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この屋敷はもともと、何代か前の、病弱だった皇后さまの療養のために建てられたものだった。
そのため、皇宮からほど近く、直下にある街はよく栄えていて不便しない。
屋敷が建つ森の中にしても、土がよく水も豊富で、草木も生き物も豊かに育つ。人を食うような獣は、こういう土地には現れない。血のにおいや腐臭が希薄だからだ。狂暴な獣がいない土地は、充分に治安が保たれている証拠だった。
──朝露が滴る、澄んだ朝。
枸々は肩に紐のついた麻袋をかけて、森の中を歩いていた。
きょろきょろと辺りを見まわし、時折しゃがみこんでは、草や花を検分して摘む。そして摘んだものを麻袋に入れ、また歩く。それを何度も繰り返して、朝日が完全に昇るころ、枸々はようやく作業の手をとめた。
たくさんの草花が詰まった麻袋の中を見て、笑みをこぼす。
これだけあれば、いい薬が作れそうだ。
そう思いながら立ち上がり、森をくだる道へと足を向けた。
──術は、魔法ではない。
なにもないところからなにかを生み出せるとしたら、それは人ではないもののちからだ。
術を使うには、必ず術式を用いる。それは印であったり、文字であったりするのだが、それを紙に記したり口で唱えたりして術を発動させることができる。
しかし、それだけではなにも起こらない。それでは術者でなくとも術を使えることになってしまう。
術の発動には、術者が生まれつき持つ"気"を込めることが必要なのである。
これは天性のものであるから、個人によって向き不向きがあるし、気の使い方もそれぞれ異なる。
だから、枸々は芒のように使い魔を使役することはできないし、芒も枸々のように治癒術を使うことができない。
術者の能力は遺伝に因るところが大きく、術者の血が濃いほど、その者が持つ気のちからも強くなる。例外もあるが、大抵はそういうものだ。
この皇国では、才能さえあれば、どんな身分の者でものし上がれる制度が取られている。
だから、特に術者は、どの身分の者も、その血筋を維持することに努めている。
そのことが、この皇国に術者が多い理由の一つであった。
枸々は、もともと治癒術を扱う術者の家系に生まれた。
父と兄が皇宮の医務室に治癒専門の術官として勤め、母も看護婦として働いていた。
官吏達の健康検査や、負傷した武官の手当てが主な仕事で、枸々もよく仕事場に連れ出されていた。
武官が負傷するのは、訓練などでの軽いものが多かったが、時折大怪我を負った者も運び込まれてきていた。
皇宮にほど近い街の治安の維持は、武官の仕事だ。街境に関所を設けて見張りを立てたり、街を見回って、暴力沙汰や不正な商取引などがないかを取り締まっている。
いくら皇宮に近い街とはいえ、貧富の差は生まれるもので、とりわけ貧しい者たちは街の端にある貧民街で生活をしているが、そこには獣が現れることが時折あった。
そのため、その辺りを取り締まる武官が、獣にやられてひどい負傷を負い、運び込まれてくるのだ。
街にも治療院はあったが、せいぜい虫歯や骨折を治せる程度のもので、獣の牙や爪にえぐられた肉体の負傷を治すことは難しい。さらには、獣が毒を持つ場合もある。治癒術には必ず薬草を煎じた薬を術のつなぎに用いるが、そういう傷に使う薬草が採れるのは、皇国の管轄下にある山の中だけで、特許を得た者でなければ採取をすることができない。
そして大抵の場合、薬草を採るのは治癒術者ではなく、薬草研究を専門にする薬草師で、治癒術者は薬草師から薬草を買う。
だが、滅多に獣の現れない安全な街に住む治癒術者で、重傷や毒に効く高価な薬草を、わざわざ買う者がいるはずもない。
そういうものが必要な者ほど、決まって貧しいのだ。
そのため、重傷者は必ず皇宮の医務室に運び込まれた。
──血塗れになってうめく者たちを見るたび、幼いころの枸々はめまいを起こした。ひどいときには吐いたり、卒倒することもあった。
痛いことは嫌いだった。今でも。血を見ることがなによりも怖い。
他人の痛みを、自分のもののように感じてしまう。治癒術者としてはあるまじきことだが、何度同じ光景を見ても、慣れることはなかった。
えぐれられて皮のむけた皮膚、薄桃色の肉、ぬるりとした血、むっとする血のにおい、痛みに歪んだ顔、悲痛なうめき声……
思い出すだけでも吐き気がする。
枸々にはそれなりの才能があったし、勉強の成績も良かった。街の小さな治療院であったなら、枸々はよい先生になれただろう。
だが、血を見て卒倒するような治癒術者は、皇宮には必要なかった。
枸々を疎んじた父は、それでも、母の説得もあってなんとか枸々を立派な治癒術者に育てようとしたが、やはり限界だった。
枸々は18のときに、これからは志野の屋敷で過ごすようにと父親から言われ、おとなしくそれに従った。
厄介ばらいをされるのだと気がついていたけれど、哀しいというより、ホッとする気持ちの方が大きかった。
ずっと、期待に応えられないことがつらかった。自分を気遣ってくれていた母や兄のためにも、この方がよいのだと思った。
父は枸々を道具のようにしか見ていなかったが、母や兄は枸々のことを優しい仔だと褒めてくれたし、父に怒られた日は慰めてくれた。それに、まだよちよち歩きの妹もいた。小さな手が自分に触れるたび、胸があたたかくなったことをよく憶えている。あの妹は、立派に治癒術者になれただろうか……
そんなことを考えながら、森を抜け、枸々は陽光に目を細めた。
葉陰が途切れ、燦々と陽光が頭の上に降り注ぐ。
なだらかな坂を下った先に、点々と小さな民家が見え、街の中心に行くに連れて造りのしっかりした大きな建物が増えていく。この坂の両脇には田圃があって、どの田圃もすでに稲刈りを終え、土はしっかりと耕されていた。
冷たさを含んだ風が、微かに草のかおりを運んでくる。枸々は思わず笑みを零した。
……ここは、ほんとうによいところだ。
街の人たちにも活気があり、街全体がにぎやかで明るい。
森は皇宮の管轄下にあるだけあって、よい薬草がたくさん取れる。空気もよい。水もよい。なにより、あの屋敷がよい。
皇宮の真下にある、大きな街での生活より、あの屋敷の方がずっと心地がよく、枸々はこの生活が好きだった。
やけに怪我の回数が多くてハラハラするが、そのおかげで、薬草の煎じ方も、治癒の技術も前より上がっている。
枸々は飛び抜けた才能のある術者ではなかったが、主人が目をキラキラさせて、おまえはすごいと言ってくれるのが、枸々はなによりも誇らしく、嬉しかった。
街で枸々は数種類の鉱物を買った。これも薬液を作るのに必要なものだが、あの森では手に入らないので、切らすとこうして街に買いにくる。
それから、ちょっと考えて、帰る前にある店に寄り道していくことにした。
白の暖簾が下がった、こぢんまりとした小綺麗な店だ。軒先に白蓮の飾り物が下がっている。
扉はなくふきさらしで、店の前に木でできた丸い卓と、並んで二人座れるくらいの椅子が、その両側に置かれている。
蓮華庵という茶屋だった。
この茶屋は甘味が美味い。食べていくついでに、主人が気に入っている団子をお土産にしようと思い、枸々は暖簾をくぐった。
──その途端、足が止まった。
客の隣に座り、談笑している、その人。
目が合った瞬間、彼の目が丸くなった。わずかに唇が開く。
枸々は背を向けて店から出ようとしたが、ちょうど店に入ろうとした客と正面からぶつかってしまった。
狼狽して何度も頭を下げ、ハッとしたときにはもう遅かった。
「枸々ちゃん、やっと来てくれたあ!」
「ひっ……」
……捕まった。ついに、捕まってしまった。
無意識に後ずさる枸々に、彼は口元に笑みを浮かべて近付いてくる。
もともと背が高い上に下駄を履いている彼は、見上げなければ目を合わせられない。
裾から露出した白い脚、膝裏まである桃色の髪、腰よりも高い位置でとめられた帯、肩をさらすほど開いた袂、すらりと長い首、切れ長の目、空色の眸……
細く長い指が伸び、枸々の腕を掴む。すらりとした体躯に似合わず、その力はまさしく男のそれだった。
「お客さま、ご注文はいかがなさいます?」
たっぷりと息を含んだ声が、耳腔をくすぐる。こめかみに冷や汗が伝った。
「あ……あの……」
「ああ、そうだ、さきにお席までご案内しないと。
さあどうぞ、こちらです、お客さま」
「う……」
しなやかな動作と、腕を掴む力が比例しない。
有無を言わせぬ圧力に押されるまま、枸々はなかば引きずられるようにして一番奥の席に座らされた。
その向かいの席に彼は腰を下ろし、卓の上で組んだ手にあごを乗せ、にこにこと枸々を見つめた。
その視線に耐えきれず、枸々はおずおずと声を絞り出した。
「あ、あの……ご店主は……」
「ああ、あの人ね、ちょっと体調がよくないみたい」
「え……」
目を丸くする枸々に、彼はあっけらかんと笑ってみせた。
「心配いらないよ、あの人、タフだけが取り柄なんだから」
「治療院へは……?」
「ああ、行ったけど」
それから、ちょっと考えるような仕草をした。
「なんか、原因がわからないから治せないってさ。
まあ、ほっとけば治るんじゃない?」
枸々は顔を真っ青にして、首を横にふった。
「病を侮ってはいけない。
目に見えぬ病ほど、恐ろしいものはないのです。
廉(れん)、わたしに診せていただけますか」
廉は数回まばたきして、枸々の顔を見つめた。
「ああ、そっか、きみは治癒術者だったね」
そう呟いて、ふと黙り込む。
なにか考えているようだったが、その眸からは表情が読み取れなかった。
「若旦那、ちょっと!」
「あ、はーい」
従業員に呼ばれ、彼は立ち上がる。
口を開きかけた枸々に目線を寄越してから、屈んで耳元に顔を近付けた。
「──夕方、またここへ来てくれる?
うちへ連れて行くから」
そう囁いて、にこっと笑うと、枸々に背を向けて店の奥へと入っていってしまった。
……うかつなことを言ってしまっただろうか?
あまり、彼とは関わりたくないのに。
だが、なにかあってからでは遅いのだ。病というものは、突然に人の命を奪ってしまうこともある。
あの店主が作る甘味が枸々は好きだったし、枸々にはない闊達な人柄にも、気持ちのよいものを感じていた。
……夕方。それまでに一度屋敷に戻って、薬を取ってこよう。
そう決めて、枸々は席を立った。
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