全身に広がって、涙がとまらなかった。
雨の音が次第に遠ざかっていく。目を閉じ、世界が閉じると、冷たい耳鳴りがした。
──服を着て、社の外に出ると、ぬるい風が吹き込んだ。
あんまり眩しくて、額に手をかざしながら、おれは思わず微笑った。
からだの底から力がわきあがってくる。草の上を駆け回って、寝転がって、泥だらけになれたら、どんなに幸せだろう!
「……殿下!」
「春臣!」
駆け寄って抱き締めようと、おれは足を踏み出す。
思いのほか力が入らず、数歩進んでふらついたところを、逆に春臣に抱きとめられた。
「ああ……ははっ、すまない」
「無理なさらないでください。
殿下は、たいへんな刻を過ごされたばかりなのですから……」
春臣の声が、腕が、微かに震えている。
おれは大切な人の背中を強く抱き締め、首筋に頰をつけた。
「心配をかけたな」
いえ、と小さく呟いた言葉は、掠れて声になっていない。
頭を撫でてやりながら、ふと顔を上げると、皆が少し離れた位置でおれたちの様子を眺めていた。
春臣に肩を借りて前に立つと、彼らは揃って膝をつき、深く頭を垂れた。
「おめでとうございます、殿下」
「ご無事でほんとうによかった」
芒と日向の言葉に、おれは頷いて、その場にどっかりとしゃがんだ。
「長らく待たせてすまなかったな。
まあ、詳しい話はあとでする。
とりあえず、おれ自身は、恐ろしいほど元気なのだが……」
苦笑して脇腹のあたりを撫でる。
筋肉と脂肪が僅かに削げ落ち、骨が浮き出ている感じがした。
「食べて、元に戻さないとな」
帰りの分の食糧を考慮し、制限したが、なんだか、いくらでも食べられるような気がした。
ずっと食べていなかったのに、胃はすこぶる元気で、拒絶反応が出ることもなかった。
「──殿下は、殺しても死ななそうな気がいたしますな」
笑いながら言ったのは日向だ。
おれはにやりと笑って返した。
「無論、死んでやるものか。
今なら、腹を割かれても、死ぬ気がしない」
だが、とおれは付け加えた。
「この回復のはやさは、神がお恵みくださったものだからな」
芒は頷いた。
「殿下の祈りを神さまが聞き届け、悪しき病を聖なる雨によってそそいだ……」
「病を降らせたのも、その神であるが」
日向が皮肉めいた口調で言う。
おれは笑った。
「まったく、やり方が卑怯にもほどがある。
さんざん苦しめておいて、あんなに優しくされたら、嫌でも心が傾くというものだ」
「神とお話しになられたのですか」
「いや、言葉を交わしたわけではない。
うむ、そうだな……なんと言うべきか、これは上手く言葉にできないのだが、心に直接想いが触れてきたような、そんな感じだった」
日向も芒も、揃って首をかしげた。
「わかるような、わからないような」
「まぁ、おれもよくわからぬ」
笑って、ふと思い浮かんだことを口にした。
「ああ、そうだ、あれは、愛おしくて愛おしくてたまらなくなったときの感じによく似ていた」
日向がちょっと眉を上げて、ほう、と呟く。
おれは指であごを撫でた。
「もしかすると、あれは、おれ自身の……
おれは心のどこか、ずっと深いところで、無意識に神を愛しているのか……」
だとしたら、少し悔しいな、と思った。
おれ自身の意思ではないところで、そういう力が働くのは、どうも解しがたい。
「神子は、神さまと繋がることのみを、生の喜びとするといわれてますね。
他との交わりをほとんど絶ち、聖堂の最深部で祈り続けることで、神さまの魂を己の身に降臨させ、有難いお告げを聞く」
おれは芒の言葉に軽く唸った。
「もともと、そういう素質を持って生まれてくるのだろうな、神子というものは。
おれも例外ではないということか」
「このような過酷な試練が長きにわたって続くにも関わらず、儀式に失敗した珠代が歴史上ひとりもいないということは、きっと、そういうことなんでしょう」
「だろうな。なによりも愛おしい者のためならば、如何に過酷な試練も乗り越えられるものな」
我ながら、感情のこもっていない言葉だった。
そんなふうに己の意思の届かぬところで運命を定められるのが、おれはなによりも大嫌いなのだ。
「なんにしろ、正々堂々ではない」
憮然と言うと、日向が吹き出した。それを横目に見て、芒は苦笑した。
「神さまという超常的なものに、正々堂々を求めても無駄ですよ、殿下。
天変地異が我々人間にままならないのと、同じことです」
おれは恨めしげに芒を睨んで、深くため息をついた。
「わかっているからこそ、歯がゆいのだ。
おれは、春臣を愛おしいと思う心を、素直に快く思う。
だが、神を愛おしく思うことは、どうにも素直には受けいれがたい。
どちらも無意識の内であって、おれの意思には拠らぬところだが、この違いは大きい」
まだ笑いの余韻が残った様子で、日向がにやにやしながら言った。
「殿下は、愛されなければ、愛したくないとおっしゃるか?」
おれは思わず、眉間にしわを寄せた。
「そういうことではない。
愛とはともに育むもので、一方的に与えられるものではないのだ。
おれは神に一方的に"愛させられている"。それが、非常に、納得いかぬ」
日向は言い返す余裕もなく、肩を震わせて笑い出した。
おれは肘をついてそれを眺めながら、むすっと唇を結んだ。
「笑いごとではないよ、日向」
芒は困ったように言って、ちらりとおれの方を見た。
「殿下、わたしは、殿下の考え方が好きです。
今回のそれも、殿下らしくて非常に好ましい。けど、頑固がすぎて御身を傷つけることになってしまってはだめだ。
受けいれなければならないことを、受けいれる器用さも、ときには、必要なんです」
おれは、再びため息をついた。
「おれにとっては、それこそ、試練だな」
芒はただ苦笑した。
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