アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
2
-
『俺ってなんだか優秀だったみたい。』
夕の言ったことは本当だった。
「とても入院していたとは思えないなぁ」
「ああ………市川先生。ありがとうございます」
授業に復帰して早々、呪文のような難問を夕は黒板の前ですらすらと解いてみせたのだ。その周りはすでに多くの人で囲まれていた。
時折黄色い歓声があがるのが分かる。
市川先生がふんわりと笑う教卓から遠く離れた机で、僕はと言うと一冊のノートを握りしめていた。
(こんなの…いらなかったな…)
夕が意識を失ってからずっと、各授業をまとめていたノート。
表題に 数学 とだけ書かれたそれは淡い水色で、中には僕なりに分かりやすくまとめられた数式や文字が書き綴られている。
「なんや、それ」
「斎藤…」
「そんなノート、使っとったけ?」
「いや、」
なんでもないよ、そう呟いてそっと鞄の中に仕舞う。なんだか今の自分が酷く滑稽に思えた。
「斎藤はどうしたの?珍しいね、市川先生いるのに」
「今日はえーんやよ。あんな囲まれとったらろくに話もできへんやろ」
囲まれているのは夕だけどね。とは言わなかった。言葉通りと言うべきか、案の定不貞腐れている斎藤に僕は笑った。
「寂しいんだ」
「ばっ…伊吹も、言うようになったやないか!ほれっ」
「ふふ…いたいってばっ」
こめかみをぐりぐりとされる。
言葉では非難するものの、あまり力は入っていないのかそれほど痛くは無い。
僕は痛みにのたうちまわるふりをして、足をバタつかせたりした。
そうやって斎藤と戯れていると横から声がかかる。
赤城だ。
「ちょっとお取り込み中悪いんだけど。伊吹、ここ教えてくんない?」
「なんや〜わからんところがあるんか?」
「斎藤さんには聞いてないんですけど」
「敬語!?」
「どれ?今日やったところ?」
さっきまでの僕のように頭を抱えた斎藤を無視して僕は赤城の席に椅子を寄せた。食堂のこともあって気不味いのだけれど、できるだけ平然とした顔で教科書をのぞきこむ。
それは一見すると、シンの告白など無かったような仕草だった。
「んーん。けっこう前にやったとこなんだけどいい?…これかな、」
「あー…ここは難しいよね」
赤城が指定したところは夏休みより前にやったところ。若干僕の苦手とする分野だった。
「ちょっと待ってね」
「ごめん、急で」
「全然いいよ。」
まさかこんな時に役立つとは思いもしなかった。例のノートを鞄から引き抜いて、開く。
たしか、このあたりにまとめてあったはず。
「んーっとね、まずは…」
シャーペンとルーズリーフを使って簡単に、それでも自分で答えが導けるように遠回しに言葉を紡いでゆく。案外僕はこういうのに向いてるんじゃ無いかと思う時がある。
予想通り数分たつと、赤城の指がぴくんと動いた。
「あ、分かったかも」
「そう?」
「ん…」
ふいに赤城の指が、シャーペンを握っていた僕の人差し指に触れた。それは驚くほどに冷たくて、まるで氷で固めた塊のようだった。
ドキリとして横を見れば、その切れ長の瞳と目が合う。
「…朝陽」
教室に流れる空気が一瞬にして密度を増したような気がした。
それはねっとりとまとわりつく。目尻が熱くなる。
「し………」
薄く開いた唇が、やけに赤く、艶かしくうつった。
しかしそれらはすぐに霧散する。
「俺もここ、教えてくれないかな」
急に耳許で響いた低い声。
「っ……!!」
僕は飛び上がるように右手を離した。
赤城は拗ねるように言う。
「いま俺が教えてもらってんの!」
「もう分かったんじゃないの?」
「いや、むしろ今からが大切なんだよ〜」
おどけた応えに、夕は目を細める。
「俺がかわりに教えてあげようか」
「え〜……スパルタは、嫌だよ」
その時赤城の椅子に軽く乗せていた左指に、覚えのある冷たさが触れた。
シンの右手だ。
「……、」
その小指は器用に爪と肉の間、柔らかな部分を突つく。
ちくりと痛みが走った。
「……ね、伊吹君はどう思う」
「………え?」
やばい。話を聞いていなかった。
意識を外していたとは言えずに、軽く首をひねる。
「えっと…?」
「俺ってスパルタだったの?」
「う、うん」
「斎藤がひいひい言ってたもんな〜」
絡む指は止まらない。この角度なら、おそらく夕には見えない。けれど。
「………!」
手の甲を這った指が、手首を撫でる。
「…伊吹君?」
「伊吹、どうしたの?」
「〜っ…な、」
休憩が終わること、それから6限目が始まることを知らせるチャイムがその場に大きく響いた。
とても偶然には思えないそれが張り詰めた空気に穴を開ける。
「たしか6限目は総合だよな」
同時に冷たい体温も離れて行った。
「伊吹君、先生が来るよ」
「…うん」
『修学旅行』
デカデカと大きく書かれたその文字は、頭を切り替えてはくれなかった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
72 / 97