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確かなこと◇02
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「……ごめん。びっくりしたでしょう」
野次馬も消え去ったベンチに大人しく並んで座る。
木下の左頬が驚くほどに腫れ上がっていた。もう血は止まったけれど、彼の服に染み付いた赤い模様はなかなか消えない。
「ああ、ちょっと……いや結構。ひどい人なんだな、木下に言うのもおかしな話だけどさ」
情けなく笑った木下が、自分の腕をきつく抱いて俯く。まだ微かに、か細い体が震えていた。
「あの人は……三崎さんは、俺が中学を卒業して、高校でちょっとヤンチャしてるときから、よく面倒を見てくれてた人なんだ」
俺は木下の言葉を一言一句逃さないよう、彼の頭部しか見えない、その色素の薄い髪を凝視した。
「性別なんて関係なく毎晩違う人と遊んで過ごして、傷付いて傷付けて帰ってくる俺を助けてくれた。十歳も上の三崎さんは俺に泊まる部屋を貸してくれて、食事を出してくれて、あの人とは身体の関係は持たなかった。……でも四年が経ったとき、三崎さんの会社に噂が広まったんだ。三崎さんが学生を援交しているって。しかも男ときた。もちろんそんな事実はなかったし、三崎さんも気にしなくていい、そのうち収まるって言ってくれた」
年ばかり大人になった木下と再会したあの日、青紫色に痣になった痛々しい証だけが、俺がミサキという誰かをイメージする術だった。
先入観というのは想像したよりも強く、あの男がどれほど優しく他の誰かを愛し誰かから愛されようが、木下裕也というひとりの人間を傷めつけたことに変わりはなかった。その木下が例え男を庇おうが、俺は木下と同じように男を愛することはできない。
「……でも駄目だった。噂は上まで伝わって、援交なんて警察沙汰になったら困るからって三崎さんは会社をクビになった。……それからだよ、三崎さんがこんなことをするようになったのは」
こんなこと。そう言った彼が、ゆっくりと自分の腕を撫でる。
「有りもしない噂でどうせクビになるのなら、ヤッておけばよかった。俺がこんなに落ちぶれたのは、全部お前のせいだ。そう言って俺を性と暴力の対象にした」
『じゃあ今は……』
『別の人と付き合ってる』
あのときの言葉は、本心だったのだろうか。恋人と呼ぶにはあまりにも残酷な行為を、彼は本心でそう名付けたのだろうか。
「ッ……何も言い返せなかった!俺は今までずっと三崎さんに甘えていた。何を言われても、言い返す資格なんかないっ」
『浮気じゃん』
『俺はいいんだよ』
木下
お前は、本当は逃げたかったのか?
「……三崎さんは、俺に暴力を振るうくせに笑うんだ。俺を救ってくれたあの時と同じ優しい顔で笑うんだ。最後に泣きながら、ごめんねって抱きしめるんだ。そうやって徐々に暴力と優しさは大きくなって、俺を必要以上に腫物のように扱った。大学は辞めさせられて、それからの就職先も探させない。ずっと三崎さんの家に閉じ込めるようにされて、必要なものは全部三崎さんを通した」
監禁じゃないか。そう言おうとして止めた。
彼らの中に、確かに愛はあったのだろうか。
「……暫くして、三崎さんにも再就職先が見つかったんだ。俺は心から喜んだよ。でもそれは、彼への償いじゃなくて安堵だったのかもしれない。やっと解放される、って。三崎さんが仕事を始めて家にいる時間も少なくなって、彼の気持ちも落ち着いてきたんだ。俺は前より外出を許されるようになったし、お互いに笑顔も増えた。……ただ、職場のストレスで帰ってくる日の夜は酷かったけど……。でも俺も、それには慣れちゃったから」
お互いがお互いを利用する関係。
木下は三崎という男を使って荒れていた時代の唯一の居場所をつくった。そして三崎は木下を使ってストレス発散の場をつくった。
お互いの意見が一致していれば、そういった関係性もありなのかもしれない。そういった関係を持った人もきっとよく見れば山ほどいる。
しかし木下とあの男の場合、そこには歪んだ依存があったはずだ。
「やっと掴んだチャンスを逃しまいと、俺はバイト先をこっそり探した。高卒で今までニートの俺を雇ってくれる場所なんてなかなか見つからなかったけど、やっと、三崎さんの家から五駅離れた駅前のコンビニで働かせてもらえるようになったんだ」
それが昨晩、木下に会いに行ったあのコンビニか。
誰も木下の本性も過去も知らない。みんながみんな、他人のくせに名前を忘れた親しかった誰かを呼ぶように笑っていた。それが当たり前で、名前を忘れたことを誰も責めない。そんな緩やかな壁をつくっているようだった。
「俺、本当に嬉しくて。きっと三崎さんも喜んでくれると思って、アルバイトを始めるって言ったんだ。そしたら三崎さん、血相を変えて……俺から離れるな、お前に働く資格なんかない、って。また、無理矢理ヤられて……」
何で一緒になって喜んでやれなかったんだろう。
木下裕也という人間は、きっとあの男が想像するよりも普通だ。
普通にクラスで授業をうけ、普通に友達と新しい何かの話をして、普通に誰かに恋をして胸を痛める。ごくごく普通に生きていたはずだ。
何でそんな当たり前のことを、一緒にしてあげられなかったんだろう。
木下と一緒に、泣いて、怒って、笑ってあげれば、それだけでよかったはずなのに。
「ははっ、もう無理だと思った。一緒に喜んでくれなかったのが辛かったし、そろそろ解放されると期待してたから尚更、終わっちゃいなかったんだと思って目の前が真っ暗になった。俺はこの先、ずっとこのままなのかと思ったら怖くなった。……日比谷に、喧嘩して家を出てきたって言ったでしょう。バイトを始めた理由も、全部、日比谷に嘘ついた。俺、本当は逃げてきたんだ。バイト先の情報は漏らしてない。だからその近くで、また一から、自分ひとりで始めようって」
俺が彼を見ていない空白の八年間、一体どれほどの幸福と不幸が彼に舞い降りたのだろうか。
少なくともひとりぼっちだった木下を助けた男の行動は、間違ってなんかいなかったはずだ。どこで、なにを間違えたのだろう。
「そう思っていたところで恵太さんと出会って、あの店で日比谷に再会した」
『今晩泊めてよ。行くところないんだ』
あのとき木下は、何を思って言ったのだろう。
「両親は……」
「俺の両親、離婚しててさ。父親とはもうずっと会ってない。母親は再婚して、新しい子供ができて俺のことなんて気にしてない。昔からよく黙って遊びまわってたから、今更なんとも思わないんでしょう」
「じゃあ木下の味方は、あの人だけだったんだな」
嬉しそうに、でも悲しそうに、彼は「……うん」と呟いた。
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