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『Arctic Days』⑥by.夏月亨
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僕は高校の卒業式を待たずに家出した。
桧原にバレないように、学費分のバイトをすると言って家出資金を貯めた。
僕を片時も離そうとせず、桧原は一緒に暮らした10年間、ただの一度も働こうとはしなかった。
極貧を極めその日の食事にも困る有様だったので桧原は渋々、その承諾だけは受け入れた。
はじめはバイト先で知り合った人の家に住まわせてもらい、卒業までの日々を息を詰めて過ごした。
3月の半ばを迎え、寮を与えてくれる工場のアルバイトを始めた。
最寄の駅から徒歩だと1時間もかかる山の中の工場で、朝から晩までハンダ付けや部品の取り付けなどの軽作業に明け暮れる。
同僚たちは休みの日は地元に戻ったり、街に出て溜まったうっぷんを晴らしているようだったが僕はしたいことが何も思い浮かばず、持ち込んだ数冊の本を穴が開く程読み、両手を広げて天井を見つめながら寝転び、一畳分の自由を満喫した。
この世でただひとり。
その淋しさと人の温もりに飢えてはいたがその時はただただ、それが至福に思えたのだ。
それから数年間、契約が切れるごとに職場を変えながら凡庸な日々を過ごした。
遊ぶことをしなかったので金は溜まる一方だったが、ある時職場で盗難事件が起こった。
僕が一番寮にいる時間が多かったのと、無くなった通帳のひとつが僕の部屋から見つかったことで当然、疑いの目は僕に向けられ、警察を呼ぶ騒ぎになった。
結局、銀行のATMに写る防犯カメラの映像で同じ寮に住む奴の犯行だとわかり、僕も仕立て上げられた被害者とみなされたが、どうにもその後の人間関係がぎくしゃくとして居心地が悪くなり辞めることにした。
住む場所を失いまた同じような職種を、と求人情報誌を手に取ってはみたが、この際自分で住む部屋を探そうと思い、他人の住み家を観察するのにもいいか、と引越し屋のアルバイトに申し込んでみることにした。
「兄ちゃん、ガタイがいいねぇ。何、住むトコないの?じゃ、俺んち住め」
頭がてかてかに禿げた恰幅のいい社長は、豪気にからからと笑い息子が結婚を機に出て行った部屋があるから、とそこを気前よく貸してくれた。
そうして、全ての季節を経験し今の仕事にすっかり馴染んだ頃、元住んでいたボロアパートから程近い住居の引越し作業に当たることになった。
現場の積み込み作業を終え、後は事務所に戻るだけとなり「以前住んでいた街だから少し散策したい」と断りを入れ、同僚達の乗るトラックを見送った。
アパートに足を運びながら川沿いを歩く。
無数の菜の花が咲き、モンシロチョウがひらひらと舞っている。
この街を離れて3年が過ぎていた。
細い路地に入り、建物があるはずの場所にたどり着くと、コインパーキングになっていた。
しばらく僕は呆然と立ちすくんだ。
そして家賃を滞納し、何度も嫌な顔をされた覚えのある大家の下を訪れてみることにした。
「あの、アパートに住んでいた桧原さんはどこに行かれたかご存知ですか?」
桧原、と口に出した瞬間、大家の目が吊り上がり、口がへの字に曲がった。
「あんた誰?桧原の知り合い??あいつの自殺のせいで、アパートが貸せなくなったのよ」
大家の文句は延々と続いた。
一年も前に桧原が死んだこと。
警察が来てブルーシートに囲まれ、何日もそのままだったこと。
発見が遅れ、その後の部屋の後処理が専門の業者に頼んでも大変だったこと。
アパートの人間が同時期にいなくなり、次の借り手もなかなか見つからなくなったこと。
経営が立ち行かなくなりアパートを取り壊し、駐車場にすることになったのだと言う。
僕は大家に息子だと名乗り迷惑をかけたことを謝り、手元にある現金の半分を大家に手渡した。
大家はそれで幾分機嫌をよくしたらしく、
「警察に行ったら、もう少し詳しくわかると思うわよ。部屋にある物の引き取り手はいないか、とか聞かれたから何か残ってると思うし。金目の物ではないはずだけどね」
と教えてくれた。
警察に行って渡された物は、母の位牌と貸金庫の鍵、だった。
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