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どのくらいぼうっとしていただろうか。
かなり長く感じたが、実際には10秒か20秒か、そのくらいだったと思う。
ゴトン。
上から、鈍い音が響いた。
わたしはとっさに反応できなくて、ソファに座ったまま上を見上げた。
2階か、と思い付いたのは、もう一度音が鳴ってからだ。
ゴン、ゴトン。
誰かいるのか? そう思ってハッとした。
「旦那様!?」
そうだ、彼が死んだとか、自殺したとか、全部あの人が言っただけじゃないか。最初は信じられないと思った筈だ。嘘だって。
嘘に決まっている。
嘘に決まっているだろう!
「旦那様!」
階段を駆け上がったわたしが見たモノは、階下より更に酷い惨状と、鎖に繋がれた青年だった。
ゴミだらけの空間。よどんだ空気。この世のものとは思えない悪臭。
彼は赤い首輪を着けられて、床にうずくまっていた。すっかりやつれて、ボロボロで、首輪からは長い鎖が伸びていて。
でも――眼だけはしっかりと、わたしの顔を捉えていた。
「トシ、くん……」
彼が、聞こえるか聞こえないかくらいの、微かな声でわたしを呼んだ。
「ここにおりますっ!」
思わず抱き寄せ、抱き締めた時、今度は外で物音がした。
パーパッ、とクラクションを鳴らす音。
続いて、階下で……玄関の戸が閉まる音。
そうだ、そういえば奥方を放置したままだった、と、今更ながらに思い出す。
血を流して倒れたからといって、死んだとは限らないのに。
まず息があるかを確かめて、救急車でも呼ぶべきだったのに。
「少しお待ちください」
わたしは旦那様に言い残し、さっきのリビングに戻ろうとした。けれど、それを彼が引き留めた。
「行かない、で。トシ君……」
ぐいっとシャツを引かれる。
「ですが……」
ためらうわたしに、彼は小さく頭を振って、「いいから」と言った。
「出てったんでしょ? 出てくって言ってた、から」
出て行くとは……誰が?
奥方が?
「まさか。だって」
だって、彼女は毒を飲んで。
『私をそこに埋めて頂戴』
そう言って、倒れて――。
「とにかく、ちょっと様子を見て参ります」
わたしは愛おしい青年の背中を撫で、軽く肩を叩いて「お静かに」と言い残し、そっと階下に降りた。
旦那様は「出て行った」と言ったが……確かに玄関の戸の音はしたが。
出て行ったとは限らない。逆に誰か、不審者が入って来たかも知れない。
用心した方がいいと思った。
頭がゆっくりと回り始める。
らしくもなく、異様な雰囲気に呑まれていたようだ。
罪悪感とか、寂寥、恋慕――恐らく、そういうものに囚われ過ぎていたのだと思う。
足音を忍ばせて、すすけた廊下をリビングに向かう。家の中はしんとして、物音もしない。
警戒しながら部屋の様子をうかがうと……リビングには誰もいなかった。
奥方も、誰も。
さっき、目からも鼻からも口からも血を流して、ソファに倒れ込んだのを確かに見たのに。
……出て行ったのか? 旦那様の言う方が正しかったのだろうか?
ということは、あれは芝居?
ゆっくりとリビングに足を踏み入れる。
空っぽのソファを眺め、その前のテーブルを眺める。
盆も、グラスも、封筒もそのままだった。権利書も。わたしが握りつぶした離婚届も。
しわを伸ばしてよく見れば、離婚届は少し古くなり、黄ばみかけていた。奥方の筆跡のインクだけが、黒々と新しい。
もしかして、これは3年前のものではないか? 3年前に旦那様が書いて……けれど、ずっと、認めて貰えなかったのでは?
もう一度封筒を改めると、小さな鍵が入っていた。オモチャのような小さな鍵。旦那様の首輪の鍵だろうか?
さっきは気付かなかった。やはり、色々見えていなかったようだと、我ながら呆れる。
立ち上がり、窓際に近付いて庭の穴を覗き込むと……「私を埋めて」と奥方が言った穴には、ゴミが放り込まれていた。
幽霊の正体見たり、という訳か。
彼岸花色のフィルターが、パラパラと剥がれ落ち、クリアに周りが見え始める。
「は、は……」
笑えてくる。まんまと一泡吹かされた。今頃出て行った奥方は、わたしの間抜け面を思い出して、溜飲を下げている事だろう。
これが――復讐か。
勝ったのはどちらだろう?
旦那様はすっかりやつれていたものの、衰弱という程の状態でもなかった。最低限のお世話はされていたようだ。
数日の入院を余儀なくされたが、翌日には病室をうろうろして、看護師に怒られていた。
わたしは病院に付き添って、退院まで旦那様のお世話をした。
「あの時は、ごめん」
旦那様は3年前のことを詫びて、苦しそうに笑った。
「妊娠、したって言われたん、だ」
それは結局、彼女の嘘だったらしいけれど。
「ぼくの子じゃないのは、分かってた。だってぼく達、そんな関係じゃなかったし」
旦那様は笑って、けれどすぐに顔を歪めて、ぽろりと涙をこぼした。
そして言った。
「でも、キミの、子だって……言われて。男のぼくより、女である自分の体の方が、いいに決まってるでしょって、言われて……」
そこで旦那様は言葉を詰まらせ、下を向いた。
涙が病院の布団の上に、ぼたぼたと大きなシミを作った。
「キミを信じられなくて、ごめんなさい」
旦那様の3年越しの謝罪に、わたしは「もういいんです」と応えるしかなかった。
彼がずっと苦しんでいたのは分かったし。こんな、身も心も弱っている人に、追い打ちなどかけたくなかった。
3年前なら、「わたしを疑うのですか?」と怒りをぶつけることになったかも知れない。けれど、3年という時間が、わたしの中の怒りも悲しみも癒してくれた。
残っているのは、愛情だけだ。
もしかしたら、奥方もそうだったのだろうか?
怒りや寂しさ、屈辱……そういう気持ちを全部癒されるまでに、3年かかってしまったのか?
あの時聞いたクラクションは、やはり彼女のお迎えだったのか?
家族か? それとも新しい恋人か? 気になるという訳ではないけれど。でも、今度こそ幸せになれればいいですね、と――やはりそれくらいは願わせて欲しい。
彼岸花の花言葉は、「情熱」「悲しい思い出」「独立」「再会」「あきらめ」……。
何だか全部、当たっている気がした。
それを知った上で――彼女はあの庭に、あれだけの球根を植えたのだろうか?
彼岸花は球根で増える。遺伝子的に3倍体で、種子では増えない。
種子では増えない。
それはわたし達の関係に、とてもふさわしいように思えた。
(終)
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