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予想なんかしてなかったから、一瞬反応が遅れた。
すぐ側にいた姐さんの体が、じたばたとバランスを崩した末に、階段に向かって倒れ込む。ビックリ顔で、ぽかんと口を開けて落ちてく姐さん。
悲鳴は聞こえなかった。
悲鳴を上げる余裕が姐さんになかったのか、それを聞く余裕がオレになかったのか? 冷静に考える間も、勿論なかった。
「危ねぇ」って叫ぶこともできねぇ。
オレにできたのは、とっさに1段降りて姐さんの腕を掴むことだけだった。
途端に右腕にかかる負荷。
引っ張られて、ぐらっと傾く重心。倒れる前に右足を軸にして、姐さんと位置を入れ替わる。
「きゃあっ」
姐さんが悲鳴を上げて廊下に倒れ込んだけど、今度こそ構ってらんねぇ。
いくら痩せてるっつっても40kgは下らねぇ、成人女性をぶん投げた反動で、こっちのバランスが大きく崩れた。
ヤベェ、って思ったけど、立て直せねぇ。踏ん張るつもりで踏み込んだ足が、逆にもつれてトドメを刺した。
危険を悟るとゾッとした。
とっさには、やっぱ悲鳴なんて出ねぇモンなんだな。
足元が狭い。尻もちつきたくても、あるべき場所に床がねぇ。落下感にひやっとしながら、アゴを引いて最低限の受け身をとる。
直後、ダンッと背中に衝撃が来て、がはっと肺から空気が漏れた。
「きゃーっ!」
キンキン声での悲鳴が響く。
「きゃーっ、誰か! きゃーっ!」
「八木君、しっかり!」
悲鳴に紛れてオレを呼ぶのは、姐さんだろうか? じゃあ、叫んでんのは元凶の女? 体が痛くて目が開かねぇ。
頭が下になってんのが分かる。階段に斜めに倒れてて、ずりずりと下に滑り落ちる。
とっさに庇ったハズの頭が、1段1段落ちるたびに、ゴンゴンと打ち付けられて痛ぇ。けど、それより背中と左肩が痛ぇ。息を吸うことも吐くこともできねーで、苦しさが紛れねぇ。
やがて体が落ちなくなって、平らな床の感触に、踊り場まで来たのが分かった。
「う……」
呻きながら体を丸める中、バラバラといっぱいの足音を聞く。
「やああああ、どうしようっ、ごめんなさいっ、わああああっ」
誰か泣いてる気がすんのは、なんでだろう?
「こっちです!」
「どうしたの?」
「誰か落ちたの?」
「どっ、どうかしましたかっ!?」
ざわめくたくさんの声の中に、動揺しまくった七瀬の少し高い声が聞こえて、自分でもおかしいくらいにホッとした。
「八木君っ!」
七瀬が悲鳴とともにオレを呼んだ。
飛ぶように階段を駆け降りて、オレの側に来てくれる。
「怪我はっ!? 意識あるっ!?」
肩をパンッと叩かれて、「ああ……」と弱々しく返事する。
「平気……。打っただけだ……」
痛みに息を詰めながら、ゆっくり目を開けて七瀬を見る。
「頭、打った? 痛いトコ、どこ?」
今にも泣きそうな顔、泣きそうな声で、それでもちゃんと確認してくれる七瀬は、やっぱプロのスタッフなんだなと思った。
ビビらず、キョドらず、冷静に、オレの状態を観察してる。
「名前、言える? 今日、何月何日かな?」
そんな問いに、素直に答えながら周りにちょっと目を向けると、階段の上下が野次馬でいっぱいだった。
間もなく七瀬の同僚がやって来て、手際よく担架に乗せられた。
歩けるっつったんだけど、七瀬に「ダメッ!」って強い口調で言われたら、従うしかねぇ。まだ救急車とか呼ばれてねぇだけマシなんだろう。
5階の奥、「立ち入り禁止」のドアの向こうに運ばれて、仮眠室の固いベッドに寝かされる。
後で車で、日曜もやってる病院まで連れてってくれるらしい。それまで冷やして安静にするように言われて、「大袈裟だろ」って苦笑した。
RICEって、そういや昔習ったな。英語で何つったっけ? 安静と冷却と圧迫と……? 学生時代を思い出し、ほろ苦い思いがよみがえる。
階段の手すりに掴まればよかった。けど、とっさに思いつくもんじゃねぇらしい。足がもつれるとか、自分でもダセェ。現役時代ならもうちょっと、ダメージ軽くできたと思うのに。
「あー、やっぱ体が重くなってんだな」
ぼやきながら目を閉じる。
「ちゃんと寝ててね?」
七瀬は心配そうな顔でアイシングの手配して、そんでも仕事だからっつって、スタジオレッスンに戻ってった。
代わりに別のスタッフに連れられて、姐さんと小柄な女が謝りに来た。
姐さんはともかく、例の女にはムカつかねーでもなかったけど、そういや助けを呼んでくれたのは、あのキンキン声だったし。反省してんのは顔見りゃ分かったから、文句は言わなかった。
「本当に、申し訳ありませんでした」
泣きじゃくった後のボロボロな顔で、頭を下げる女に「もういーよ」と声をかける。
「オレより、姐さんに謝れよ」
そう言うと、女は神妙な顔して、隣にいた姐さんにも頭を下げた。
オレが自分で階段落ちたことにして、あんま大ゴトにしねーで貰ったのは、七瀬に迷惑かけたくなかったからだ。
まだ数回通っただけだけど、ここの雰囲気は結構気に入ってるし。何より、七瀬がせっかく頑張ってる職場に、マイナスになるようなことしたくなかった。
治療費は払ってくれるっつーから、オレとしてはそれでいい。
しつこい付きまといも、やめてくれるんだそうだ。
「目が覚めました」
ちょっとだけ笑って、恥ずかしそうに赤くなった顔は、十分可愛いし魅力的だと思う。
オレは女なんかに興味ねーしどうでもいーけど、可愛いって誉めて、「他の男にしとけ」ってニヤッと笑ってやると、こくこくうなずいてたし大丈夫だろう。
オレも、この女のバイタリティには戦慄したし。七瀬のこと諦めてくれるんなら喜ばしい。
「何かあったら、連絡ください」
深々と頭を下げられ、連絡先の書かれたカードを女から差し出される。
頭打った訳でもねーし、打ち身だけだと思うし。連絡することはなさそうだけど、念のために受け取った。
もしケガをしたのが七瀬なら――その間はレッスンもできねぇだろうし、休業補償とか大変なんじゃねーのかな? その点オレは、普通のリーマンだし。背中を打ってようと、腰が痛かろうと、月曜日は普通に仕事だ。
「八木君、お待たせ。整形外科行こう」
私服に着替えた七瀬の手ぇ借りて、ゆっくりベッドから起き上がる。痛みに息を詰めつつ、痛そうにはしたくなかった。
「痺れとか、ない?」
気遣わしそうに世話を焼いてくれる七瀬からは、動揺の影は消えてたけど。代わりにちょっとだけ甘さが出てて、こんな状況だけど嬉しかった。
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