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遠い
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「取り敢えず痩せ過ぎだよ、しばらく見ないうちに。ここ数日なにしてた」
向かいに座る田崎の鋭い視線は僕を頭から爪先まで刺すように見ていて、僕は思わず体を小さくした。膝の上で手を固く握り、僕はヘラリと笑ってみせる。
「…ここのとこあまり食欲なくて、そんなに痩せちゃったかな」
ふうん?と心配する訳でも疑う訳でもない様子で田崎は笑った。
「バイトは無断欠勤?」
「あ…いやでも、先週たくさん入ったから今週はいいよってマスターに言われてたから」
いつもと場所が違うからか緊張する。無音の室内は田崎と僕以外に誰も居なくて、バーのカウンター越しに出会うのとは全く違った。
「まあでも、こうして来てくれたから僕は嬉しいけどね」
僕はそれには何も答えず、田崎の顔を見詰めた。
「…そういうこと、するんでしょう?」
遠慮がちに尋ねた言葉は沈黙に消えていく。田崎は尚も笑顔を崩さなかった。田崎が立ち上がる時に軋んだ椅子が無機質な音を立てて僕はちらりとその椅子を見た。僕のすぐ側に立った田崎にくいと顎を掬われ、顔を上げさせられた。こんな至近距離で田崎の顔を見た事があっただろうか。
その瞳と真っ直ぐ対峙した時、僕はまた吸い込まれそうな感覚に陥った。何を考えているか分からないと思っていたけど、その瞳には寂しさとか悲しみの色が溶けているような感じがして、僕は目が離せない。
「もちろん。…だけど何か傷心みたいだからまずは話を聞こうかな」
そして田崎がふっと笑って、僕の目尻を撫でた。
「目は赤くない…けど、くまはあるね。疲れた顔をしてる」
殆ど寝て過ごしていたのにくまは消えなかったか、なんて漠然と思う。人の体温が恋しくて僕はその手に擦り寄った。
「…君は傷付いてる時ほど魔性になるタイプだろう」
僕は何も答えず、その瞳の奥が見たくてじっと田崎を見詰めた。この人にも本気で人を好いた事があるのだろうか。悲しい思い出や内に秘めた思いがあったりするのだろうか。
僕がこの男くらいの歳になったらどうしているのだろう。とっくに晴の事なんて忘れられているのだろうか。それともずっと1人で、孤独に、ただ人生を消費していくのだろうか。言うまでもなく後者だろうな。
そんな事になったら、俺の人生って一体何だったんだろう。
「もう会わないって言ったんです」
「誰に?」
「晴に」
田崎は一瞬黙ってしまったが、そうなんだ?とまた笑った。どういう意図を含んでいるとか考えるのももう面倒になってきて、僕はゆっくりと視線を逸らした。
「…ゲイだって知られた瞬間に頭が真っ白になりました。不倫の事もばれちゃってたみたいで。軽蔑されるんじゃないかと思って、向こうから突き離されるくらいなら自分から離れないとって」
はは、と力無く笑って見せたけれど妙に虚しくて僕はまた膝の上の手を強く握り締めた。こうしていないと声が震えそうなのだ。目頭が熱くなって、枯れたはずの涙がまた溢れそうになる。
「…でもこれで、これ以上晴から男としての“普通”を奪わなくて済むし、僕も会う度会う度うじうじ悩まずに済むから…よかった、のに」
ふと、いつかの晴を思い出した。
急に後ろから抱きしめてきて、僕の肩に顎を置いて安心すると言った晴。朝ごはんを作っている僕を後ろから急に抱き締めて、味見途中に火傷した僕に酷く焦っていた晴。優しくキスをしてココアの味がすると言った晴。泣いている僕の頭を寝ぼけながら撫でた晴。
晴が帰る後ろ姿も、晴が彼女に返信している指先も、何も考えてなさそうな綺麗な寝顔も全部全部寂しかった。セフレのような関係を思い知らされる度死にたいくらいだった。
それなのに今思い出すのは、優しくしてくれた晴ばかりだ。あの笑顔が、僕がずっと大好きだった笑顔がどうしても恋しい。
ぽたり、と固く握った手の甲に涙が落ちた。
「…解放されると、思ったのになあ」
涙交じりの声になってしまった。僕は涙を拭いもう一度笑ってみせる。ひどくちっぽけな自分が居た。
「まあ当の本人はどうも思ってないかもねー?君がゲイでも、不倫してても。君がどんな男と寝ててもね」
田崎の馬鹿にしたような声が僕の心を抉る。
「それならなんで…っ」
それならどうしてあんなに激しく抱いたんだろう。どうして苦しそうに僕の名前を呼んで、揺れた瞳で僕を見たんだろう。どうしてあんなにたくさんの「傷痕」を残したんだろう。
「なに?」
「キス、マークが…」
「それを独占欲か何かかと期待して喜んでるんだ?」
「ちがっ…!僕はただ…!」
頬がカッと熱くなった。更ににやりと冷酷な笑みを浮かべた田崎に、何も言い返す事がなくてこれじゃあまるで図星だ。言い返したいのに言葉が見つからない。
「じゃあ見せてごらん。僕が独占欲なのか何なのか見てあげるよ」
僕はずっと、晴みたいになりたかった。
自由で、芯があって、他人に流されたりなんか絶対にしない。弱くて自分が傷付く事ばかり恐れている自分とは全く違う。作り物の笑顔ばかりを貼り付けた僕とは全然違うから、惹かれた。けれど僕はどこまでいっても僕だし、卑屈のままでずっと変われない。
汚くて、狡くて、今からしようとしている事も褒められた事じゃないのは分かってる。
もともと僕なんかが晴に想いを寄せて側に居たいなんて思うのが間違いだったんだ。
「恥じらいのあるのも好きだけど、どちらにせよ脱ぐんだから。今日はそのために来たんだろう?」
____________ 井上くんなら大丈夫だよ
いつだったかそんなふうに言ってくれたマスターの声が、どこか遠くで聞こえた気がして遠い昔のように思えた。
良い恋愛をしている人だ。
今の僕には、とても眩しすぎる。
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