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三十七
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ファイルを何冊か抱えたチャウを迎い入れた時には電話は終わっていた。ヨシキを出国させる手筈が整い次第実行に移し「人質」を受け取る。CIAの手荷物にしてもらう事を言うと斉宮は呆れたように鼻をならした。「笑える案ですが、気に入りました。」そう言われて気分が上向いた。あの男は滅多に気に入ったと言わないからだ。
ヨシキとの会話は尻つぼみに終わってしまった。互いの顔が見えないというのに耳元に声だけが聞こえるというのは何とも覚束ない。こんな不完全な接触なら顔をみるまで欲望を溜め込んでいるほうがよっぽどましだと告げるとヨシキは言った。
「俺を忘れていないならいいよ。信じる人間のいない場所に一人で寂しくないか?」
寂しい・・・その感情を私は持ち合わせていないと信じてきた。
愛情深く両親に育てられたわけではない。私のまわりには「教える」人間たちが沢山おり、父がその集団を束ねていた。映画にあるようなキャッチボールで遊ぶような相手ではなかったのだ。
つねに上にあり続け、空から見下ろす存在。
弟とは別に暮らしていたし、身の回りの世話をする係がいた。家庭料理ではなく住み込みの調理人が用意したものを食べる。
寂しいというのは自分を慈しむ存在があり、そこから与えられる温かい心を知った者が感じる事だ。
私のおかれた環境にはなかったものだ。
今朝目覚めた時、無意識に隣に手をのばした。そこにはシーツ以外なにもなく、温もりもすり寄ってくる身体がない空っぽの空間だった。
その時、私が感じたのは何ともいえない気分を落す感情だった。理不尽な扱いをうけているような、期待を裏切られた残念な気持ち。
あれが寂しさだというなら孤独という言葉に初めて色がついた。灰色をしたユラユラ揺れる空気のようなものが全身を蝕んでいく。
目を閉じて最初に浮かんだのはヨシキの笑顔で、心臓のあたりがキリっと痛んだ。
いままで当たり前であった一人寝と目覚めがこうも私に変化をもたらせるとは。
いや、違う。私に変化をもたらせたのはヨシキ、その存在だ。
「ああ、今朝ベッドに一人だと・・・その時ヨシキの顔を思い出した。横にいないというのは心を沈めるな。早く我々は逢わねばならない。ヨシキがいない此処は私にとって正しい場所ではないのだよ。
権田や斉宮と手筈を早急に整える。早くお前に・・・逢いたい。」
「わかったよ、コウ。俺も・・・早く逢いたい。」
自分の名前を呼ぶ存在が確かにある。私のために生きる兎、私の中で生きている兎。
月という監獄に閉じ込める私。
我々を見上げて遠吠えを繰り返す銀狼・・・。
私の周辺は随分単純な構成になる・・・たった一羽の兎によって大きく変わったのだ。
私、そして私の王国が。
握っていたペンがカタンと音をたてて机の上を転がった。
その音で我に返り、自分がすっかり深く思考のなかに埋もれてしまっていたことに気が付いた。
チャウは机の向こう側から見つめてくる。どうしてしまったのだと考えていたのだろう。
他人の前で私が深く潜ることなど無いのだから。
「向こうに。」
ソファとテーブルがある方向を指差すと、チャウは頷きファイルを抱えてそちらに歩き出す。
私は机の引き出しから小さなケースをとりだし握った。
チャウと向かい合って座る-さあお前とのお別れの儀式をはじめよう。
テーブルの上に握っていたケースを放り投げる。
シルバーのピルケールはクルクルと不規則に回転したあと動きを止めた。
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