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雨が降った日◇03
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約束の日の一日前、金曜の五時半過ぎに桑原さんの家に向かった。
実は放課後わざわざ駅前のスーパーに寄って、豆腐、ひき肉、長ネギをレジ袋に詰めて一度向かったのだが、インターフォンからの反応がないのでしぶしぶ一時帰宅したのだ。
そりゃあそうか、平日だって美術館はやっている。仕事があるに決まっているじゃないかと寂しさを押し込めて、自宅でひとり、麻婆豆腐を作っておいた。
それからラフな格好に着替えて身支度を済ませ、タッパーに詰めた麻婆豆腐を片手に再び彼の家に向かうのだ。
「もう帰ってきてるかな、桑原さん」
自然と足早になりながら空を見上げると、まだ明るいことに違和感を覚えた。つい先日までは暗く肌寒い夜道も、あっという間に夏に近付くのか。早いものだ。
本日二度目のチャイムを鳴らしても応答はなかった。
時刻は六時三分。
「まだ、か……」
定時上がりでもさすがに早く来すぎたと苦笑いを浮かべ、近くのコンビニで暇を潰すことにした。ここから五分程度だし、駅への通り道になっているからきっと桑原さんにも会う。今日もまたデザートを選んでおこう。そんなことを考えて商品の前で突っ立っていると、久しぶりのあの声が俺を呼んだ。
「涼太くん」
私服で会うのはお互い初めてで、一瞬誰だか分からずに沈黙が続いた。
「……宮崎さん?」
「こんなところで会うだなんてびっくり。恥ずかしいなあ、部屋着で来ちゃった」
頬をほんのり染めてもじもじと動く彼女は、キャミソールに白いパーカーを羽織り、ショートパンツとスニーカーという確かにお洒落とは言えない格好だった。けれど俺も人の事は言えない。
「大丈夫だよ、俺も部屋着で出て来ちゃったから。ダサいよね」
ははっ、と誤魔化して笑う俺に宮崎さんは至って真面目に「そんなことないよ」と否定した。素直に喜べないのは、彼女の下心を知っているから。
「涼太くんは、かっこいいよ」
何かを伝えるとき、宮崎さんはいつも真っ直ぐに目を見つめて言う。小動物のような大きなキラキラした目で、俺に告げる。彼女のそういった性格は好きだった。
「……あの、返事なんだけど……」
「宮崎さん、ごめん、俺まだ……」
違う。本当はとっくのとうに答えなんか出てる。
「考えて、くれてたの?」
「え」
宮崎さんの声は俺の元に曲がることなく素直に届き、同時に俺に罪悪感を与えた。
「私のこと、少しでも思い出してくれたかな」
「っ……」
俺はいつだって返事だけは達者で、純粋なふりをして嘘ばかり吐く最低な人間だ。
ーー考えてなんかいなかった。寝ても冷めても、あの男、桑原秀助のことばかりを想っていた。
「……。考えてたよ」
少しだけ声が震えた。
「そっか。ありがとう」
彼女の目を見るのが怖くて反らした視線の先に、桑原さんを見つけた。相変わらず暗い色合いの服を着て、左手に仕事用と思われる鞄を持っていた。
「ご、めん。俺、もう行かなきゃ」
逃げるようにして出口に向かうと、桑原さんと目が合った。たぶん隣にいる、宮崎さんとも。
「待って!」
声を荒げた彼女の手が、俺の右手首を掴む。
行かないで、という、無言の訴えだった。
「……宮崎さん、俺やっぱり、」
「涼太くんはあの人が好きなの」
動揺した。ピクリと指先が震えて奇妙な冷や汗が流れる。
「どうして、そう思うの」
否定とも肯定ともとれない、上擦った言葉が出た。
ドクッ、ドクッ、という心臓の音がすぐ耳元で鳴っているようで、周りに人がいることさえ忘れさせる。
「涼太くんが好きだから。涼太くんのことずっと見てたから。……分かるの」
俺の元に雑音が届いたのは数秒後のことで、レジを打つ機械音、雑誌をめくる音、お菓子売り場ではしゃぐ子供の声、誰一人俺たちのことは気にしていないようだった。
宮崎さんを見ずに頷いた俺を、彼女が見ていたか分からないけれど、今度は彼女の手が微かに動いたので察しがついた。
「……ごめん、宮崎さん」
「男の人だよ、涼太くんも、あの人も」
軽蔑か、それとも偏見か。どちらにしろ悪いようにしか取れなくて、悪いことしかしてなくて。
「変、だよね。俺もこんなのはじめてで、どうしたらいいか、分からないんだ」
情けなく震えた声と共に彼女の腕が離れた。
諦めたような、呆れたような脱力感が伝わる。
「……ごめん、宮崎さん、……ありがとう」
正面を見たときにはもう桑原さんはいなくて、きっと気を使ってくれたのだろう。
以前、彼と俺と宮崎さんの三人が会ったときのことを、彼は申し訳ないと言った。俺に、いやもしかしたら宮崎さんに、気を使ったのだ。
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