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亡霊-2
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眼球の表面が異常に乾燥しているのが分かり、大河は反射的に何度も瞬きを繰り返した。目尻から涙が零れ、ぼやけていた視界が徐々にクリアになると、それがはっきりと見えた。
顔だ。
「……ッ!?」
声も上げずに大河は上体を起こした。そこで、自分がどこかに横たわっていたことに気づく。
勢いよく起き上がったのにも関わらず、目前にあった顔に衝突するようなことはなかった。そして大河は探した。
「お、まえ……!」
横には彼――犬飼が座っていた。
人の気配もなく、静謐な様子で腰掛けていた。
「ッ? ……いって!」
驚愕のあまりソファからころげ落ちてしまった大河は強かにフローリングに背中を打ちつけた。その硬さを感じて、今いる場所が自宅だと察する。見慣れたいつもの殺風景。そこに不躾に混ざる異質な存在。重たい空気。
(訳が……わかんねえ)
大河は立ち上がり、兎に角相手の男から距離を取るべく足を動かした。しかしどういう訳か足は異常に重たく、まるで深い海で溺れている者がもがくように、何度も転倒しそうになりながら窓際へと移動する。
相手はまだいるのか。それとも見間違いか。
振り返ると、すぐ目の前にいた。息を呑む。
「お、っお前、死んだんじゃなかったのかよ……!」
何度見ても、正面に立つ制服の彼は、犬飼孝弘本人だ。交通事故で亡くなった筈の犬飼孝弘に違いなかった。
清潔感のある黒髪。感情の浮かばない表情。整った顔立ち、優しい輪郭。しかしまるで生気が感じられない。呼吸する音さえ聞こえない。
「何とか言えよ!」
声を張り上げるが、犬飼は少しも表情を変えることはない。瞬きすらした様子はなかった。
たった一度だけであるが以前、ホテルの一室で言葉を交わした時はここまで不気味な……奇妙な奴ではなかった。
本格的に気味悪く思えてきた大河は、更に一歩、後ろで足を動かす。しかし背後はひんやりとした壁が待ち受けているだけで、これ以上逃れる場所はなかった。
(逃げる……何でだよ?)
逃げる必要はあるのか? そもそも、犬飼はどうして生きているのか? どうして大河の自宅にいるのか? 何故、何も言わないのか? 危害を加える気はあるのか?
疑問ばかりが頭の中に浮かび、そしてすぐに溶けて消えて行く。波紋のように消え去って行く。今、何を最優先で考えたら良いのか分からない。完全に混乱している。
「っおい、聞いてんのか!」
ドスの効いた声で怒鳴り、手を出したのは虚勢に過ぎないということは自分でも分かっていた。しかし、そうしなければ普段の自分を保てる気がしなかった。
いつも喧嘩をする時のように相手へと拳を出すが――それは確実に相手の顔面に命中したにも関わらず、その瞬間を見たにも関わらず、まるで接触した感じがしなかった。
まるで実態のないものを、或いは軟らかい水を掴んだかのように。
「……!」
「……落ち着け」
この場で初めて聞いた犬飼の声。これが落ち着いていられるだろうか。殴った筈の相手に、固体の感触がないのだ。今まで以上に取り乱してしまうのが普通に決まっている。
もう、何が何だか分からない。今、自分がここに存在しているのかさえ曖昧になる。
「落ち着け」
低い声が大河の鼓膜を直接震わせた。
犬飼は続けて言う。
「俺は死んだ。交差点でトラックに撥ねられて、搬送先の病院で」
死んだ、と本人が口にするのを聞くのは、これ以上ないくらいに奇妙な感触だった。
本当に死んだのであれば、今、大河の前に姿を現しているのはおかしい。変なのだ。
(俺、マジで頭おかしくなったのか……?)
氷水よりも冷たい壁に体重を預けながら、大河は考える。目の前にそびえたつ犬飼孝弘。やはり幻か。すべて大河自身が造り出した妄想なのか。
「夢じゃない。幻覚でもない」
心を読まれたようなタイミングだった。乾燥しきって水分を欲する口を開き、大河はようやくまともな問いを出来るようになった。
「じゃあ、何なんだよ。……幽霊、とでも言うつもりかよ……ハッ」
自分で言って馬鹿馬鹿しくなる。自嘲の乾いた笑いが漏れたことに大河は驚いた。そんな余裕があったのか。手足の末端が氷のように冷たくなるほどに緊張し、混乱していた脳味噌に、自らを嘲ることが出来たのか。
身体は既に限界だった。異常な負荷の加わった足腰が立たない。大河はずるずるとしゃがみ込み、灯台のようにのっそりと佇む犬飼を仰いだ。片手で顔を覆う。
「多分、そうだ」
「……多分?」
多分って何だ。自分のことなのに分からないのか?
「はっきりしろよ。自分のことだろうが」
理不尽な怒りが込み上げる。既に頭は混乱した情報を整理することを放棄し、ただ与えられる感覚のみに忠実になっている。犬飼の言うことが本当かどうかなど、もはやどうでもよくなっていた。
いまこの時が、幻か現実かなど、さして問題ではない。
瞬間的にそんな気がした。
そして――自分のことが分からないのは、大河自身も同じではないのか。
改めて気づいて、気分は落ち込む。ぐちゃぐちゃになった思考が冷却されてフリーズする。
「……未練でもあるのか。だから、成仏できないで留まってんのかよ」
幽霊なんて信じない。絶対にいないものだと思っていた。しかし最近身の回りに起こる奇怪な現象……あれを考えれば、あれが幻覚などではなかったなら、馬鹿げた話だとは思うが幽霊なんかはいくらでもいそうな気がした。
「分からない」
「……」
この男のすべてが理解できない。
“わからない”の一言で片づけてしまうのは単に面倒くさいだけなのか、それとも本当に自分自身に起こったことが理解出来ていないのか。
すべてを放棄するその言葉を吐きたいのは大河の方だった。どうして、自分が死んだと知ってなお冷静でいられるのか。その神経を問いたい。
大河は薄く息を吐き出した。魂までも抜けるようだった。
「俺を家まで運んだのはお前か?」
「ああ」
「何で……俺を気絶させたくせに。何で俺は……」
「危険だからだ」
(……危険?)
何が危険だと言うのだろう。大河にとって今一番危険な存在は、犬飼であるというのに。
「意味が分からねえ」
「詳しくは知らない」
「はあ?」
言っていることが滅茶苦茶だ。
「分かんねえのかよ。分かんねえのに、危険だって何で言えるんだよ」
問いながら半ば、犬飼との会話は成立しないのではないかと大河は思い始めていた。
何を訊いても「分からない」その言葉しか吐かない相手と、どうしてまともなコミュニケーションが取れるだろう。不明の一言ですべてが片付く筈がない。大河を納得させることなど出来る筈がない。
この男は、初めから自分と意思の疎通を図る気がないのではないか。
(ムカつく……)
幽霊を相手に腹を立てるなど初めての経験だ。
犬飼は、大河が何と言おうと凄もうと騒ごうと、決して顔色一つ変えない。そのことが余計に大河を苛つかせた。
「分かんねえなら、勝手なことしてんじゃねえよ」
気絶させられて気分のいいものじゃない。そもそも、幽霊と遭遇した時点で気分どうこうではない。
そればかりか、犬飼の言動はすべて大河の気に触れる。
「出てけよ」
大河は力の入らない足腰を叱咤し、壁に手をつきながら立ち上がった。低く低く呟いた拒絶の言葉は、しっかりと相手に届いたかどうか。
「……」
犬飼はその場に立ち竦んだまま、一歩も動かない。自分がまるで相手にされていないようで、大河は大きく舌を打った。
(こいつ、ふざけんなよ――)
勝手に気絶させて、勝手に運んで、危険だとか何とか意味不明なことをほざいて……一体、何がしたい?
「出て行けって言ってんだろ!」
大河は叫んだ。体調はすこぶる悪い。身体はどういう訳か錘が載ったように重たいし、手には上手く力が入らない。それに寒い。少しでも油断したら、歯がガチガチと音を立てそうなほどに、部屋の空気は冷たい。
これ以上、相手をしていられない。
大河はもう一度「出て行け」と言った。
「そのつもりはない」
芳しくない返答に、大河の目元がピクリと震えた。
「ここは俺の家なんだよ。お前は自分の家にでも行って家族に面見せてくればいいだろ」
「俺の姿は誰にも見えない。お前以外には」
そんなことは関係ない。そんな話をしているんじゃない。
「お前がいると迷惑なんだよ」
大河は歯を食い縛り、重たい身体を動かした。犬飼の腕を掴み、荒い息を吐きながら玄関へ押し出す。
その行為だけで大河は異常な程に疲弊していた。気を抜けば倒れてしまいそうだ。遠のきそうになる意識を強引に引き止め、大河はもう一度、精一杯の気力で言葉を押した。
「出て行け。二度と俺の前に現れるんじゃねえ」
「……」
「出てけよ……!!」
癖で、犬飼の胸倉を掴み上げる――つもりだったが、手応えはゼロだ。固く握った拳が相手の首をすり抜ける。
さっきは掴めたのに何で、と思うのも束の間で、直前で目的を失った勢いは削がれることなく、制御が出来なくなった身体はそのまま前へと傾く。
「……っ」
「大丈夫か」
地に頭を叩き付ける前に、支えられた。勿論、犬飼によって。
(馬鹿にしてんのか、こいつ――!)
弄ばれているようにしか大河は思えなく、抱きかかえるように身体を支える犬飼を今度こそは突き飛ばし、そのままドアの外へ追い出した。
「気持ち悪いんだよ……!」
バタン! ドアは乱暴に閉まる。外に佇む犬飼の姿は完全に見えなくなった。沈黙を続けるドアを数秒間見つめ、大河はようやく安堵の息を漏らした。
やっと、身体が、精神が解放された気がする。あいつがいなくなったことで、清浄な空気が吸えるようになった。
「マジで……何なんだよ」
大河は頭を乱雑に掻き混ぜ、足を引き摺りながら寝室のドアに手を掛けた。今日はもう、何もする気が起きない。
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