アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
手紙◇02
-
十分置きに鳴る甲高い目覚まし時計を、使わなくなったのはいつだろう。
俺が実家を出て行くときに、母がくれた黒いだけの置き時計。当時の俺が使うにはあまりにも格好悪くて、素直に喜べなかったのを覚えている。
「日比谷、そろそろ起きて。遅刻するよ」
「あー……」
翌朝、いつもと変わらずエプロンを身に付けた木下が、キッチンから顔を出して怒鳴る。
マシな返事もできずに重たい体を起こすと、甘ったるいバターの匂いが漂うのを感じる。今日は食パンにバターのみだ。軽く予想を立ててテーブルの上を眺めると、案の定二枚の食パンがサラダの隣でこんがり焼けていた。
「何してるのさ、早く顔を洗ってきな!今日は飲みに行くんでしょう?早く会社に行ってテキパキ働かないと、仕事終わらないよ」
ーー木下は、一昨日の夜のことを覚えていない。俺が何をしたのかも、自分が何を言ったのかも。
「……ミサキ、さん」
ゆっくりと記憶を辿るように呟くと、木下が顔を覗かせて「何か言った?」と小首を傾げる。
形から入る俺が料理もしないのに買った茶色いエプロンが、今では様になっていた。
「……いいや、何でもない。コーヒー淹れてくれるか」
「もう淹れてるよ、お坊っちゃま」
歩み寄ってきた彼が、銀紙に包まれた何かを布に包んで俺に差し出す。
「荷物多くない方が良いでしょう。おにぎりにしといたから、ゴミは捨ててきて」
「あ、ああ……。ありがとう」
味は分からないが、感触的に大きいおにぎりが三つ。いかにも男が食べるものと分かるほどのそれは、二ヶ月ほど前に食べたことがある。木下を初めて泊まらせた日の朝、彼が作ってくれていたのだ。
「なんだよ、昼もパン派だとか言うんじゃないだろうな」
楽しそうに笑う彼が、小さくて綺麗な白い歯を見せる。
「まさか。懐かしいなと思っただけだよ」
「ふふっ、よかった」
彼の笑顔を見るたびに、もやもやと心の奥の方で厄介ものができていた。
闇の中に沈んでいるであろう彼を救いたいヒーローと、余計な世話を焼いてしまうのが嫌で逃げ惑う本心が、俺の脳内を土足で動きまわる。
「……あのさ、木下」
小首を傾げた木下が、振り返って俺を見る。
「木下は、」
木下は、今でも恋人のことが好きなの。
「……どこで、バイトしてるの」
「バイト?ほら、二駅先の駅前に、新しくコンビニができたじゃん。下り方面のあそこだよ。俺、住んでたところがそっち方面なんだ」
「住んでたところ?家賃でも払えなくなって、追い出されたのか」
「まさか。そこまでお金には困っていないよ。……喧嘩したんだよ、恋人と。それでカッとなって、出てきちゃった」
「……お前、ヒモだったのか」
顔を顰めた俺と同じような表情を見せて、「合意の上だよ」と俺を睨む。
「今の俺たちみたいな感じだったんだ。相手が仕事に行って、俺が家事をする。でもさすがに罪悪感もあって、バイトを始めた途端に喧嘩。俺がバイトするの、気に食わなかったみたい」
ケンカ、と笑いながら言う彼の表情は見ないで、僅かに見え隠れする黒い痣ばかりを眺めていた。
どうしても喧嘩の理由も内容も聞けなくて、在り来たりな言葉しか浮かばないでいた。
「その女もずいぶん仕事熱心なんだな。俺が女だったら、自分ばかり仕事は嫌になる。木下も女ばかりに仕事をさせるのは嫌だったのか?男だもんな、プライドみたいな感じか」
「ーーオンナ」
焼き立てのパンに口を付けると、サクッと良い音が響いて粉が散った。
「……まあ、そんな感じ」
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
21 / 46