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『Arctic Days』①by.夏月亨
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去年の誕生日のことは思い出したくない。
何重にも塗り込められた、光射す隙間のない、漆黒の油絵のような日々はそこから始まった。
まあその日のことを思い出そうとしても、かなり抜け落ちてしまってもいるけれど。
僕、旧姓谷下準季(たにしたじゅんき)の誕生日は12月24日。
去年まではママとふたり暮らしをしていた。
食べ手がいない我が家では当然のことながら、クリスマスケーキが誕生日ケーキを兼ねることになる。
毎年膨らまなくてスポンジが固かったり、型崩れしたケーキしか作れないママに今年は立派なのが欲しい、とねだった。
「どうして誕生日がクリスマスなんだよ。一年に1回がまとめられちゃうと何だか損した気分。せめてケーキくらいちゃんとしたの食べたいよ!」
「はいはい、わかったわよ」
今から思うと、なんて我がままで心無いことを言ってしまったのだろう。
24日の朝。
予約したケーキを取りに行った帰り、ママは事故に遭った。
酔っ払いが運転するトラックが交差点を曲がりきれずに歩道に突っ込んできたのだと。
その時僕は、家でのん気に寝そべって漫画を読んでいた。
昼を過ぎても帰って来ない、もう2時間も過ぎているのにお腹すいたな。
そう思って時計を見上げた時、家の電話が鳴り響いた。
「谷下恵里子さんのお宅ですか?落ち着いて聞いてもらえますか?こちらはA病院です。恵里子さんが事故に遭われて、今救急車で搬送されたのですが頭を打っておられて、こちらで対処出来ないので脳神経外科専門のD病院に速やかに移します、場所は…」
喉がごくりと大きな音で鳴るのがわかった。
そこからの記憶は曖昧だ。
何が、どうして、でも、嘘だ、やっぱり…、疑問と混乱に支配され、機械的に病院の場所のメモを取り、家を飛び出す。
タクシーに乗り、何とか出たかすれた声で病院の名前を告げる。
こじんまりとした、古びた病院。
着いてすぐに手術の同意書にサインをし、手術中の赤いランプが消えるのをひたすら待つ。
体の中から来る寒さと恐怖に、待合室の隅で僕はひとり、がくがくと震える足を止められずに佇むしかなかった。
手術が終わり、手術を担当してくれた医師に呼ばれ説明を聞いたと思う。
頭が真っ白になってしまい、その時に言われた言葉はほとんど頭に入らず、思い出そうとしても今でも断片的にしか出てこない。
「厳しい」「回復の見込みはない」「覚悟しておいて欲しい」そんな言葉がぐるぐると空回りするばかり。
面会謝絶の札の貼られた集中治療室。
キャップとエプロン、手袋と使い捨ての無菌装備一式を身にまとい、厳重な消毒をしてカーテンで仕切られた狭いベッドに寝かされたママの顔を覗き見る。
ただただ、白い表情のない顔。
鬱血して腫れ上がる頬のせいでまるで違う人にしか見えなかった。
じっくりとその顔を見ても、全く現実感が伴わずぼおっとしていると看護師の人に身に付けていた、手術の為に切り刻んだ服と現場に残された鞄とを持って帰るようにと渡された。
医師はただ厳しく突き刺さる言葉ばかりを吐いた。
もっと優しい言葉をかけてほしかった。
だが「大丈夫」、その一言を聞かされることは一度もなく、看護師さんがぎゅっと僕の両肩に力を入れて掴んでくれた、その感触だけがリアルに残り、その後どうやって家に帰ったのかまったく覚えていない。
リビングのテーブルに置いたママがいつも使っている花柄の鞄。
茶色くなった血の染みと白い…生クリームの残骸がべったりとついている。
膝を抱え僕は多分、何時間もそうして染みを見つめていたんだと思う。
やがて、鞄の中の携帯電話が鳴り出すまで。
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