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095 薄暮
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木々を掻き分け、軽やかに走るシトの背に必死にしがみ付く。
(気持ち悪い……)
直前まで見ていた赤い血か、それとも今後の逃亡生活への憂いのせいか……ずっと強烈な吐き気を感じていた。
「ぅっ……」
でももういい。原因なんて関係ない。
高さの恐怖と、乗り慣れない妖獣からくる振動は余計に不安を煽っていく。
「シト、ごめん……もう少し、ゆっくり進んで……」
完全に暗ければ、少しは高さの恐怖は和らぐだろうが、木々の中にいてもまだ日があり、森には木漏れ日が差し込んでいた。
(怖い……)
吐き気と恐怖を、歯を食いしばって必死に耐える。
この国の日照時間はとても長い。
日が傾いても、沈み切るまでにさらに時間がかかる。
(もう少しで、暗くなるのに……)
せめてもの救いは、まだ僅かに雨が降っていることだろうか……。
灼熱の太陽が迫ってくる恐怖。
この雨が止む前に、夜にならないだろうか。
闇に紛れることができれば逃れられる。
まるでこれでは、太陽から逃げているのか、ハリルから逃げているのかわからない。
(吐きそう……)
初めて目にした、サディとギルトとの騎士としての一面。
(あんなに、強かったんだ……二人とも……)
管理されていたのは食事だけではない。
あの二人は騎士団長の肩書きがあるのだ。
その彼らに、ずっと守られてきた。
『逃がすか!! 水神ぃいい!!』
襲ってきた男たちの言葉。
『水神が逃げるぞ!! 化け物め!! !』
狙われていたのは僕……。
――――初めて、人が死ぬところを見た。
覚えはなくても僕は恨まれ、憎まれている。
仲間を殺されても、自分の命が奪われようとも、彼らは僕を殺しに来たのだ。
(僕が……水神だと嘘をついたから…………?)
「シ、ト……とまって……」
シトの背から、転がり落ちる。
先程中庭で食べた果実があがってくる。
「ぅえっ……ゲホッ……!」
昼食もろくに食べていない。
吐き出すものはほとんどが胃液だった。
「ゲホッ……ぅう……」
歩くのも辛い。
だからといって、シトに乗るのも辛い。
気持ち悪くて、怖くて、涙が溢れてくる。
(無謀だったかもしれない……)
再び襲い来る、とてつもない不安。
「どこか、ま……街へ……」
必死に仰ぎ見て、シトに問うと、彼は頷いた。
街なら、身を隠せる所があるかもしれない。
完全に夜になり、気持ちを落ち着かせれば、シトに乗って遠くに逃げることもできるはずだ。
そうすれば、シトの姿を誰かに見られるリスクも少なくなるだろう。
「ごめんね、シト……」
首筋にギュと抱きつき、頬を擦り寄せる。
近くで見ても美しい、白銀の体と――――大きくて、透き通った黒い瞳。
(この子を巻き込んでしまった……)
もし見つかったら、シトはどうなってしまうのだろう。
――――シトか長い首を捻る。
その視線を追うと、そこにはこの国の城があった。
「リース城……」
これが、この国の城――木々の合間から少しだけ見える――とても大きい城だ。
この国に来たときも、バルシェットに乗って空を飛んだときも、この城を見る余裕なんてなかった。
初めて見上げた。
ずっと住んでいたのに。
(ああ……もう……)
――――追っ手がついた。
それは予感ではなく、確信でもあった。
シトの体を再び抱きしめる。
「シト……」
怖い。
皆んなを裏切ってしまった。
自分の重ねた嘘と罪が、取り返しのつかないほど大きくなっている。
「遠くの街に……」
シトに乗って、遠くの街に?
それはなんて無謀な事をしているのだろうか。
(でも、ここまで来て引くわけにはいかない……)
意を決して、シトの体によじ登る。
「早く、街へ……どこでもいい! どこか遠くの街へ……!」
そう告げると、心配そうにシトが鳴く。
「うん……わかってる。わかってるよ……」
――――『逃げられないよ』と、シトは言っているのだ。
雨もいつの間にか、すっかり止んでいて、太陽を遮る雲もなくなっていた。
木漏れ日かから差し込む光も強さを増す。
拭い去れない不安を抱えたまま、動き出すシトの首にギュっとしがみついた。
――――――――――
夕闇の中、街の影が近付いてくる。ある程度進んだところでシトに別れを告げた。
「ありがとうシト……。見つからないようにね」
ずっとシトに乗って移動していたせいか、車酔いのような吐き気が続いていた。
体の怠さと、吐き気。
そしてこの、猛烈な暑さ……。
それはもう限界だった。
街は城下街よりもずっと外れているだろう。
シトがいるからこそ、ここまで来れたのだ。
追っ手がいたとしても、僕が一人で此処まで来ているとは予想しないだろう……。
(大丈夫……ここなら、見つからないはずだ……)
そう思うしかなかった。
――――まばらにいる人々の視線を感じる。
純白の雨具は思いの外目立つようだった。
それでも、これを脱ぐことは躊躇った。
足枷の鎖はシトが外してくれたが、まだ枷の拘束部分は足に残っている。
雨具の裾の長さは、それを隠すのにも丁度良かった。
疲れと心労で朦朧としながら、人目を避けるように家と家の隙間、狭い壁の間を進む。
(何処か……どこか休める場所は……)
何処をどう進んだか、自分でもわからない。
ゴミ置場のような異臭のする空間で、その先に行き場がないことを知る。
――――生臭い、腐ったような匂い。
それでも、引き返す気にはなれなかった。
重ねられた木箱を盾に、身を隠すように倒れこむ。
取り敢えず、今は此処でいい。
此処で今――この一瞬をやり過ごせればいい。
夜がもっと深くなったら……シトと、もっと遠くに逃げよう…………。
目を瞑ると、あっという間に意識が落ちて行く。
――――そうしてこの日、ようやく長かった一日が、ここで終わりを告げたのだ。
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