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優しい人
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「僕も君たちくらいの歳の時、好きな人がいたんだ。…僕の人生の中で唯一と言っていい程ね。」
僕の言葉に目の前の若者二人は押し黙ってしまって少し苦笑する。真剣に聞いてくれるのは有難いがそこまでされると気恥ずかしいというか、なんとも言えない気持ちになる。
「オジサンの昔話だと思ってさ、聞いてて」
*
20年ほど前になるか。卒業した僕は尊敬する恩師のクリニックで精神科医として働き出した。そこは所謂「心のクリニック」というやつで病院というお堅いイメージよりかは、もっと気軽に足を運べるようにと作られた温かみのある雰囲気が売りだった。そのアットホームさに大学病院や機構の病院しか知らなかった僕は軽くカルチャーショックを受けたものだ。
恩師はもともとは大学病院で勤務して居てこの業界ではなかなかに名の知れた人だ。縁あって学生の頃から良くしてもらっていて、恩師が開業したこのクリニックに誘ってもらったのである。
「おはよう田崎くん。今日から君も立派なお医者さんだね」
初日にそう言って微笑んだ恩師の顔をいまでもよく覚えている。そして、もう一人の事も。
「こちら瀬名くん。君と一緒でこの春から来てもらうことになった。彼は臨床心理士だよ、精神科医の仕事には臨床心理士との協力が不可欠だ。仲良くね」
「________ よろしく、田崎くん」
僕と同じでこの春から恩師がこのクリニックに誘ったらしい瀬名という男は、僕よりも2つ年上で絵に描いたような優男だった。
線が細く物腰も柔らかで何が楽しいのかいつも笑っている。いかにも押しに弱そうで気も小さそうな。一目見て僕の好きなタイプじゃないなとそう印象付けて、差し出された瀬名の手を握り返した。初めましての握手だね、と瀬名は微笑んだ。
僕は彼を瀬名と呼び、彼は僕を田崎君と呼んだ。
僕は正直瀬名が嫌いだった。別に何をされたとか瀬名に致命的な欠点があるからと言うわけではない。僕が嫌ったのは主に瀬名の仕事の面で、である。
受診しにくる患者は様々だ。年齢、性別、境遇や、それこそ悩みは言うまでもない。仕事のストレスで鬱になってしまったサラリーマン、ストーカー被害やレイプ被害者、夫のDVに悩む主婦、介護に疲れた中年男性など数え切れない。
僕はある程度その患者の様子を見て、どんな治療を行っていくかを考える。でも大体において精神安定剤を出したり、あまりに手に負えない患者は入院させたりと、僕は淡々と仕事をこなすだけだだった。
定時で帰れて、緊急の呼び出しも特になくて、血も見なくて済む。それでそこらのサラリーマンよりは余裕に多く稼ぐことが出来、医者というだけでそこそこと言わずかなりモテる。両親も鼻高々で、内心なんて良い仕事なのだろうと思ったくらいだ。
午前の診察を終え、昼食を外で済まそうかと考えていた時にカウンセリングルームの前を通りかかった。ああ、瀬名の仕事場か、などと思って通り過ぎようとした時、ドン!という大きな音がしてふと足を止める。すぐに女の金切り声が聞こえて何事かと部屋に飛び込んだ。
「おい何の騒ぎ…」
部屋に飛び込むと女が瀬名に掴みかかっていて、その拍子で倒れたのであろう椅子が、足のタイヤを虚しく揺らしていた。女は瀬名の胸倉を掴んでいるのか首を締めようとしているのかは分からないがとにかく怒りに任せてふーふーと唸り声を上げていた。
「お前に!私の何が分かるって言うのよ!!何も知らないくせに!」
対する瀬名は何の抵抗もせずにただ大人しく女を見上げていた。でもね、と何かを諭しているようにも見えるが瀬名の穏やかな声はこちらまで聞こえてはこない。取り敢えず放っておくことはできないので室内へ入りその女を瀬名から引き剥がした。
泣きながら怒っていた女は僕の顔を見るなり少し我を取り戻したのか、もう2度と来るものかと吐き捨て、走り去って行った。
しんと静まり返った室内で瀬名はふう、とため息をつき立ち上がるとパタパタと自分の尻を手で払って、倒れてしまった椅子を起こした。いてて、と腰を抑えているのはさっきの女の所為なのは明らかだった。
「ごめんね田崎くん、ちょっと助かった」
いつもと何ら変わりない穏やかな声で瀬名が言う。僕は少しぴくっと反応してから何でもないように答えた。
「………いや、別に」
こちらを振り返って、でもありがとうとにこりと笑って見せた顔があまりに弱々しくて、こんな顔で笑っていたのかとショックのようなものを受けた。
「何が、あったんだ?」
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