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47.食えない男と食いたい女《side:Rika》
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* * *
まさしく脱兎のごとく走って行った背中が視界から消える。ここまで嘘が下手な人間も珍しいと思いながら、そんな正直者に嘘をつかせた張本人に意識を移した。
すると、すぐさま合う視線。ずっとこちらを見ていたらしいのに、それを気恥しそうにする気配はない。閉じたままの口元が「私に見てもらえて嬉しいでしょう」と言っているみたいだ。
けれど正直、そんな性格は嫌いじゃない。むしろ変に取り繕うよりも好感が持てた。
「俺は忘れ物をとりに戻っただけなので。では」
その忘れ物は先程目の前から走って逃げてしまった。最近の慧君の様子がおかしかったのは知っていたけれど、まさか逃げ出すほどとは……浅慮だった自分が不甲斐ない。
予想外に授業の合間に時間ができ、不意に慧君に会いたくなって帰ってみればこれだ。どうしてこうもタイミングが悪いのか、はたまた良すぎるのか、捉え方に悩む。
女嫌いの慧君には、たとえエレベーターの中だけと言えど2人きりは苦痛だったに違いない。その上、俺のことをペラペラと話されれば、その辛さは倍増では済まないだろう。それが容易に想像でき、心の中でため息をつく。
それと同時に、今日は慧君の為のご機嫌とりメニューを作ろうと決めた。買い貯めしてある野菜が傷まなければいいけれど、そうなったとしても必要な損失だと思えばさほど気にもならない。
瞬時に脳内でこの後の算段をつけつつ、デザートを作る時間はなさそうなことに舌を打つ。さすがに仕事を放って帰ることは出来ないから、それは慧君がお気に入りの店で買うことにしよう。
「蛇光さんもお気をつけて」
本当はもう家に戻る用などないけれど、格好だけは付けておかなければ怪しまれるだろう。既に何往復かしてしまったエレベーターを再度1階へと呼ぶと、それは運の悪いことに最上階にいた。
前言撤回。やはり今日はタイミングの悪い日だ。
「獅子原さん」
階数表示の液晶を見つめていると、スーツが引かれる感覚を身体の右側に感じる。控えめそうに思えて、なかなかの強さ。そこに自信の表れを知る。
「何か?」
「今日も遅くまでお仕事ですか?」
「テスト前ですしね。それなりには」
「そうなんですね……そっか…………そっかぁ」
もしも相手が慧君ならば。そんな残念そうな顔と声で言われれば、即座に帰ってやるのに。急いで帰って一緒に過ごし、慧君が寝てから徹夜で仕事を片すのに。
「これでも教師ですからね。蛇光さんの旦那さんと違って、上に使われる者の運命ですよ」
しかしながら相手はただの上階の人で、名前と顔を知っているだけの人だ。俺にとってこの人は同じマンションに住んでいる人間でしかない。
それは男か女かも興味のない、ただの『生き物』としての存在。この先も『ただの生き物』以下になることはあっても、それ以上にはなり得ない。
俺にとって意味のある存在は一部の身内と兎丸慧だけだ。
「もう何年も教師をしていると慣れますよ。それでは」
「あっ、獅子原さん!」
この女には「それでは」の続きを想像する能力はないのか。去るつもりで行った言葉は流され、掴まれていた力が強さを増す。
布地越しに感じた他人の体温に笑うしかできない。
「まだ何か?」
「あのっ。次のお休みに、少しでいいんで英語教えてくれませんか?友達の結婚式で英語で挨拶しなきゃ駄目になって……でもあたし、昔から英語だけは苦手で」
「それなら、ご主人に頼めばいいのでは?確か海外に赴任中でしたよね?」
「主人に教わるのは苦手で……あの人、少し怖い人なの。でも獅子原さんは英語の先生をされてるし、それに優しくてすごく話しやすいから。教わるなら獅子原さんがいいなぁと思って」
間接的に一方を貶し、直接的な言葉で褒める。言葉の使い方が巧みな人だと思った。言葉だけでなく、視線も雰囲気作りも上手い。
目の前にそびえる手練の存在に、愛しの彼は何を言われたのだろう。狭い箱の中、逃げられない状況で何が起きたのだろうか。
推測する内容は下世話なものばかりだ。
言い返せない彼には、おそらく逃げるしか道はなかったのだろう。その本能的な行動に偉いねと頭を撫でてあげたいけれど、残念ながら本人は今ここにいない。
いるのは俺の腕を掴み、上目に遣った目を潤ませる女だけだ。その潤ませた目で、中途半端に開いた唇で、艶やかな声で女が囁く。
「獅子原さんに、甘えちゃダメですか?」
悲しいことに俺は甘えられるのは嫌いじゃない。ワガママな性格も、他者を蹴落とす行動も、自分をよく見せるための見栄も。
全て、大好物。
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