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鞄を開けて、教科書を取り出す。
1限目の数学から6限目の現代文までの教科書を順番に重ねる。いつも決まった朝の儀式を行っても僕の気持ちは切り替わってはくれない。幸い今日の授業分の教材は昨日の教科でカバーできる。結局僕は1度も自分の部屋に戻らなかった。隣の席で赤城が予習をしている。たしかに昨夜は時間がなかった。申し訳ないことをしてしまった、と思う。僕は迷惑をかけてばかりだ。それでも考えることは決まっていて、夕のことばかりで。
夕はあの後どうしたんだろう。きっと光と一緒に夜ご飯を食べて、そして―・・
ぶんぶんと頭をふり、目の前の教科書に集中する。現実逃避するための理由なんていくらでもあった。修学旅行が終わったらすぐに期末考査だ。それに来年には本格的な受験勉強が待っている。
マーカーを持ち直した時だった。
ガラッと教室の扉が開いた。
と、同時に、まるで蝋燭の火を息で吹き消したように室内が静かになる。
その沈黙のなか、ふいに教科書に影が落ちる。僕はゆっくりとぎこちない動きで顔を上げた。
……………夕だ。
「おはよう」
低い声が僕のためだけに降ってくる。
おはよ、と、僕はすぐに答えられなかった。
そこにいつもの凛々しい面影が無かったからだ。目の下には濃い隈。青い瞳が昏く見えるのは眉が寄せられているからだと分かる。あきらかに不機嫌な顔。僕が昨日振り払ったからに違いない。
汗で滑るペンを握り直した。
「…おは、よ」
けれど夕は、すぐに僕に対する興味を失ったように顔をそらしてしまう。にっこり笑って
「赤城君も。おはよう」
と、僕の左隣に腰掛ける赤城に言った。
「おはよー、わ、なに、すごい隈じゃん」
赤城はカラカラと笑って答える。同時に教室中に張り詰めていた空気が音を立てて抜けた。喧騒のなかに再び溶け込んだ僕はひたすら前を向き、誰にもばれないように小さく拳を握り込んだ。尖った爪の先を手のひらに食い込ませることで涙を抑えられると思ったからだ。
「うん。寝不足なんだ」
真後ろに腰掛けた夕の声がダイレクトに届く。背中を見られているような気がして、ぎゅっと小さくなった。教科書の文字はいっさい頭に入らない。無意味に色付けられていく文字の羅列すら、何が書いてあるのかも理解できない。
「もうテスト勉強でもやってんの?あ、でもやってるよなー、朝陽も。」
「えっ…」
「…へえ、伊吹くんもやってるんだ。」
「………う…、うん」
後ろを振り向くなんて、できるはずない。
「朝陽はお前がいない間ずっと1位だったんだぜ?」
「そうなんだ。じゃあ、…取り返さないとな」
そのまま3人のなかに沈黙がおりて、再び赤城がシャーペンを動かし始めるまで僕は何もできなかった。悔しさと、悲しみと、怒らせてしまったという恐怖にただ俯くことしかできなかった。
そうしているうちにホームルームの時間になって、先生が教室に滑り込んでくる。
修学旅行についての連絡や、化学の授業が自習になった話が頭上を通り過ぎていった。
ふいにトン、と踵に小さな衝撃を感じて僕は硬直する。
「……、」
次は椅子の脚だ。周りには聞こえない、かたっという微弱な音。それが振動で伝わる。
見なくたって分かる。
夕の足が蹴ったんだ。
「…伊吹くん」
小さな声で囁かれて、思わず振り返る。
「……な、」
なに。そう言おうとしたけれど、だめだった。久しぶりに直視した夕の青い目が綺麗過ぎて、言葉がでない。
好きだ
そう強く思った。
「……ごめん、なんでもない」
そう言った夕は碧眼を細めて前を向くよう促す。座り直した僕の足を、再びこつんと夕の足が蹴った。
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