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亡霊-8
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学校より快適な筈の電車も、今日は異常なくらい息苦しく感じた。
周囲に人がいる。他人がいる。そのことをこれほど恐ろしく感じたことはない。誰かが笑えば、自分のことではないかと疑ってしまう。自分を見ているのではないかと錯覚しそうになる。そんな間抜けな自分に嫌気が差す。……俺は、こんなに弱くない。
家に帰ればきっと、いや絶対、犬飼がいるに違いない。結局、一人でいることは出来ないのだ。半ば諦念を持ちながら、アパートに着く。
見慣れたドア。ノブに手を掛け、回す。靴を脱ぎ、中に入る。フローリングを歩き、リビングへ出る。見る。
誰もいない。
(……いねえのかよ)
喜ぶべきことなのに、落胆も同時にしているような気がして、否定する。
よかったじゃないか。誰もいなくて。あいつに勝手に入り込まれていなくて。
時計は、まだ三時にも達していない。
何のために学校に行ったのだと自分に呆れる。出席時数がまずいと思ったから、行って、少しは授業を受けるつもりでいたのではなかったのか。なのに一時間も受けずに帰ってきてしまった。逃げてしまった。
(そろそろ留年覚悟した方がいいな)
冷静に考えると、わざわざ勉強して高校に入った意味はあるのかという気になる。今の時代、入らないという選択肢はないに等しいが、学校に行かないのなら、意義はない。いっそのこと。
「……」
いや、それは出来ない。
ストーブの電源を入れ、起動するのを待たずにソファに寝転がる。精神と身体が休息を欲していた。最近、ずっと余裕がない。せめて、脳を休ませる間くらいは、心身も休んで欲しかった。腕で目元を覆うと、中途半端な暗闇がすぐに眠気を運んでくれる。逆らわずに、すぐに眠りに入った。
気付けば水中にいた。
海なのか、プールなのか、バスタブなのか、水溜りなのかは分からない。ただ薄い水色の中で、妙に優しい温度に包まれた中で静かに揺蕩っていた。不思議と水の冷たさは感じない。
夢を見ているのだと理解した。そうでなければ、水中にいるのに息苦しく感じない理由がない。
腕を動かし、水を掻く。身体は前進し、少し先の様子が見えた。
透明な硝子が張ってあった。擦り硝子だ。硝子の向こうに何があるのか具体的には分からなかったが、何かがあるのだと知っていた。それを求めるように泳ぐ。
硝子に近づき、ざらついた表面に額をぴったりとくっつける。硝子越しに、何かがあった。
途端に苦しくなった。鼻から、口から水が入り、肺にまで侵入する。痛くて痛くて、手足を滅茶苦茶に動かす。硝子を蹴っても破けない。足の裏が痛くなる。
そこで夢が終わった。
大河はゆっくりと目を開けた。まっさきに飛び込んだのは当然、見慣れた天井だった。白く、僅かに染みがある。
暫く起き上がる気にはなれなかった。ソファの上でぐっと伸びる。端からはみ出した手足が軽く痺れている。鼻が少し詰まっている気がした。
何度か瞬きを繰り返し、ようやく軋む体を起こす。脳味噌がグラグラと揺れる。まだ水の中で揺れているようだった。
部屋が暗いことに気付いた。窓から入り込む光はなく、人工的な光もない。薄暗い部屋の隅は黴が潜んでいそうな黒があって、それは大河の目には不気味に映った。
軽やかな音楽が鳴った。ポケットの中を探ると携帯電話がある。開くと、柏木からの着信だった。
「……」
親指を電源ボタンへと持っていき、躊躇わずに押した。音楽は素っ気なく鳴り止む。待ち受け画面の戻ったディスプレイの右下には、不在着信のマークがあり、確認すると少し前にも柏木からの連絡が二件、入っていた。
放っておいて欲しいと言ったのに、あの教師は臆することなく大河に関わろうとする。世間一般で言う「優しさ」なのだろうが、今の大河にとっては煩わしく、恐ろしいものに感じた。
人を信じたって、良いことなど一つもない。過去の経験からそう言える。
遮光カーテンを閉めると、リビングは完全に真っ暗な状態になった。照明を点けると白い光が四隅まで広がり、黒はなくなった。
(目、痛ぇ……)
疲れているのか、目がひりひりする。固く瞑ると表面は涙の膜で覆われた。目薬、と思ったが家にはもともと置いていないことを思い出す。
さっさと風呂に入って、夕食を取って、寝てしまおう。起きているのは疲れた。色々考えたり、何かを見たりするのは身体に負担しか加えない。
夢の中なら、少しはマシだ。
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