アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
無いもの
-
瀬名との関係は、一年くらい続いた。
好きだと伝え合うとか恋人になるとかこれといった進展はないままずるずると、なし崩しに続いた結果だ。泥沼から抜け出せないみたいにズブズブと、僕たちは中途半端な依存を続けた。
勿論、瀬名との距離が縮まったところで仕事面で何かが改善されるというわけではなかった。僕がどんなにもっと要領よくやれと言っても、瀬名は相変わらず患者一人一人に入れ込むやり方を変えなかった。
そのせいでボロボロに追い詰められていく瀬名を知っているから、苛つく。どうにか助けてやりたいのに上手くいかない、そう思うから余計に。
僕の中で瀬名という存在が大きくなっていくのは明確だった。
「君には無いものを、瀬名くんはもってるんだよ」
瀬名の仕事のとろさを恩師に愚痴っていた時のことだ。僕に無いものって何ですかと、すかさず尋ねた僕に恩師は答えをくれはしなかった。いつか君も分かるといいねと。
「_____僕に無いものって何だ」
狭いベッドの上、二度とごめんだなんて思ったあの硬いベッドの上で僕はぽつりと呟いた。見上げた天井は僕の家よりもずっと低い気がする。カーテン越しに白み始めた空が朝を告げていた。
その声に、既に起きていたのかそれで目覚めたのかは分からない瀬名が反応する。僕の方に少し身を寄せて柔らかい髪が僕の素肌をくすぐった。眠たげな目は長い睫毛に縁取られ、重そうに瞬きを繰り返す。
「瀬名にはあって、僕にはないらしい。野島先生に言われた」
野島先生とは恩師のことである。何を隠そう僕が勤めていたのは野島クリニックだ。今更だけど。
「なんだろう?…先生らしいね」
ふわりと微笑んだ。またゆっくりと目を閉じようとしている、疲れが取れていないのか。それとも僕と夜な夜な行為に耽っているせいか。布団からはみ出した瀬名の肩が冷えているのに気付いて僕は瀬名を少し抱き寄せて、薄い毛布をかけてやる。瀬名は少し目を開けてありがと、とだけ囁いた。
それから、ちょっとした事件が起きたのはその数週間後のことだ。
「性同一性障害の患者さんがいるんだ」
初めてそう言われたのは勤務後、いつものように瀬名の部屋を訪れた時。手を洗いに洗面所へ向かった僕の後を何故かついてきた瀬名にそうか、とだけ返した。くたびれた白いタオルで手を拭き未だに何か言いたげな表情を浮かべる瀬名を置いて、さっさとリビングへ向かった。
勿論すぐに付いてきて、テーブルを挟んで僕らは向かい合った。堅苦しいワイシャツの上野ボタンを外し、口をひき結んでこちらをじっと見詰める瀬名にいい加減鬱陶しくなって何だ?と尋ねると、意を決したように瀬名は話し出した。
「…田崎くんは、ゲイ…っていうか、えっとそういうので悩んだことある?」
「ないね。…そもそもはっきりゲイだとは言ってない筈だけど」
「そっ、そうだよね。そうなんだけど、その患者さんがね、凄く悩んでて…。ゲイな自分を好きになってくれる人なんて一生居なくて家族にも友達にも本当の事が言えないまま、このままずっと影に隠れてひっそり生きていかなきゃいけないのか、とか」
やけによく喋るな、と思った。百歩譲って患者に熱心なのはよくあることだがそもそもこんなに改まって話す意図が分からない。今までそういった患者もいた筈だが。
「そんなの自分次第だと僕は思うけど」
あれこれ思考を巡らせるのも面倒なので思ったことをそのまま喋ることにした。僕の言葉に瀬名は少し首を傾げてみせる。
「男が好きだろうが女を好きだろうが、自分は自分だ。ゲイだからって頭が悪いとか仕事ができないなんてことはないんだ。僕がもし男しか愛せない性癖で後ろ指を立てる奴らがいたとしても僕は誰にも能力的に劣っていない。確実に。」
能力があれば、自分が優秀なら、確実に評価してもらえる。人間関係だとか色恋だとか取るに足りないものを云々悩んでいる暇があるなら、少しでも相手に認められるように踏み出す努力をする方がよっぽど利口だ。
「田崎くんは自分に自信があるんだね…」
「悪いことか?」
「ううん、なんかすごいなって」
やっぱり田崎くんは田崎くんだね、といつものように笑うがそれでも瀬名の表情は晴れない。
「弱い奴は卑屈になるんだ。そもそもお前だって実際のところどうなんだよ、別にゲイって訳じゃないんだろう。…そういう悩みに心当たりでもあるのか?」
「…そういうわけじゃない、けど。僕はあの患者さんの気持ち分かるなって思って」
「気持ち?」
「好きな人に愛されたいってどんなに願っても叶わなくて、悲しくて、つらくて、塞ぎ込んじゃう気持ち。」
伏せていた顔をあげて遠い目をしたかと思うとテーブルの一点を見詰めて瀬名は言う。瀬名の口から発せられた言葉はまるでただの音のように僕の頭の中をぐるぐると回って理解するのに時間がかかった。
「…その人ね、寂しくなっちゃってそういうハッテン場?みたいな所に行ったらしいんだ。そこで寝た相手の人とトラブルになったみたいで。そんなこと誰にも相談できなくて、一人で怖くて仕方ないんだって。」
僕はそんな悪循環に陥るのが目にみえた行動をとることは弱い人間のする事だと言った気がする。すると瀬名はまた切なげに笑った。
「僕は弱い人間だから、弱い彼の気持ち、すごく分かるよ。
__________弱いから、人一倍愛されたいって願ってしまうんだ。」
理解しがたい話をつらつらと喋る瀬名を僕は鬱陶しく感じていた。愛されたい、どうして。他人なんてそもそも信じれたものじゃない。腹のなかで何を考えているか分からない。
「…それで、その患者に愛してくださいとでも頼まれたか」
苛立ちが募る。患者といえど他の男の話をするのは如何なものかと思う自分の感情にすら苛立ってやはり瀬名といるといつも調子が狂うのだ。
一瞬瀬名は眉を寄せて僕を見詰めた。何も言わない目の前の相手に僕はやっぱりか、と嘲笑うように鼻で笑った。
「まあ、仕事熱心なのはいいが、カウンセリングルームで情事なんて事はやめてくれよ」
「そんなことするわけ…!」
「お前は患者に入れ込みすぎて自分までボロボロになるのは目に見えてるだろう。仕事との線引きが甘過ぎる。お前を頼りにしてるのはそのゲイ患者だけじゃないんだ。子供じゃないんだからしっかりしろ」
瀬名はまたその薄い唇をぐっとひき結んでもう、何も言わなかった。
そしてその2日後の勤務で瀬名が患者に襲われかけているところを、僕が取り押さえることになる。_________これがちょっとした事件。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
86 / 87