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雨が止んだその日◇06
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それまで自由にしていてと言われたけれど、うまく暇を潰せないでいた。
テレビをつけてバラエティ番組でも見ようかな。本がたくさんあるから読んでいようかな。
はじめて訪れる場所のように隅々まで眺め、訳もなく天井を見つめる。けれど何かをするという行為もやめてしまった。手を伸ばせばすぐそこなのに、どれも決して触れてはいけないもののように思えて。
「真守の家なら楽にできたのに」
親しくなったと思っても、こういう場面に直面すると距離を感じる。少しでも心を開けていたのなら、のんびりと過ごせていたのかもしれない。
そう思ってぼうっとしていると、一枚の写真立てが目についた。テレビ台の脇にある、いつも伏せられていたあの写真立てが、今日は珍しくそのままだ。おそらく結婚式のときに撮られたもので、ドレスとタキシードを身に纏う二人の幸せそうな表情。
「これって……」
桑原さんと、奥さん。
「……笑ってる」
いつも見ているはずの笑い顔なのに、はじめて見たかのように遠かった。
たぶん俺は、桑原さんの本当の笑顔を見たことがないんだ。
そっとツーショットの写真に手を伸ばすと、ひんやりと冷たい感覚を覚えて手を引いた。
「……敵わない。無理だよ俺には、無理だ」
彼との未来なんて、どこにもないんだ。
「どうしたの」
「あッ、いや……」
桑原さんの声に振り向いたものの、顔を凝視できずに頭を下げた。
髪が湿っていた。どこかぽかぽかと熱を持って、温かそう。
「……その写真ね、」
ぴく、と自分の指先が震えた。
「結婚式のときのだよ」
やっぱり。
「幸せそうでしょう。幸せだったんだ」
「……はい」
「でもね、もう踏ん切りはついているんだ。過去は過去、そう思うようにしている」
ーー嘘だ。 そんな簡単に、忘れられるわけがない。大好きで、結婚までした相手が死んで、忘れられるわけがない。
忘れちゃいけない。そんな大事なこと。
「……だめです」
「え?」
「だめです!忘れちゃだめです!」
身構える桑原さんに、さらに言い怒鳴るように口を大きく開いた。
「無理なんかしなくていいんです。無理に忘れなくていいんです。桑原さんが辛そうに笑うの、俺はもう見たくない……っ」
写真で見た笑顔はきっと本物だろう。身勝手だと思いつつも、その笑顔が見たかった。
他人だとか子供だとか関係なしに、全てを吐いて聞かせて欲しかった。
どこかで特別に、なりたかった。
「涼太くん……」
不毛だと知りながら、またこの人に恋をしている。
「ゼリー、食べようか。冷えていて美味しいよ、きっと」
「……はい」
カチカチと音を鳴らしてミカンゼリーを口に流していた。
俺の機嫌を伺って、度々「美味しいね」と繰り返す彼が健気で、悔しい。
「……涼太くんは、どうしようもないくらい誰かを好きになったことがあるかい」
「え……?」
小さく笑って一度俺を見ると、桑原さんは少し俯いて続けた。
「忘れてないよ。そりゃあ忘れられないさ、結婚までした相手だからね」
なぜか胸が痛んで、誤魔化すようにゼリーを噛み締める。
「初恋の人だって覚えているんだよ。……でもね、いくら覚えていても、また誰かを好きになるんだ」
「誰かを好きになったんですか」
「涼太くんは、好きな人がいるかい」
「俺、ですか。俺は……宮崎さんに、告白されました。桑原さんと偶然会って、一緒に荷物を持って帰ったあの日に」
「そうかい、あの時に。彼女に悪いことをしてしまったなあ」
「でも宮崎さんとは付き合いません。……俺、別に好きな人ができたんです」
今にも消えそうな声で、そうか、と呟いたこの男は、今何を思うだろう。
届かない最愛の妻を想い返しているのならば、どうか一瞬でも笑ってほしい。俺が彼を笑わせることは、できないのだから。
「……可哀想な人なんです。好きな人と離れ離れになって、可哀想な人なんです。そんな人が、好きなんです」
「私と似ているね、なんて」
「そっくりです」
馬鹿みたいなこの言葉が例えば素直に言えたとして、それはきっとまた桑原さんを困らす厄介なものにしかならないと分かってしまったから。
最後のゼリーをまとめてかき上げて、「でも、全然似てないです」と苦し紛れに続けた言葉は、あなたにどう写っただろう。
「ごちそうさまでした。久しぶりに食べると、ゼリーも美味しいですね」
無理に歯を見せて笑うと、彼も微かに口元を緩めた。
「そうだね。ありがとう、涼太くん」
いいえ、と首を振ると、桑原さんは視線をズラして恐る恐る口を開いて言った。
「男二人で恋の話なんて嫌だったろう。ごめんね」
「えっ……いえ、そんな」
「ああ、もうこんな時間だ。布団を引くのを手伝ってくれないか」
「……はい」
この広すぎる部屋に再び静寂が訪れるのは直ぐのことだった。
雨なんて降っていない星がまばらに見える夜だったが、どこかであの音を欲した。
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