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鳥籠
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開け放った窓から雨の混じった風が吹き込んで僕は思わず目を瞑った。ここからあの真っ黒に濡れていくアスファルトまでの距離はどのくらいだろう。痛いかな、痛いだろうな。
人にはきっと自分でどうにかしないといけない時があって、それは誰かに頼っているだけじゃ駄目で、自分が行動しないといけないのだ。ずっとどこか受け身で生きてきた。誰かに何かされたから、言われたから、自分の本意ではないけれど、なんていつも逃げ道を残していたのだ。
僕に残された道は何だろう。このまま岬とアメリカ暮らし。一生鳥籠の中の小鳥のように?そんないいものじゃないか、どうせセックスを要求される毎日だ。
それなら、ここから飛び降りてせめて岬から逃げ出すくらい僕にだって許されてもいいだろう。
僕を突き動かすのはただの衝動。
浅はかだけれどそれでもいいと思った。僕の人生どうしようもなくついていない。なら一か八かやってみようなんて、正気の沙汰ではないと思われるかもしれないけれど。
なあ晴。僕もう晴に一生会えない気で居たんだ。
僕の気持ちはどこか晴れやかだ。
踏み出す足にぐっと力を入れ、僕は身を乗り出した。見下ろした先には目を白黒させた晴が僕を見上げていて、たぶん、やめろと叫んでいる。
窓枠を摑む手を離した時、ふっと自分の体重が消えてしまうような感覚に陥った。
*
「恭介!やめろ、そこからおりろ!」
一目散に駆けていったかと思うと勢いよく二階の部屋の窓が開いて、すぐに恭介が身を乗り出した。雨脚はますます強くなり、ひんやりとした風が吹き付ける。恭介が着ているワンピースのような真っ白の布が風になびいた。
まさか、飛び降りるつもりか?
俺は急いで窓の下に立ち、恭介を見上げる。今にも身を投げ出しそうな恭介は儚く消えてしまいそうで、俺は気が気でない。
恭介はぼんやりとこちらを見ているようだった。先程までの恐怖はまるでなく、穏やかな表情を浮かべているように見える。
窓枠に添えられていた恭介の細い手がゆっくりと離れて、またふわりと白が揺れた。より外に身を乗り出したことでその揺れた裾も恭介のなめらかな髪も雨で濡らしていく。
その瞬間、俺はごくりと唾を飲み込んだ。まるで一羽の鳥が飛び立つようにそれは自然で、恭介のその背中に白い翼でも生えているんじゃないかと錯覚を起こすような。
全ての音が消えスローモーションのように感じた一瞬を遮ったのもまた一瞬だった。
羽交い締めにするように背後から岬が恭介の首にがしりと腕を廻し、飛び降りようとしたその一瞬を阻止したのだった。
なかなかついて行かない頭に後からじわじわと恐怖が実感として湧いてきて、もし本当に恭介が窓から飛び降りていたらと考えるだけで血の気が引く。翼なんて生えているはずもなければ窓の下で見上げているだけの俺に受け止められる保証なんてないのだから。
「勝手な事しないで恭介くん…僕を選ぶって言っただろう」
気が動転しているようにも見える岬は恭介を尚も拘束しその細い首に何かキラリと光るものを突きつけた。細身のカッターのような刃物である。
「晴くんだっけ?早く帰ってくれ、頼むから…!君がこれ以上邪魔するなら…」
見せ付けるように岬はゆっくりゆっくりとその銀を突き立て、恭介の顔が苦痛に歪むのが分かった。どうしてこんなことになったのか分からない。思考がついて行かない。どうしたらいいか分からない。体が動かない。何が正解で、何が間違っていて、俺は一体何の為に来たのか。どうして何もできないのか。
ぐらぐらと揺れて崩れてしまいそうな思考の中、誰かが俺の肩を叩いた。その人は紺の帽子に紺の制服の_________
「警察…?」
頷くのを見るや否や俺はその腕に縋り付き、恭介を助けてくれと馬鹿みたいに繰り返す事しか出来ずに
「夏目晴くんだね、後は私たちに任せて」
結局、恭介を救い出したのは俺ではなく警察官達だった。何でも田崎が念の為に様子を見に行くよう連絡していてくれたらしい。ただ事ではないと判断した警察官は数人の応援を連れて突入し、岬は逮捕された。
救出された恭介は虚ろで、ただ薄く切られた首の傷口からは血が滲み、ただでさえ華奢な体は酷く小さく見えた。
頬を撫でても抱き寄せても恭介が無事という実感が湧かない。ただぼんやりと俺を捉えたその瞳からは涙が伝っていた。
結局現実はこんなものだろう。
映画や小説の中の主人公のようにそう上手くはいかない。恐れていた事を目にして足が竦まない訳がない。颯爽と現れて悪から仲間を救い出し、その上悪を懲らしめて都合よく丸く収まるなんて、そんなものは夢物語だ。
俺が助けに行くより田崎が行った方がよっぽどよかったんじゃないか、俺が無闇に岬を煽ったりなんてしなければ、あんなふうに自らを危険に投じたり、ましてや傷を負ったりする事もなかったんじゃないか。
無力過ぎて反吐がでる。
誰かの為に一生懸命になることはこんなに苦しくて、難しい事だったのか。うじうじ悩んでいる自分も、泣きそうになっているみっともない自分も今までのどの自分とも当てはまらない。俺を創ってきたアイデンティティのようなものが崩れてしまうようだ。
目眩のするような出来事が連続してまだまだ未熟な自分を痛感した。偉そうな事を言ったけれど俺はやはりまだまだ子供なのだ。
関係者として事情聴取を受けた後病室で眠っている恭介の寝顔を見てやっと胸を撫で下ろす事が出来た。恭介の青白い頬をそっと撫でた。安定剤でやっと眠っている恭介は目覚めない。
「恭介、俺さ」
本当によかった。本当に、よかった。
この1週間、いや2週間近く恭介はあそこでずっと閉じ込められていた。詳しい事は俺にはわからないが俺には想像も付かないほどの恐怖だったと思う。
包帯の巻かれている細い首も、強く掴まれたのか所々にある腕の内出血も、手首にも包帯が巻かれていて、どんな傷かは分からないが俺の中に溢れるのは、怒りというよりはそれをも通り越した無念さだった。
「最初はお前が何考えてんのかわかんなかったんだよな」
以前俺が恭介に言った言葉だ。あれはいつだっただろう、高校を卒業してすぐだったか。
「…でも今は自分が一番わっかんねえわ、なあ恭介…」
今はこの気持ちの表し方が分からない。一言でなんて表せない。大切なんだ、本当に失いたくないんだ。
「…お前は幼馴染とか…いた?…覚えてねえの?」
眠っている恭介から返事が返って来るはずもないのだけれど、ただ一つ確かな事は俺は昔の記憶をこれっぽっちも忘れてなんかいなかったこと。忘れたと思い込んでいたこと。
頭に浮かんだのは「運命」とかいう、これまた俺らしくもない二文字で思わず苦笑した。
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