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『Arctic Days』③by.夏月亨
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その人は桧原創(ひのはらはじめ)と名乗った。
僕、谷下準季はそれからしばらくして消えた。
ママが亡くなる前の前の日に。
後からだんだんわかってきたことだが、桧原はママの勤めていた会社のエリア担当をしている保険外交員だった。
ママは桧原に勧められ、複数の保険に入っていたようだ。
僕とママに身寄りがないことは、その会社の社長やママ自身から聞き出していたのだろう。
僕が身近で頼れる大人はいないと言ったので病院から連絡があったのだろう、社長は手術が始まる前に駆けつけて来てくれ、待合室の角で震える僕はろくに返事も出来なかったが何かと声をかけ、手術内容の説明の時も後ろで付き添ってくれ、一旦家に帰るように、とタクシーに乗った時にも傍にいてくれたように思う。
その時、僕はこの人が病院の人なのか、ママの知り合いなのかそういう判断が全く出来ていなかった。
「準くん、大丈夫だよ、奇跡が起きると信じよう」
「どうする、これから準くん…、おじさんの家に来るかい?」
その時聞いた言葉。
今から考えても、ぞっとするような猫なで声。
あまりの不自然さに僕はその社長のことは反射的に拒絶したらしい。
それ以上の記憶はいい意味でも悪い意味でも残っていないのだ。
医師はただの一度も「大丈夫」と言わなかった。
けれど、2日目、3日目、…と続く経過説明の際、ほとんど頭には入ってこなかったけれど、術後の説明の時と同じく、一縷の希望も与えない、極寒を思わせる、つららの言葉の数々。
僕はそれを聞くたびに心が冷えて、寒くて寒くて、涙が止まらずに「なんてひどい奴なんだ」と医師に対し無言で責め立てていたが、4日目の朝、医師の目の奥の光が、違って見えた。
ママの今の状態は「脳死」で、このまま躰を維持しても目覚めることはない。
内臓機能を保持しようとして薬を投与すれば、腎臓に負担が来て顔や躰がむくみ土気色になる。
腎臓の負担を下げる薬を投与すれば、躰の機能が落ちて死んでしまう。
自発的な呼吸は一切していない。
そこに横たわるのは、「生かされているだけの躰」なのだと。
医師は僕に尋ねた。
「脳幹の2度の手術を行いました。適切な処置だったと思います。ですが何度も説明したように、脳に致命的なダメージを負っているので、あとは今の治療を継続する、医師として出来ることはそれだけです。治療を継続しますか??」
断頭台に上るような気分とはこのことだろう。
ママの生死をただひとり、僕が決める。
生を選んでも、ママの笑顔を見ることはできない。
ある時、ママの瞼が動いてもいないのに表情が変わって見えた。
「看護師さん、来て。…ママが笑ってる、笑ってるよ!」
「ああ、本当ね。…生理現象でそう見えることがあるんですよ。涙も流されたりもするんですよ」
そんな残酷で優しい言葉を何度も何度も尋ねては聞かされた。
死を選べば、僕はどうなってしまうのだろう。
僕は真横にいる桧原の顔を仰ぎ見た。
桧原は僕の顔を見つめ「大丈夫」とそれだけを呟いた。それはそれは、優しい目をして。
この時社長がダメで、どうして桧原を自分のプライベートスペースに入れてしまったのか。
僕自身にもそれは説明がつかない。
「大丈夫」という言葉の主語が何なのかと、考えがまとまらないまま正面に向き直り、怖くて今まであまり見ることの出来なかった医師の目を見据え、僕はこう言った。
「ママを…、一番楽なように、苦しまないようにしてください」
その時の医師の瞳の色を僕は忘れない。
「わかりました」
その一言に込められた慈愛の響きを、一生忘れることはないだろう。
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