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雨が止んだ日◇09
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二十四時をとうに過ぎた頃、二人でシャワーを浴びた。お互いの体を洗い合って、重なるようにして湯船に浸かった。
「こんな日が来るなんて夢にも思いませんでした」
そうはにかみながら告げると、彼もまた笑って幸せだと答えた。
再び寝室へ戻り二枚隙間なく付けられた布団にそれぞれ潜る。暖かい空気と共に外で車の音が遠くへ聞こえた。
静寂の中、俺と桑原さん、二人きり。
「……桑原さん、ありがとうございました」
「何が?」
不思議そうに微笑んで横目で見つめる彼に「抱いてくれて」と戯けて見せた。
「私も、抱かせてくれてありがとう」
同じように戯ける彼に一緒になって笑った。
「もう“俺”って言わなくなっちゃうんですね」
「涼太くんの前では、格好いい大人でいたいから」
「十分格好いいのに」
奥さんには何て言ったのだろう。未だにそんなことを考えてしまうのは、俺の悪い癖。
「……手、繋いでもいいですか」
「ああ、いいよ」
毛布の隙間から手を出して、探るようにして指一本一本を絡め合う。
大きな手。優しい手。
俺を抱いたこの手。
「俺、ずっとこうしたかったんです。桑原さんに触れられるたびに、もっと触って欲しい。手を繋ぎたい。抱き締めて欲しいって。……自分がどんどん女になっていくみたいで、少し気持ち悪くて不安でした」
眉を下げて笑うと、桑原さんもこちらを向いて嬉しそうに笑む。
「これからは沢山してあげられるよ」
優しい彼が痛い。刺さった小さな棘は、まだ抜け切れていない。
「明日は、この家でのんびりしたいです。この家の思い出を、少しでも増やしたいんです」
「いいよ」
「それでもう二度と、ここには来ません」
彼の表情が一瞬にしてに険しくなった。優しさなんてどこかに消え去り、怒っているような、苦しいような、真剣な表情に変わる。
「どうして」
それでも俺は馬鹿みたいにへらへらとして、続けて言った。
「やっぱり俺には無理です。桑原さんと奥さんの思い出を壊すこと、潰すこと、塗り替えること、……俺にはできません」
「何度も言っているでしょう。涼太くんが壊すなんてことないよ」
「桑原さんがそう言ってくれるのは分かります。でも俺には無理です。たぶん、同情なんですよ。桑原さんのこと奪っちゃったら、奥さんがあまりにも惨めすぎる」
「……私は諦めるつもりはないよ、涼太くんのこと。涼太くんが好きだから」
握られている手の力が増した。強くて折れてしまいそう。彼の気持ちが伝わってくるようだった。
「そういえば桑原さん、諦め悪いんでしたっけ。奥さんにも、そうやって何度もプロポーズしたんですよね」
あはは、とわざとらしく笑うと、彼が不愉快そうに俺を睨む。
「ご、めんなさい……。やっぱり俺、無理ですよ。桑原さんと一緒にいる資格、ない……」
テレビの横に置いてある写真立ては、今でも伏せたままだった。泊りに来る時に寝かせてくれるこの場所は、リビングの隣にある襖で区切った和室。二階には、上がったこともなかった。
「……信じて、ないのかもしれません、桑原さんのこと」
どうしようもなく不安だった。
美しく描かれたあの夕暮れの町並みを見たとき、日が沈むのに温かかった。優しかった。
もし奥さんと同じ場所に立って同じ風景を見たとき、俺はきっと思うだろう。
「……ごめんなさい」
暗い闇しかない夜なんて来なければいい。
隣にいられるかも分からない明日なんかいらない。
このまま時間が止まって、彼と二人、いられればそれでいい。
「ごめ、なさい……っ」
顔を伏せて啜り泣く俺の手を、桑原さんは優しく包むようにして両手で握った。
「もし……もし美術館も行かないで、あの話もしなければ……普通に好きだと告げて、抱き合って、この先も涼太くんと一緒にいられた……?」
返事もしない沈黙の中、桑原さんは「……後悔ばっかりだ」と情けなく笑った。
雨の多く降る六月も、もう終わろうとしていた。
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