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過程-18
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また、夢を見た。今度はより鮮明だった。
小学校低学年くらいの年齢の自分の周囲に、数人の子どもがいる。場所は理科室だった。この光景をよく覚えている。実験器具の入った棚が教室の隅を固め、その脇には小魚が自在に泳ぐ水槽があった。窓越しの空は暗く、やはり雨が降っていた。
『早くしろよ』と、隣で大河の様子を覗き込むようにしていた少年が急かす。彼はグループのリーダーで、逆らうと後で酷い目に遭わされることを重々承知していた。大河の中に、反抗という選択肢はない。周囲が暗い目で見守る中、ついに動いた。
銀色の小さなメダカが泳ぎ回る水槽。小学生のやや肩幅より大きいくらいのその中に、一匹のウサギを入れた。
頭から逆さまに沈め、強く押し付ける。底に顔がぐいぐいと当っても、構わず押さえつけた。
ウサギが我武者羅に暴れ、中の少し濁った水が外に漏れ、黒い床を濡らす。少年が『うわ』と面白がった声を上げ、同時に周囲が息を呑んだ。
やがてウサギの動きが完全に止まり、音もなく静かになった。手を離すと、濡れた白い身体がすうっと浮き上がってきた。
大河の心臓は、これ以上は壊れてしまうのではないかというくらい、バクバクと激しく鼓動していた。身体を飛び越えて周囲にまで聞こえてしまうのではないかと、心配するくらい。
ついにやってしまった、という恐怖のような焦燥のような、あるいは達成感のような、複雑に入り混じった感情。引き攣った顔で、隣の少年を見た。
彼は『仲宗根がキミコを殺した!』とヒステリックに叫んだ。
目が覚めた。
「っは……! ……っ、げほ…っ、は」
途端、息を勢いよく吸い込んでしまい、咽た。
夢の中と同じように心臓が脈打っていた。何度も深呼吸を繰り返して気分を落ち着かせようとするが、こめかみから伝った変な汗が目に入り軽い混乱を引き起こす。腕を彷徨わせると冷たい布の上を滑った。
俺は今、どうなってる?
目覚めたばかりの視界に、忙しなく周囲の光景を映し出す。――部屋だ。大河は今、ベッドの上で横に転がっている。肌に直接触れる布が少し居心地悪い。意識した途端、全身にとてつもない気怠さが蘇った。
そうだ。
(俺は、あいつに――)
犬飼にされたことを思いだして急に顔が熱くなった。右手の腫れは引けているし腹も裂けていないし血も出ていない。しかし別の箇所が熱を持ってひりひりと痛んでいる。巨大な熱を受け入れた狭いそこが。
それなのに、身体に不快感は一切残っていなかった。精液は纏わりついていないし、中も濡れていない。まるでシャワーを浴びた後のような爽快感が教えてくれた。
「薬を塗った方がいいかもしれない」
すぐ背後、耳元で囁かれて、大河の肩は大きく跳ねた。気配は一切感じなかった。再び騒ぎだした心臓を抑え、肩口に振り返る。そこには大河を抱いた幽霊がいた。
「て、め……っ犬飼! ……ッ…」
「無理に動くな」
股関節や腰に走る鈍い痛み、それに憤慨を滲ませた声が聞いて分かるくらいには掠れていたことが、行為があったことを裏付けているようで、急に大河の怒りは萎んでしまった。代わりに、気まずさというものが犬飼との間に介在する。
……どんな顔をして見ればいいのか分からない。妙に身体が昂ぶっていたとはいえ、後を貫かれて感じてしまうなんて。男として情けないにも程がある。しかもあのまま、意識を手放してしまった。
けれど羞恥やら後悔やらを噛み締める以上に、背中に感じる重みと温もりを必要以上に意識してしまい、自分を罵倒することも出来ない。
何か言おうと口を開いたはいいものの、続く言葉が出てこない。無理矢理といった風に絞り出したのは、ほぼ呟きに近かった。
「……お前、ホモかよ」
「ああ」
「……」
予想もしなかった即答に、何と反応を返すべきか。
「…何で俺を抱いた」
「理由が必要か」
「必要に決まってんだろ! 納得できる訳ねえ……」
つい先刻の出来事だ。思い出せば、頭を掻き毟りたい衝動が突き上げる。
放っておけばよかっただろう、と思う。散々に拒絶した大河の怪我を治す必要などないし、大河を抱く理由も、どこにもない筈だ。どこにもない。
自分自身もどうかしていたのだと思う。確かに全身、千切れそうなくらい痛かったが、身を襲う快感に抵抗することが出来なかった理由を、酷い怪我を負っていたことに求めるのは、少し無茶かもしれない。実際、痛みなどすぐに消えたのだから。
「嫌だったか」
そんなことを尋ねる犬飼を、思い切り殴り飛ばしてやりたくなった。
「当たり前だろ、男にやられる……なんて、有り得ねえ」
「でも感じてただろ」
「てねえよ!」
残り少ない矜持のために言い張るが、説得力も何もあったものじゃない。二度も、犬飼によって絶頂に導かれた。自分でも信じられないような声を上げていたのをこの男は確かに聴いている。
「つうか……離れろ」
犬飼の腕がいつの間にか大河の腹部に回って、背後から抱き締めていた。以前にもこのような体勢に陥ったことがあったかもしれない。
他人に、こういう風に妙に優しく触れられるのには慣れていない。まだ無邪気だった幼少時代を除いて、誰かに抱き締められたことはなかった。だからなのか、背中にぴったりと密着した安心感のある温もりに、心地よさと居心地の悪さの両方を感じている。胸がざわめいて落ち着かない。嫌だと言う大河を抱いた奴だ。
何なんだ、と思う。大河の要求通りに姿を消したかと思えば、半ば強引に抱くし、嫌がっているのに抱き締めてくる。気まぐれなのか、何か意図があってのことなのか、あるいは何も考えていないのか。本人は――そうだ、好きだから、とか何とか……言っていた気がする。さっきは流してしまったが、驚いたことに同性愛者らしい。これまで大河にしてきた数々の行為がその証拠か。
(そういう意味の好き……なのか……?)
引きつつあった顔の熱が、再び戻ってきた。今、相手が何を思って寄り添っているのか、考えれば考えるほど思考がないまぜにされて身体の筋肉も緊張してくる。そんな自分が気持ち悪い。
気持ちが勝手に浮き足立っているのは、好意を向けられた経験がないからだ。自分に言い聞かせる。別に大河が犬飼をどうこう思っている訳じゃない。犬飼は、ずっと鬱陶しいと思っていた相手だ。それは今でも変わらない……筈だ。いや。そうじゃない。
安心させようとこの体勢を取っているのか知らないが、大河は余計に落ち着かない。幽霊のくせに温かい身体、時折、項にかかる息遣いと柔らかい髪の毛の先。腹に回った、力強くもしなやかな腕。身体を休めたくてもなかなか意識が睡眠に向こうとしない。
「……これじゃ寝れねえ」
力任せに反抗するのは無駄だということを既に学習している。威嚇のように低く訴えてみると、身体が急に反転し、光景が一変した。
引き結ばれた唇。安定の色を示す瞳。犬飼の顔が視界一面に映り込む。それも束の間、正面からぎゅっと抱擁されて、鼻に人間の身体の感触がぶつかった。鼻腔を擽る爽やかな匂い。何故かさっきから、気分が落ち着かない。
「おい……っ」
大河の言葉をどう解釈したのか、抱き締めたまま犬飼は大河の背中を優しく撫でた。子供をあやすような甘い所作に、反抗したかった。けれど出来なかった。
本当は心の奥底で、犬飼が現れて助けてくれることをずっと願っていたから。こうして、何も言わず黙って抱き締めてくれることを。
「……犬飼」
顔は相手の肩口に埋もれているから籠った声音ではあったが、自分でも不思議なほど穏やかな声だと思った。背中を撫でるたおやかな温度が、酷く安心させる。ざわめいていた胸が軽くなって、大河はおずおずと犬飼の背中に腕を回してみた。体格はほとんど変わらない。
確かに生きているように温かいが、こんなに密着しているのに脈動というものは一切感じられなかった。何度も疑ったが、やはり死んでいるのだ。
「――お前が来てくれなきゃ、今度は確実に死んでた」
「死んでもよかったって、さっきはそう言ってた」
「……嘘に、決まってんだろ。本当に死にてえなんて思うかよ。死ぬのは……」
どれだけ必死に逃げても追いかけてくる大勢のウサギが、自分の周囲を取り囲んでいる光景が目に浮かぶ。みな一様に大河を見て、不気味に笑う。
「怖いか」
不意に核心を突かれた。怖いかどうかなど、そんなの決まっている。
相手の顔を見て話したいと思ったが、有無と言わせない力と心地よさで抱擁されているため、顔を上げることは出来ない。
「お前はどうなんだ」
「……何が」
「死んだ時……つか死ぬ瞬間。怖かったのかよ」
不躾な質問だった。大河はシーツの崩れた皺を見つめて待った。
「……さあ。分からない」
「分からないって」
「覚えていない」
この男は、何を訊いても分からないと答える。本当に自らのことが分からないのか、それとも本心は別の所にあるのか。所詮は他人のことだから、大河が推し量ることは不可能だ。それは心得ているのに、もどかしい。大河ばかり晒されているようで、納得いかない。
仮に自分が死ぬとしたら、一番に感じるのは恐怖だ。以前、夢で見た時は痛くて痛くて仕方なかった。背中に何度も何度も斧の刃が振り下ろされ、恐慌状態に陥る。自分の臓物が体外に出て潰れている光景は、今までに見た中で一番の悪夢だった。
あいつに、殺されてしまうのか。
目的は復讐、なのだろうか。二度も殺した大河を、殺そうというのか。
「……仲宗根、大丈夫だ」
心を読まれたのかと思った。
「な、んだよ。何が」
「怯えてる」
「何で分かるんだよ」
「何となく。お前のことなら」
「……」
「絶対に死なせない。俺が守るから」
そのために今、傍にいる、と犬飼は静かに言った。心なしか腕に籠る力が強くなったような気がした。
どうしてそんなに自信満々に、まるで当然のことのように断言できるのだろう。根拠も何もない、あるのはたった一人の意志だけだ。
酷く陳腐で頼りなく、信憑性のない言葉だが、犬飼が言うと絶対普遍の真理のように聞こえるのは何故だろう。心に植えつけられる安心感は快かった。
こいつになら全てを預けてもいいんじゃないか、と。恥ずかしいけれど、今更になって思う。信じてみようと思う。
「……かっこつけてんじゃねえよ」
落ち着かない、眠れないと言っていたこの体勢だが、今は背中を撫でられると逆に心地よい睡魔へと大河を引き摺る。大事な宝物を愛でるような所作。意識が沈み込む直前に、大河は目をこじ開けて言った。
「……ありがとな」
何年も使っていなかった言葉は、すぐには舌に染みこまなかった。犬飼が僅かに驚くような気配を感じながら、意識を泥に落とした。
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