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となりどうし◇02
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「いらっしゃい」
いつもと変わらない落ち着いたジャズの音楽に暗い照明。
俺はカウンター席に着いて、すべてお見通しというふうに仁王立ちする恵太さんに苦い笑みを見せた。
「聞いたわよ。裕くん、出て行ったんだってね」
「……誰に?」
「本人よ。朝早くにお店に来てね、出て行くから、良ちゃんをお願いって」
「そう……。恵太さんには挨拶したんだ。俺には、置き手紙と鍵だけで」
「こんなことで嫉妬してる場合じゃないでしょうっ」
情けない、と二度目の苦笑いを浮かべて「そのとおりだ」と呟いた。
「恵太さん、いつもより強いお酒をちょうだい」
「酔い潰れようなんて思ってないでしょうね?」
「まさか。明日も仕事だよ」
酔ってこの辛さが消え去るのなら酔いたかった。でも虚しさは増すばかりで、きっと醜い本性が現れてしまう。ただいつもと違うことをしてみたいだけだった。
恵太さんは仕方なさそうにカウンターに酒を出して、アタシも付き合うわ、と乾杯をした。
カチンッと、甲高い音が静かな店内に響く。
「……ありがとう、恵太さん」
「これから毎晩来るつもり?本命がいる子なんて、誰も相手にしてくれないわよ」
「はは、やめてくれよ」
木下と約八年ぶりに再会をしたあの晩を思い出していた。
あの日も彼は、いじわるな笑みを浮かべて俺の左手薬指をからかった。
ただ純粋に恋をしていたかった。木下裕也という男のあどけない表情を、ただ美しく愛おしいと素直に言えた純粋無垢で幼稚な子供のままでいたかった。
俺たちは大人になるにつれて参考書をコピーしただけの頭を誇りと感じ、妙な偏見に怯えて生きてきた。まわりと合わせられる協調性こそが正義で、まわりと違うことをしようものなら声を揃えて誰かが悪だと叫ぶ。それが正しいわけじゃないと頭では理解していても、宗教と化したそれに反論するための口も足も残念ながら持ち合わせていなかった。
「良ちゃん、そんなに飲んでどうするのよ。もう三杯目よ」
恵太さんの心配する声が遠く聞こえた。もう既に何かを求める感情もなしに、機械的に手元がグラスを口に運んでいた。
「もう裕くんはいないのよ。飲みすぎたって、誰も助けてくれないんだから」
「恵太さん、木下は関係ないじゃないか」
「お酒ばっかり飲んで、身体悪くしたって知らないわよ。健康管理して食事出してくれる人なんていないのよ」
「恵太さん、」
「なんで……なんでちゃんと、捕まえておかなかったのよっ」
ふと、ポタリと机に小さな水の輪ができた。
「え」
瞬きをするたびに零れ落ちるそれが、自分の目から溢れ出ているものなんだと気付いたのはしばらく経ってからだった。
「良ちゃん……」
抑えよう、抑えようと手のひらで覆ってみても、無意識のうちに流れ出るそれは言うことなんか聞いてくれやしない。
「あ、れ……おかしいな、なんで俺、」
次第に嗚咽が酷くなって、自分の声じゃないみたいな高い声が繰り返し聞こえていた。
そんなふうに、他人事のように考えていた。
木下裕也。
彼が部屋を出て行って泣かなかった自分に、正直安堵していた。
こんなのはおかしいと内心思っていたし、いつまでも続くはずないと覚悟はしていた。だから彼がいなくなって、泣かずにいられている自分にほっとしたのだ。
でも思い出してしまうんだ。
家に帰るとエプロン姿の木下が迎えてくれて、温かい手料理を食べながら下らないテレビ番組を眺める。自然な流れでお互いに今日の出来事を報告して、しばらくすると食器を洗う音が聞こえてくる。順番に風呂に入って同じベッドで眠る日々。
変わらないと思い込んでいた。
大学生のときから住み慣れた部屋のはずなのに、思い出すことは木下のことばかりでーー棚に並ぶ一人分多い食器、二つ寄り添う色違いの歯ブラシ、作れもしないのに取り残された食材たち。俺は明日からどう生きたらいい?木下がいなかった日々を忘れてしまった俺は、どう生きていけばいい?
いくらテレビを付けたって静かすぎるこの部屋も、一人では広すぎるダブルベッドも、行き場をなくしたこの声も。
俺はいつだって、あの日の木下を探している。
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