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忘れないで
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僕と晴と二人だけの空間にしんとした静寂が訪れる。薄暗がりの中に浮かび上がる晴の横顔は相変わらず綺麗で、僕はその整った輪郭を辿るように見つめた。
忘れる、僕が晴を?
「…意味分かんない。晴のこと忘れた事なんか一度もないよ」
そうだ、忘れた事なんて無い。晴と出会ってから僕の毎日は晴を中心に回っていたようなものだ。どこで、誰と、何をしていても結局は晴のことを考えていた。忘れようと努力しても片時も頭を離れてはくれないのだ。
「…ほら心当たりもねえんじゃん。俺は忘れた事なんてなかった。」
「待って言ってる意味が分かんない、何…?」
「…自分の母親の事は覚えてんだろ?お前のガキの時の記憶、それだけなわけ?」
子供の頃の記憶。それは僕にとって大事なものでは無いような気がしていた。それは世間一般の人よりもきっと乏しいからだ。僕が過ごした幼少時代は他の子に比べて多分寂しくて粗末なものだと思う。遊んでもらった記憶はおろか父親が家に居た記憶すらない。それこそ母親が病気になってからは…
「なあ、覚えてねえの?…こうやってさ、」
不意に晴が僕の手を取り、そのまま体を寄せた。ゆらりと重なった影にようやくその距離の近さを理解してまた心臓が跳ねる。慌てる僕を他所に晴はコツンと額と額とを合わせた。
「…ちょっ、いきなり何…」
「こうやって、手繋いで」
小さく囁けば晴の長い指がまるで女の子と手を繋ぐみたいに、僕の指を絡め取りぎゅうと包み込んだ。
ドキ、ドキと鳴る心臓が苦しい。泣いた所為で熱くなっていた頬が余計熱くなり、正面にある晴の顔をちらりと盗み見た。
閉じられた瞼を縁取る睫毛は長く、今にも心臓が飛び出してしまいそうな状況なのに、相変わらず格好良いだなんて見惚れてしまう自分はきっとどうかしている。
ふと、晴の長い睫毛が揺れた気がした。
「ずっと一緒にいようねって」
晴がそう囁いた瞬間、僕はどこか高い所から突き落とされたような感覚に陥った。一際大きく心臓が跳ね、意識が遠のいていくような、言い表しようのないこの感覚は一体。
「覚えてない?」
今まで閉じていた瞼がゆっくりと開いて、直ぐ目の前にある晴の瞳と対峙した。どこか懐かしくて酷く優しい視線に絡め取られた僕はまるで身動きも取れず、ただその握られた右手が震えそうなのを悟られないようにする事で精一杯だった。
___________ ずっと一緒にいようね
酷く懐かしい感じがするのはどうしてだろう。この言葉が僕は酷く嬉しくて、それなのに同時に僕は酷く悲しかったんだ。泣きたくなるほどに。
僕はこの言葉を知っている。
この胸を締め付ける苦しさも、この握られた手の温かさも。
「…僕、それ知ってる」
止まった筈の涙が堰を切ったように溢れ出した。泣き顔を見られたくないとかそんなこともう気にして居られなくて、僕は子供のように泣きじゃくった。
「えっ、ちょ、そんな泣く?」
あまりにも僕が泣くものだから晴は慌てたように僕の頬を包み込んで、何度も何度もその綺麗な指先で僕の涙を拭った。
「あー…くそ、泣きてえのはこっちだって、本当お前は」
涙を拭うことを諦めた晴は僕を抱き締めて子供をあやすように背中を撫でてくれた。同じシャンプーの匂いがする筈なのに晴の匂いは僕を酷く安心させる。どうしようもなくて余計涙が止まらなかった。
「もういいから、今は気が済むまで泣きな」
晴は僕の背中を撫でながらまた僕の右手を取った。僕が泣き止むまでそっと繋いでくれていた右手を、僕はまたどこかで懐かしく思うのだった。
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